石川清子『マグレブ/フランス 周縁からの文学――植民地・女性・移民』、水声社、2023年 / 青柳悦子
- 6 時間前
- 読了時間: 20分
日本では稀有なフランス語マグレブ文学研究の専門書である。著者の30年に及ぶこの分野での粘り強くまた多彩な研究の成果が一冊にまとめられることで、著者独自の文学的問題設定が豊富な情報とともに説得力をもって提示されている。読者は本書によって、マグレブ文学全体の概観を日本語訳のない多くの作品への言及を通じて得ることができるであろうし、その一方で、絵画・映画・音楽の領野にも積極的に踏み込みながら展開される著者の先鋭な議論を追うことで改めて現代文学研究をめぐる洞察を深めることができるだろう。
書評者の怠慢と能力不足のせいで、この著作の刊行からこの書評記事の完成まで3年もかかってしまったが、価値の古びることのない、また類書が出ることはほとんど期待できない貴重な専門研究書であるので、ぜひ改めて広く読者の関心がこの本に注がれることを切望している。
本書を貫く立場は題名に明確に示されているとおりで、「周縁性」という観点からフランス語マグレブ文学(以下単に「マグレブ文学」とする)を掘り下げることである。フランスの植民地であった北アフリカの国々(チュニジア、アルジェリア、モロッコ)から生み出されるマグレブ文学が、フランスからみた周縁性を刻印されていることは説明を要しないが、著者はそのなかでも多重に周縁性を背負い、それを創作の原動力としている作家たちに着目する。
とりわけ著者の関心が向けられるのは、読み書きのできない同胞を前にして彼らの声と声にならない苦悶を書き記そうとする作家たちが、フランス語を駆使する知的エリートである自分と同胞との間の隔たりを前に激しい疎外感や自己への疑問に苦しみながらも、この葛藤ゆえに文学創作へと向かう姿であり、その産物としての作品である。(旧)植民地出身者としてフランス社会の周縁に位置づけられるだけでなく、みずからの同胞に対しても周縁的な存在であること、それでいて同胞とのつながりの上に自己を規定し、同胞を描くことを文学的課題とする作家たち、この矛盾に満ちた創作者たちの姿こそが、著者が本書で探究してやまないマグレブ文学の真髄である。
マグレブ文学とは、植民地支配の(旧)宗主国の言語であるフランス語を用いて創出される文学である。したがってその定義からして、これを創作するマグレブの作家たちは本来的に、母語(と目されるもの)からの切断を、ひいては自分のもともと属している(はずの)共同体からの何らかのかたちでの切断を作家としての出発点に持っている。本書の著者にとってこの本源的な「切断」のあり方を見つめること、そして切断を出発点とした創作活動の可能性を見つめることが、マグレブ文学と対峙するうえでの研究の基本姿勢となる。
本書の副題にもあがっている「移民」と「女性」という切り口は、周縁性および外的・内的な切断という問題意識から当然のものとして浮上すると言ってもよい。マグレブ文学にはその基礎を築いた重要な作家たちとして、北アフリカ諸国の独立(モロッコ・チュニジア1956年、アルジェリア1962年)以前から創作を開始した「第一世代」と呼ばれることも多いムルド・フェラウン、モハメド・ディブ、カテブ・ヤシンなどの著名な作家たちがいるが、著者の関心の焦点はここには置かれない。なぜなら彼らにはある意味で自分たちの祖国があり、みずからの共同体のなかに自分を位置づけることができているからだ。これに対して著者が主に探究するのは、故国を離れ、移住者としてフランスに暮らしながら、同胞移民や祖国の同胞を描こうとした作家たちが創作した1970年代以降の作品、および一層複雑なアイデンティティの不安定さを生きた移民第二世代による、あるいは移民第二世代を描いた、1980年代から1990年代にかけての作品である。
本書の重要な基軸である「女性」という観点は、周縁性という本書の大テーマを一層の深みをもって展開させる。社会の中心からの疎外という意味では、女性はまさに周縁性を担わされた存在である。北アフリカの伝統的社会において、さらにまたマグレブ文学の歴史においても、女性はたえず不可視化と沈黙にさらされてきた。マグレブ作家たちのなかでもとりわけ日本では研究の少ない女性作家たちを中心的な研究対象として取りあげ、女性登場人物を詳細に分析する本書は、それゆえ新鮮な感触を読者にもたらすであろう。男性的なものと認識されがちなマグレブ文学を女性という新たな観点から見直すことができる本書は、フェミニズム文学研究の論考としても重要な意義をもつ。
本書の魅力として数々の面での研究上のオリジナルな開拓姿勢があげられるだろうが、その背景として著者の経歴にも触れておきたい。著者は、1990年代にニューヨーク市立大学の大学院でフランス文学を専攻し、修士号および博士号を取得するという、いわば異色の学歴を有している。博士論文(1997年)はシュルレアリスム文学研究であるが、米国での大学院時代に著者はマグレブ文学研究を熱心に学んだという。このアメリカでの学歴が、他の多くのフランス文学研究書やマグレブ文学研究文献にはみられない風通しのよさを本書にもたらしている。「フランス語圏文学」の一環に位置づけられるマグレブ文学は、フランスを基軸にして論じられやすい。しかし英語圏での研究歴を出発点にもつ著者のマグレブ文学へのアプローチは、縦横に英語圏の論文・著作を駆使して展開され、そのことが実際、本書の随所で、固まりがちな議論の突破口を開いている。
「本場」アメリカで、ポストコロニアル研究の隆盛のまさにただ中に身を置いてマグレブ文学研究の研鑽を始めた著者による本書が、フランス語作品を対象としたポストコロニアル研究の最良の成果の一つであることは間違いがない。脱植民地化の進展とともに複雑化する多言語・多文化状況に関心を注ぎ、旧植民地から生まれる作品に熱い視線を向けるこの学術潮流はまさに本書に確たる研究地盤を与え、本書をして20世紀現代史という大きな歴史文脈の中にマグレブ文学作品を明確に位置づけることに成功させている。しかしながら著者は、マグレブ文学といういわばニッチな研究対象に取り組んでいるおかげか、ポスコロ研究の“王道”に安易に溺れることなく、ポスコロ研究を相対化し、声高にではないが痛快にそれが陥っている閉塞を突き抜ける道を差し出す。たとえば支配/被支配の対称性など議論上のさまざまなクリシェが各論の掘り下げのなかで突き崩され、ずらされるさまも読者は目にすることになろう。学術的伝統を重んじた丁寧な検討を積み重ねつつ、たえず議論をもう一歩先へと押し出し、新たな展望へと果敢に踏み込んでいく研究者としての著者の誠実さと胆力には敬意を禁じ得ない。
*****************
さて本書の具体的な内容であるが、全体は三部構成で12章から成る。分析の主要な対象となるのは男性作家タハール・ベン・ジェルーン、そして3名の女性作家アシア・ジェバール、レイラ・セバール、ヤミナ・ベンギギである。各作家に2章ずつが(ときに交差配列的に)当てられ、さらにテーマを立ててさまざまな作家・作品を横断的に論じる章が3つ、また本論最終章は理念的な総論としてマグレブ文学の文学史上の定位を論じる。そのほかに序章と終章が付され、豊富な情報にもとづいてマグレブ文学の包括的な理解へと読者を導く。
以下、上記の4作家を軸にして著者の議論をたどりたい。
■移民労働者の現実を掘り起こした作家としてのベン・ジェルーン
1987年にゴンクール賞を受賞して有名作家となり、日本でも『砂の子ども』や『聖なる夜』などの小説やエッセイによって幅広い人気を得てきたモロッコ出身の作家タハール・ベン・ジェルーンについて、彼の『不在者の祈り』の訳者でもある著者が本書で示すのは、むしろ一般読者には知られていない初期の1970年代までの彼の活動である。
第1章ではベン・ジェルーンが1960年代のラバト大学生時代に参加した反体制的政治意識の強い前衛的文芸雑誌『息吹』の紹介を通じて、マグレブの作家たちが「被植民者が被る文化的な傷」をみずからの出発点とし、破壊的な「反抗」の文学、「暴力性」を本来的に抱えた文学を立ち上げていく過程が捉えられ、マグレブ文学全般への導入として有益な視座が築かれる。そのうえで(第3章での議論も含め)著者が強い関心をもって着目するのが、ベン・ジェルーンがフランスへの留学後に同胞の移民労働者の過酷な実態を発見し、読み書きも仏語会話もできない彼らの知られざる苦悩の媒介伝達者となっていく様である。ベン・ジェルーンは非人間的な状況に置かれた同胞移民たちへのインタビューを重ね、彼らの性的抑圧というデリケートな、また誰も目を向けようとしない問題に踏み込んで博士論文(『もっとも深い孤独』、1977年に書籍化)を完成させつつ、この間の研究活動をもとにした小説(『孤独な禁固重労働』1976年)を刊行する。これらのテクストから本書の著者が抉り出すのは、パリ第7大学社会学専攻の大学院生として知的社会階層の上位にある作者が、フランス語で声を発することが不可能な同胞たちの聞き取り手となり彼らの読み得ぬ言語で書物を仕上げていく際に、自分自身に対して持った強い「痛み」と「恥」の意識、そして同胞たちからの「疎外」の感覚である。このジレンマこそ著者の考えるマグレブ作家の本質をなす。本書を通じて著者が一貫して掘り下げていくのは、すでに述べたようにこのジレンマの上に成立するある現代文学の軌跡である。
第2章も本書の出発点にふさわしい役割を果たしている。取り上げられるのは研究されることも稀なベン・ジェルーンの第一小説『ハッルーダ』(1973年)である。この自伝的要素の強い作品では、作家の母親と思しき女性と、頭のおかしい元娼婦の老女が語りを担い、彼女らを通じて、コーランに代表される権威的・規範的な男性的な言語と対立する、身体性と幻想性をも備えた女性たちの口語のつぶやきが小説テクストを成す。書き取られることのない母語の世界と公的言語の世界、この二つの領域のはざまに身を置き続けるというマグレブ作家の象徴が、去勢の経験に失敗する作中の少年の姿である。北アフリカ社会の内部を構成する男性/女性という二つの領域の非対称性をとりわけ女性的世界への着眼によって照らし出すこと、そして中心から遠く隔てられたその女性的世界にみずからの根を保持しつつそこから逸脱しまた脱出しようとするという二重のベクトルを生きること、これが著者のフェミニズム的視点から照らし出されるマグレブ男性作家の重要な特質である。
公的言語にならない声の文学的書記化をおこなうテクストは、美学的完成とは別の道をたどる。著者が本書の全体を通じて、また長い研究活動のなかで、極端に難解な「読みづらい」作品と取り組み続けるのは、文法的な破格や文章の断片性などがもつ小説言語としての前衛的な特質に関心があるからではなく、規範を逸れた表現でしか表すことのできない事態を文学として伝えるということにマグレブ作家たちの――ひいては文学の本来的な――使命を見出してきたからにほかならない。著者のこのスタンスにより、マグレブ文学作品の難解さに困惑したことのある読者は、その難解さの呪縛からいわば解き放たれて、作家たちが何と格闘しているのかに目を向け、より生(なま)な感覚でこの文学特有の「もがき」に思いをいたすことができる。脱植民地化のプロセスで生じる現実に向き合い、目を向けられぬままに忘却の闇に伏されていく北アフリカ(出身)の人々の生、とりわけ何重もの疎外のもとで社会の底で生き続ける人々の経験を掬いとろうとする、一筋縄ではいかない試みに本書は関心を向け続ける。
■同胞女性たちへの不可能な接近を作家的使命となすジェバール
第一部を締めくくる第3章では、マグレブ文学全般を自伝の観点とりわけ自分の属する共同体を背景とした集団的自己像の創出という観点から論じ、マグレブ文学に広く共通する創作動機が明確化される。この第3章のなかでと、第5章・第7章で研究対象とされるのが女性作家アシア・ジェバールである。2005年にマグレブ出身者としてはじめてアカデミーフランセーズ会員となった彼女は、マグレブ文学者のなかでも最も成功を収めた大作家でありまた、(旧)宗主国フランスの社会と文化への同化の模範例であるように見える。しかしその代表作である『愛、ファンタジア』(1985年)の訳者でもあり、ジェバール研究の専門家でもある著者が本書で掘り下げるのは、現地の言葉に堪能ではない自分には同一化もできなければ真に接近することもできない同胞女性たちの姿を作品によって描き出すという課題が彼女の創作家人生を一貫していることであり、この作家的使命ゆえに、彼女の作品すべてが本来的なねじれをその原動力としていることだ。
執筆中断期をはさんだ1980年以降の後期の作品にばかり関心の集まるジェバールであるが、第5章でジェバール文学の本質的諸特徴をすでに明示した作品としてデビュー作『渇き』(1957年)をとりあげているのも斬新でありかつ著者の問題意識をよく示している。パリ郊外の師範学校の学生時代に発表されて「アルジェリアのサガン」ともてはやされたこの小説から、著者は、作家の分身とおぼしきプチブル女子大学生と現地でむしろ伝統的価値を重んじながら生きるその女友達との交流を通じて現代アルジェリアの女性をめぐる社会状況がいかに模索的・挑発的に再提示されているのかを分析していく。そして第7章では、オリエンタリスム絵画の代表作であるドラクロワの「居室のなかのアルジェの女たち」を下敷きにして、まさに挑戦的に(フランス語では)同名のタイトルを冠した短中編集『アパルトマンのなかのアルジェの女たち』の緻密な解析をおこない、女性作家として初めてこの絵画への応答をジェバールが果たしたこと(この行為は、女性めぐる問題を提起するこの絵画の議論から発言者としての女性が排除され続けてきたということを告発するものでもある)、しかもジェバールは単にオリエンタリストの典型であるこの画家の視線を批判的に逆転させるだけでなく、あえて作家たる自分が同胞女性たちに対して画家のそれと相似的な外部からの視線を注ぐ立場にあることに自覚的であると分析する。著者のジェバール論からは、女性として作家であるとはいかなることなのか、しかもマグレブの女性を描く(フランス語使用の)女性作家とはいかなる課題と困難を引き受ける存在であるのかを私たちに教えてくれる代表者としてのジェバールが見えてくる。映像作品を含めたジェバールの全著作・創作に精通した著者の議論は説得力があり、的確な具体的論点をもとに展開される論述は読者をも分析のプロセスに引き込んで、マグレブ文学研究の醍醐味と意義を体感させてくれる。
■移民家族の母たちの現実と娘たちが拓く可能性――レイラ・セバール
第6章と第8章で展開されるレイラ・セバール論では、移民労働者の妻としてフランスに渡ってきた女性たちと、移民第二世代の若年女性たちに向けるこの作家の視線が入念に追われる。セバールはアルジェリア生まれだが、母親はフランス人で、アルジェリア人の父はフランス学校の教師であったため、フランス語の環境で育ち、1959年、18歳のときからフランスに居住しているフランス国籍者である。著者はセバールの『ファティマ、辻公園のアルジェリア女たち』(1981年、邦訳は著者)を通じて、まず、作者が自分とは境遇の全く異なるマグレブ移民労働者の妻たち、すなわち新たな移民移入の制限と並行して1977年にフランスで施行された「家族呼び寄せ法」によっていきなり北アフリカの農村地帯からフランスに移り住むことになった女性たちの生きる現実に目を向け、文字文化とは無縁の彼女たちが郊外団地の片隅で取りとめもなく繰り広げる(おそらくは方言アラビア語での)つぶやきをフランス語文学テクストと成したことに強い関心を向けて、その特徴と意義を探る。
この小説の最後では母ファティマの娘は家出を敢行するのだが、この家出少女を主人公にしたとみてよい『シェラザード、17歳、髪は褐色の巻毛、眼は緑色』(1982年)をめぐる丹念な議論は、ジェバール論とともに本書の中核に位置づけることができよう。この小説を論じるにあたって、北アフリカからの移民の子らを指す「ブール」という呼称がフランス社会において注目を浴び、彼らの存在と自己主張に関心を寄せることで「多様性」肯定への息吹が醸成された1980年代のフランスの世相が、丹念な情報提供とともに明確に再提示されているので、本書の読者はこの奔放なテクストの歴史的・社会的な位置づけを視座に据えて作品内容の解析に進むことができる。
とりわけ、『シェラザード...』の主人公であるブールの家出娘がアイデンティティを模索しながらさまざまな知識を学び、フランスの知的・芸術的伝統を引き受けると同時に祖国の文化との絆を自力で獲得して、成長と自己形成を果たしていく過程を抽出する著者の分析は興味深い。貪欲で冒険的なこの娘は、ハイカルチャーもローカルチャーもごちゃまぜにしながら接するものすべてから学習し、自分なりの反応をたえず返しつつ咀嚼していくことで、硬直したフランス社会のものの見方をも覆していく。ブールの若者たちが痛快な逸脱者であり、それなりに貴重な仏社会の構成員とみなされていた時代をこの小説はみごとに捉えているのであり、マグレブの移民文学がたしかにフランス文化の一翼を担っていた、あるいは少なくともその兆しが生まれていたのである。ただし、セバールが1991年に発表した次作では女主人公の活動の場が他国へと移されているとおり、仏国内での移民へのまなざしが変化し、移民とフランス社会との出会いから生まれる希望は過去のものへとなっていく。周知の通り、多様性称揚の時代はあっという間に厳しい変質を余儀なくされたのである。
しかし、だからこそ、この一過性の、稀有な状況のなかで、誰にも継承されない一回きりの生の冒険をたくましく展開するセバールの女性主人公がその無手勝流の放浪を通して残してくれたものには多様な意義を見出すことができる。著者はとりわけ、セバール作品の価値として、文学を、純粋に高尚文化を目指す場ではなく、無節操なまでに大衆文化的要素がちりばめられた、私たちの生きる現実そのものを反映した不統一な場となしている点を評価する。本書巻末近くでもセバールの作品を「このゴミ溜めにも見える集積所としてのテキスト」という挑発的な言葉で形容し、高らかにその「豊饒さ」を強調する著者にとって、マグレブ文学はハイカルチャーとしての文学への反逆の寵児として愛でられているように思われる。評者も含め、文学研究をなりわいとしてきた者は、可能な限り文学を知的洗練のものさしで見ようとしてしまう。たしかに20世紀において、文学は知的・美学的装置の範であっただろう。だが自分が書かずには存在すら知られぬままに消え去ってしまうという危機感に迫られ、自分とは異なるが自分と切り離すことができない無名の、地を這うような人々の生を描き出そうとする本書でとりあげられる諸作品のおかげで、文学へと向かう狂おしいまでの情熱と高尚さへの拘泥からの潔い決別とが対を成している様を私たちは知ることができる。
■移民家族の経験の忘却に抗うヤミナ・ベンギギと大衆文化というツール
セバール同様、フランス本国よりも英米圏での研究蓄積が厚いのが、ヤミナ・ベンギギであるが、まさに著者の問題意識にとって、ベンギギの創作物はきわめて重要な意味をもつ。作家でも映像制作者でもあるベンギギの代表的な仕事に、移民労働者とその家族を追ったドキュメンタリー映画『移民の記憶』(1997年)がある。移民家庭の父たち、母たち、そして子どもたちのそれぞれを三部構成で描き出すこの作品をめぐっては、第1部の移民労働者男性たちの姿がより頻繁に注目の対象となってきたように思うが、ここでも著者が視点を置くのは「母」たちである。そして突然いや応なくフランスで生活することになり、故国の共同体からも仏社会からも隔てられ、家庭でも夫の権威下で従属を強いられてきた彼女たちの声にならない訴えを私たちが想像する間接的な手立てとして、第8章では、この作品でベンギギが象徴的に用いたアラビア語ないしフランス語の流行歌に注意を向ける。とりわけ全体のテーマ曲として何度も作品で用いられるのが、エジプト出身のダリダが故郷(すなわちエジプト)への思いを歌う曲として作られたアラビア語曲「美しい、私の郷よ」であり、この曲にマグレブからの仏移民女性たちが、すがりつくほどの愛着をもって耳を傾けたことを著者は教えてくれる。流行歌こそは、物言わぬ聴き手の側の生活と心情を推し量るための貴重な情報源なのである。
さらに第9章では、物語映画『インシャーアッラー、日曜日』(2001年)の主人公である、典型的な移民家庭の母である若い女性ズィーナが、孤独の中で夫やほかの家族とは別個に、自分の居場所を模索し、自分なりにフランス社会との接点を切り拓いていくさまを、とりわけ彼女が聞いたラジオに着目しながら分析する。大衆文化ツールであるラジオは、テレビが普及する前の1970-80年代には社会的にきわめて重要な役割を果たし、裕福ではない移民家庭にとって特別に重要な文化装置として機能したのだ。移民とポップスないし移民とラジオ放送という観点からベンギギの諸作品を解析し、それまでは見えなかった彼らの姿を浮かび上がらせる著者のジャンル横断的な議論には新鮮な力がある。そして著者が具体的な情報を掘り起こしながら展開する論述の手つきは、自身はフランスでインテリの親のもとに生まれたベンギギがこのフィクション映画によって、1970年代末に急遽渡仏させられたアルジェリア女性たちのすでに20年も前になる日々の苦闘の姿を忘却の淵から救い出そうとしたその手つきと、みごとに呼応している。
なお、「水とジェンダ-」と題してマグレブ文学におけるハンマーム表象を探究する第4章では、あまり議論されることのない女性風呂というトポスに焦点が当てられ、さらにマグレブの男性作家にとっては成長の通過儀礼としての「女性風呂からの追放」というテーマがいかに重要な要素となっているかが、多様な作品を通じて掘り起こされる。一方、パリ郊外の移民街として20世紀の初めから多くの移民労働者が暮らしてきたバルべス地区のグット・ドール界隈を主題とする第11章では、この街の歴史的成り立ちを詳述するとともに、独立前から21世紀の現在に至るまでのさまざまな作品でのこの地区への言及を縦覧し、個々の作品の物語展開の隙間でここがひとつの濃密な文学的象徴空間として築き上げられてきたことを読者に示す。
また第12章では包括的なかたちで「移民文学論」が展開される。著者は「フランコフォニー」という概念や「フランス語圏文学」という分類そのものの成立背景とそれらが有する本来的な危険性を明確化しつつ、フランスの内部と外部のはざまに成立するマグレブ移民文学への視点をもつことで、近現代の一般的な文学制度・文学研究制度に対する批判的な思考が可能となることを教えてくれる。
また巻末に付された終章では、2000年以降に展開されているマグレブにルーツを持つ作家たちの創作活動や本書の主たる議論の対象となった4作家たちのその後の創作についての情報が提示され、マグレブ文学の今後について柔軟な視点から注意深い展望が提示されている。
*****************
近年マグレブ諸国では、急速なフランス語離れが起きている。マグレブ諸国が「脱植民地化」の過程を終え、旧フランス植民地という規定から離れつつある、あるいはその歴史とは別の新たな発展の道を官民ともに精力的に開拓していると言えよう。現地ではフランス語使用をめぐる世代間の断絶が露わになりつつあり、フランス語を駆使する作家・文化人の仏国籍取得・仏移住も顕著である。すでに本書が示した視角どおり、フランス語表現のマグレブ文学は今後(一つの潮流としての存在感も薄まっていくであろうが)、ますますフランス国内で発信される作品群を中心としたものになろう。
教育の普及した現代では、いかなる言語でも読み書きのできないマグレブ人やマグレブ出身の仏移民はすでにいなくなったと言ってよいので、声なき同胞の代弁者たらんとする文学はこれまでと同じかたちでは生まれることはないだろう。しかしながらマグレブを出自とする仏在住の人々が、フランス社会から不可視化された現実を生きているという状況は、現在もなお複雑さを増しながら継続している。ヨーロッパとりわけフランスでの移民排斥の風潮、なかでもマグレブ出身者を代表とするムスリム移民への敵対感情はますます顕著で、メディアでも頻繁にこの傾向が報じられているが、そうした疎外にさらされている側の移民二世・三世、あるいは新たに移住してきた人々の実相は十分に伝えられていない。彼らは今どのような「切断」の中を生き、どこに希望を見出しているのであろうか。
「中心は縁(ふち)にある」と断じたのは、制度の硬直と価値の純化の危険を告発し、雑種的であることの豊かさを生涯探究したロシアの思想家ミハイル・バフチンであった。本書の読者は、流動的で複雑な多文化状況をみずからの根とし多重の周縁性を生きる人々こそがもたらすハイブリッドな触発力に、今後も目を向けていくことができるであろう。
![]() | 石川清子(著) 判型:A5判上製 頁数:414頁 定価:6000円+税 ISBN:978-4-8010-0705-5 C0098 装幀:Gapard Lenski |


