平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書、2019年) / 小倉康寛
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戦後日本の空白とジャズの受容
1.はじめに
本書は、1970年代から今日に至るまで、日本人にとって顕著な審美判断であり続けている「カッコいい」という観念を考察する文化批評である。そこから浮かび上がるのは、戦後の日本人たちが、文化的な空白に対峙し、ジャズをひとつのモデルとした美意識によって余白を埋め、新しい文化を生み出してきたという構図である。こうしたテーマ設定の根底には、西欧の個人主義との対比が潜んでいる。10章で構成され、新書で477ページにわたる本書は大部であり、議論も多岐にわたるため、簡潔に示そうとすれば単純化は避けられない。そこで、まずは全体の枠組みの要所を読むことにしたい。
ヨーロッパは市民社会の成立によって、ブルジョワたちの個人主義とそれに基づく趣味判断の多様性を是認した。その時、問題とされたのは、芸術の「美」であった。他方、戦後は、その個人主義が、ロックに象徴される新しい文化を中心に、労働者階級の若者たちを主役として再燃することとなる。それが、大西洋を横断しながら爆発的なブームを巻き起こしていく。敗戦によって、天皇に一元化された総動員体制から解放された日本人は、その潮流に巻き込まれながら、彼らの価値観を導入しつつ、「恰好が良い」を「カッコいい」へと更新し、自分たちの理想としたのである。(97)
平野氏のみるところ、西欧社会の個人主義は、趣味判断の多様性によって確立している。この点はユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』で知られる議論を思い浮かべつつ、肯くことができるだろう。18世紀から19世紀のフランスではルーヴルを始めとする美術館が開設され、また随所で官展が開催されるようになった。これに付随して、さまざまな美術評論が執筆され、それらの文章がカフェで閲覧されるようになり、美とはなにかが市民の間で盛んに議論されるようになった。審美判断の多様化と成熟こそが、近代民主主義の基盤となる個人主義の確立につながった。平野氏はこうした社会思想史で言われていることを踏まえつつも、戦後のイギリスにおいては、労働者階級の間で、ロックがこの役割を引き継いだと述べているのである。
日本の場合、敗戦によって天皇と距離を置いたあとにこそ、審美判断の多様性が生み出されたと平野氏は見る。言い換えれば、戦前において価値判断の基準「恰好」は、天皇が体現することによって、制度的なものとなり、個人的なものにはならなかった。ところが敗戦後、天皇が一人の人間であり、憲法によって「象徴」と定められた。このことによって日本人は、いわば、精神的なくびきから解放され、判断基準の空白とも言うべきものを抱え込むことになった。この隙間を埋めようとする中で、日本人たちは「カッコいい」を探求するようになったと平野氏は見る。
「カッコいい」が爆発的に広まったのは、一九六〇年代だったが、戦後、大日本帝国の思想教育から解放された日本人が、民主主義と資本主義が発展してゆく社会で直面していたのも、この「人倫の空白」に他ならなかった。(181)
空白の中で、個々の日本人が模索したのが、漢字で表記される伝統的な規範、「恰好が良い」ではなく、カタカナで表記される「カッコいい」である。それは個人的な審美基準であり、「言わば“自分探し”」(429)としての性質を持つ。だが、それは社会現象となることで、個人の趣味に止まらず、戦後日本における個人主義の成熟という社会的な基盤を作り、民主主義の下支えとなっていったと本書は位置づけている。
「カッコいい」の追求は戦後の日本で、ジャズをはじめ、外国の音楽文化を日本が受容したことによって熟成していったと平野氏は示す。しかし問題はこれだけではない。「カッコいい」は本来、個人的な審美判断であるはずだが、その中に、商業主義や政治が巧みに忍び込み、人々を操作していったと平野氏は考える。かくして本書の課題は、個人主義の成立を論じるだけではなく、それに対して社会的な思惑が侵犯したことを浮き彫りにすることである。平野氏はこれを通じて、20世紀の日本という、容易に見渡せない複雑な時代について、ひとつの見通しを与えられるとも期待する。
「カッコいい」は民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、二〇世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。(9)
本書のフレームはおおよそ、このようなものである。以下では、構成に従って各章の概要を示したあと、私見として、本書の議論を位置づけてみることにしたい。
2.概要
第1章は「カッコいい」という言葉が、日本語において1960年代に顕在化し、1970年代に定着したことを示す。事例となるのは、半世紀前の日本におけるジャズの受容である。ここから平野氏は、日本語の来歴を遡る。「カッコいい」は太平洋戦争前の軍隊の中で使われるようになった後(銃剣の刺突の練習で上手な者を上官が褒める)、テレビの世界の用語として定着した。これを踏まえて平野氏は、『日本俗語大辞典』が「カッコいい」の典拠としている「ハナ肇とクレイジーキャッツ」のメンバーにインタヴューを試みる。彼らはさまざまなジャンルを混淆した「コミックバンド」ではある。だがジャズとしての要素を併せ持ち、多様さの中に潜むギャップによって「カッコいい」という言葉を体現する存在になったのではないか、と平野氏は見る。
第2章では「恰好が良い」と「カッコいい」は、読んだ音がほぼ同じであるが、漢字とカタカナの変換の違いに、大きな意味の違いが横たわっていることを論じる。平野氏によれば、「あたかもよし」という言葉と近い関係を持つ「恰好が良い」は、ちょうどいい頃合いを判断するものであって、「中庸」の判断である。これは理想的な雛形をあらかじめ頭に思い描いているということであって、いわば、規範的判断である。その雛形は伝統芸能であり、審美における専門的な批評家を登場させる。また戦前において、その模範となったのは天皇であったと考えておくべきだろう。
ところが1960年代から人口に膾炙した「カッコいい」は個人の感想である。平野氏は「カッコいい」という判断が「しびれる」身体的な反応を基盤としており、揺れる吊り橋の上にいる男女が恐怖心を恋愛と取り違えてしまう「吊り橋効果」にも似ていると考える。体感は個人の中で完結する判断である。平野氏はこのような体感主義が優位になることで、「カッコいい」という個人主義が生まれたのだと考える。
第3章で平野氏は19世紀フランスの美術論に注目し、画家のウジェーヌ・ドラクロワや、詩人であり美術批評家のシャルル・ボードレールが身体の慄きというしびれる感覚を重要視したと論じる。平野氏はこれを一つの革命であったと理解する。
これ以降、私たちは、新しい多様な文化に対して、誰もが、これは美しい、これは美しくないと主張する権利を与えられた。なぜなら、生理的興奮は、階級や生まれ育ちを問わず、才能を問わず、人間の基礎的な身体条件として、平等に備わっているからである。/それは、芸術への参入障壁を、事実上、撤廃した。(121)
西欧において、審美が個人的なものとなったのは、このような体感主義によると平野氏は考える。平野氏によれば、個別の感覚「しびれ」こそが、「カッコいい」という感覚を多様化させている理由である(133)。そしてこのような体感が、規範的な判断よりも重要視されるようになったのが、ボードレールの時代であり、これこそが審美判断における革命であったと平野氏は強調するのである。
第4章で平野氏は「カッコいい」の多様性を示すべく、幕末から明治初期に岩倉具視が、周囲は洋服を着ている中で一人だけ和装で写真に収まったことや、任侠映画『仁義なき戦い』シリーズでの用例「カッコつける」(ヤクザの報復を示す)を取り上げる。判断するものの立場によって「カッコよさ」の内実が変わるのである。
第5章はこうした美的判断に企業の戦略が侵入することを示す。その具体例となるのが、半年で服を新たに買い替える「ファッション・ピープル」の感覚である。ファッションの「カッコよさ」は、時代遅れの服を着ていないことであると平野氏は述べる。しかし、わずか半年で「時代遅れ」という感覚が発生するメカニズムは、ブランド側の販売戦略が、買い手の精神に浸透しているということでもある。言い換えれば、「カッコよさ」は個人の判断として独立したものではなくて、消費社会においてモノをたくさん売りたいという企業側の思惑の侵犯を受けているのである。
第6章は先行する文化研究を参照しつつ、政治的なニュアンスに目をむける。特にマイルス・デイヴィスが重要視した「ヒップ」は、西アフリカのウォルフ語の動詞「ヘピhepi」(見る)か、「ヒピhipi」(目を開く)に起源を持ち(266)、アフリカからアメリカへと連れてこられた黒人奴隷のメンタリティに密接に関わる。「ヒップ」は、ジョン・リーランドによれば「対立よりも融和」を優先し(266)、洗練を追求しながらも「可能な限りのものを取り込んでいく」(269)ことを指向する。それは「つまり、人種、アウトサイダーとインサイダー、ハイカルチャーとサブカルチャーを結びあわせ、混淆し、新しい価値観を生み出していく、という点にこそ、その本質があるのであって、ヨーロッパの趣味論で見た排他的な支配権の競争とは些か異なっている」(267)。社会や政治と、審美判断は無縁ではないのである。
第7章はこれらを踏まえて、19世紀に重要であった「ダンディ」を論じる。平野氏が示すように、この時期からして、そこには社会情勢や政治が関連していた。この事例として取り上げるのは、バルベ・ドールヴィイの『ダンディズムとジョージ・ブランメルについて』を読んだボードレールである。
ブランメルの存在が、ボードレールにインスピレーションを与えたのは事実だが、自身は貴族でもブルジョワでもなかった彼のダンディズムは、社会の腐敗に対しては、現にその内部で生きている人間として、侮蔑すれば済むほど単純ではなかった。また、貴族的なるものに対しては、そもそも自分とは無関係であり、また既に失われたものとして、多分に美化された郷愁を抱いている。 いずれにせよ、マルクスの同時代人だったボードレールの憂鬱は、ブランメルとは比較にならないほど深く複雑で、持たざる者の創造性として、モダニズムに決定的な影響を及ぼすことになった。(336)
平野氏は、ボードレールの頃は貴族制が既に終わりを迎えていながらも、民主制の脆弱さが露呈した時代であったと考える。1840年代から1850年代のフランスは概観してみれば、アントワーヌ・コンパニョンが『アンチ・モダン』で示したように、二月革命があり、また、ナポレオン三世によるクーデターがあり、物価は乱高下した。こうした騒乱の時代にあって「持たざる者」たちが矜持を保とうとした生き方が、独自の「ダンディズム」であったと平野氏は見る。それは同じ言葉であったとしても、ブランメルの頃の「ダンディズム」とは性質が違うと平野氏は考える。フランスにおける「ダンディズム」が、イギリスにおけるそれと異なるという指摘は、アラン・ヴァイアン『ロマン主義辞典』の「ダンディズム」の項目を参照しても、的を射た考察であると言える。
第8章は西欧におけるヒーロー像としてのキリストが、個人のアイデンティティの探求の手がかりとなっていったことを歴史的に追っていく。平野氏は岡田温司『キリストの身体』を敷衍しつつ、次のように説明する。イエスはもともと「カッコいい」という枠組みで語ることのできる表象ではなかった。それは世俗的な「カッコいい」という基準と宗教的な基準が交わらないからではなく、「神は受肉し、自らへりくだり醜くなることによって、人間に救いをもたらした」からである(355)。いわば、醜さこそがイエスの特徴であったと言っても過言がないほどであった。しかし『旧約聖書』『詩篇』第45の一節「あなたは人の子らのだれよりも美しく」を典拠に、ルネサンス以降、美しく描かれるように転換する。かくしてイエスの表象には「憧れと共感が入り混ざり、遠さと近さが同居している」(357)。こうしたイエスは、「真=善=美」が重ね合わされ、模倣するべき対象として目指されるようになる。
第9章は再び、近接する単語と結びつけ、「カッコいい」の位置付けを探っていくものである。一つは国際的な認知を得るようになった「かわいい」(Kawaii)であり、これは四方田犬彦の『「かわいい」論』を敷衍して示される。もう一つは19世紀フランスで通用した「男らしさ」(virilité)であり、これはアラン・コルバンの『男らしさの研究』を参照しつつも、ビュフォンの『人間の博物誌』にまで視野が広げられる。これらの中で特に問題となるのは、家長を崇拝する感情がファシズムに利用されうることである。ここで平野氏は「体感主義の悪用」(413)に目を向け次のように喝破する。
ファシズムはそもそも、絶対的に突出して「カッコよく」なければならなかった。/なぜか? 「カッコいい」は本来多様であり、多様な個人に多様な価値観を許容する。しかし、それはファシズムに於いては不都合なのである。/だからこそ、一党独裁体制下では、「カッコよさ」を一元的に党が管理し、多様化するライヴァルの「カッコよさ」を追放し、何かに「しびれ」たいという欲求を、ヒトラーやムッソリーニに直結させねばならない。(中略)レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』や『オリンピア』は、決して「美」の範疇には収まりきれない映画であり、ナチスを徹底的に「カッコよく」見せることが意図されている。(中略)ヒトラーが偉大だからこそ、鳥肌が立ったのだと信じさせることである。(412)
平野氏によれば「カッコいい」という感覚、そして体感的なしびれを政治的に最も利用した事例がナチスであり、その顕著な作品がリーフェンシュタールによるベルリン・オリンピック映画『オリンピア』ということになる。
第10章は「カッコいい」を取り巻く今日的な課題が列挙される。平野氏が感じる問題点は、元総理大臣をファイナルファンタジーの挿絵で知られる画家が「侍風に」描き出すことで、政治家の支持につなげるプロパガンダや(446)、経産省が主導する「クールジャパン」の商業的な利用などである(448)。しかしこのような政治や商業の侵犯があったとしても、平野氏は「カッコいい」という観念がなおも現代の若者に説得力を持つことを重要視する。そしてそうであるのならば、「カッコいい」をひとつの文化的装置として、あらかじめ掘り下げて考えておくことで、物事を適切に理解する判断力が養えるのでないか、と平野氏は提案するのである。
「カッコいい」について考えることは、自らの「生き方」を考えることである。それは身体感覚に根ざした共感によって人を導き、他者と結びつける。しかしだからこそ、他者との分断の引き金ともなり得、また「生き方」をコントロールされる危険も孕んでいる。(439)
このように、知らぬ間に操作されるリスクがあるからこそ、自分がなにを「カッコいい」と感じるかを批判的に見つめる必要があると平野氏は説くのである。
3.文化批評としての特徴
平野氏の書物の大きな特徴は、参照領域の広さである。しかしここでは、文化的洗練が商業や政治に利用されうるという問題、ナチスをその極端な事例として見る視点、そして文化のモデルとしてジャズを据える発想の三点をめぐって、平野氏の見解をテオドール・アドルノと対比して、位置づけてみることにしたい。
個人的なものとなったはずの審美判断において、商業や政治の思惑が侵入してくることを早い時期に照射したのは、ハーバーマスの『公共性の構造転換』の他、1955年に発表されたアドルノの『プリズメン』であったのではないだろうか。エッセイ「文化批判と社会」でアドルノは、文化の洗練の根底に、ナチス的な暴力をも招き寄せる排除の力があることを透視した。「文化と批評家との共犯関係」をえぐり出すことでアドルノが見据えるのは、文化の洗練は必ず、洗練されていない人や物を排除するということである。そしてこの排除がやがては報復の感情を芽生えさせる。「文化批判と社会」から、これを説明した箇所を手短に引用したい。
へぼ批評家に向けられた褐色シャツ[=ナチス突撃隊]の獣じみた怒りのなかには、単に文化に対する妬みが生きていただけではない。褐色シャツが文化に楯突くのは、文化から彼らを締め出すからである。(中略)彼らのサディズムは、批評家たちが実は弱いくせに抜け目なく力があるようなふりをしていることを毛嫌いしたために引き出された。(アドルノ14)
ナチスのような暴力はなぜ現れたのかと問う時、アドルノが提出した答えは、文化的な洗練を煽る批評家たちに向けられた「妬み」と、文化の排除に対する報復であった。
平野氏もまた、こうした暴力を看過していない。「流行には、確かに多様性を否定する一面がある。同時代の他の存在を「ダサい化」し、過去の存在を「ダサい化」して、一時代の趣味を独占しようとする暴力性がある」(241-242)。「ダサい」というプレッシャーがかかることによって、審美判断に、モノを売る企業の思惑や、政治的な誘導が侵犯してくることになる。流行が持つ暴力に対する批判は、アドルノと平野氏との間で共通していると言える。しかし文化がどのようなものであるべきかを考察する段階ともなれば、二人の見方は大きく異なってくる。
アドルノにとって重要なことは、文化において、商業や政治が介入しうる隙、いわば、余白を作らないことであった。この問題に対する着目は、彼のジャズ批判でいっそう、顕著になる。『プリズメン』に収録されたジャズを論じたエッセイ、「時間のない流行」によれば、アドルノにとってジャズとは、「非常に単純な構造をもっているにもかかわらず」、「音楽の流れをいわば撹乱するシンコペーションによってつなぎ合わせる音楽である」(アドルノ175)。こうした流動性は、彼の見るところ、商業的な思惑や政治的な誘導をはじめ、さまざまな要素の侵犯を許容してしまう。
[ジャズのように]それ自身の在り方から見て偶然的かつ恣意的なものの難攻不落さのなかには、現在の社会的制御の恣意が幾らか反映している。文化産業が逸脱をより完全に除去し、それとともにおのれ自身の媒体の発展の可能性をより完全に刈り取るにつれて、麻痺しつつある動的な企業はますます静止状態に近づいていく。ジャズのどの楽曲も音楽的な意味で歴史を知らず、そのすべての成分が組み換え可能であり、どんな拍子も全身の論理から帰結されない(……)。(アドルノ182)
ジャズは「社会的制御の恣意」の干渉を跳ね除けることができない。それは自律性が弱い芸術だとアドルノは捉える。彼のジャズに対する判断は否定的なものになる。「ジャズのなかには、本当は現代の全イデオロギー、全文化産業に帰属するメカニズムがはっきりと表に現れている」(アドルノ184)。そしてアドルノは産業の介入を甘受する芸術家や、その愛好家たちを「去勢」という表現を用いて、嘲弄するところにまで至る。「去勢の象徴化がジャズの実演の中に深く埋め込まれている」(アドルノ 192)のであり、そうやってできたジャズメンや聴き手との結びつきは「宦官じみたサウンド」を挟んで「インポテンツの秘密」を共有するものでしかないのである(アドルノ191)。
アドルノのジャズ論全体を考察し、その批判が行きすぎであるのか、それとも適切なものであるのかを検討することは、この書評の射程を超えている。だが「文化批判と社会」を念頭に、そのジャズ論を理解しようとするならば、アドルノがジャズの混淆性や流動性に、文化産業による操作の余地を見て、批判していたと言うことはできる。
平野氏の説く「カッコいい」は、これとは逆に、ジャズ文化や、そこでの「ヒップ」をモデルとして取り込み、また発展させることで成熟してきた。「ヒップ」の定義について、平野氏が第6章で、リーランドの定義を示し、それが「対立よりも融和」を優先し(266)、「可能な限りのものを取り込んでいく」(269)としたことを思い出しておきたい。ジャズがさまざまなものを取り込む芸術であるという理解の仕方は、アドルノとリーランドで共通し、また平野氏も同様である。しかし平野氏は、ジャズの混淆する特徴をもって日本的な「カッコいい」基準を説明している。ジャズの性質は批判するべきことではなく、むしろ、好ましいことなのである。実際、平野氏はヒップが「ヨーロッパの趣味論で見た排他的な支配権の競争とは些か異なっている」(267)とも述べており、アドルノ的な判断と一線を引いていると読める。「カッコいい」とはむしろ、諸要素を「結びあわせ、混淆し、新しい価値観を生み出していく」(267)振る舞いなのである。
平野氏は状況に応じ、柔軟に変わっていくことにも、良い点を看取る。
私たちには、時代の変化を、洋服や食べ物を通じて感じ取りたい、という欲望もある。戦時だから、派手な服は着るべきではない、などというのは、単なる迷惑だが、人間観・世界観が大きく変わってゆく時代に、それを敏感にキャッチした「カッコいい」デザインの服が流行るならば、それを楽しみたい。(242)
変化を受け入れる態度は、必然的に、本来的には交わらない諸価値を同じ地平に置くことをも引き起こす。平野氏は次のように鋭く述べている。
「恰好が良い」は、飽くまでジャンル毎の理想像だが、「カッコいい」はジャンルを横断する、あるいはジャンルを超越した理想像である。(中略)つまり、一九六〇年代以降、今日に至るまで、「カッコいい」は、スポーツカーとカラーテレビ、ネイマールとEXILE、バーキンと困っている人をさりげなく助けること(!)とを、同列に並べて、何が一番かを比較し得るような新しい意味を獲得した、ということになる。(95-96)
自動車、家電、サッカー選手、歌手グループ、高級ブランドの鞄、慈善や福祉など、それぞれはまったく別のものである。だがカタカナの「カッコいい」は同じ地平にこれらを並べる。こうした混淆はアドルノならば、退けたいものであったのではないだろうか。だが平野氏にとって主要なことは、文化の混淆する性質を否定することではないのである。平野氏は本書を次のように、しめくくる。
「カッコいい」には、人間にポジティヴな活動を促す大きな力がある。人と人とを結びつけ、新しい価値を創造し、社会を更新する。(461)
平野氏が重みを持たせる言葉は、「人と人とを結びつける」ことである。そしてこの点から翻れば、平野氏が「カッコいい」に見いだしたのは、おおらかさであると言えるのではないか。ここで言う「おおらかさ」とは、単なる寛容さではない。異質なものを同じ地平に置き、衝突や矛盾を含みながらも、なお新しい価値を作り出そうとする文化的な余白のことである。アドルノが社会的な介入の危険として疑った空白を、平野氏は新しい価値を生む「開かれ」として捉え直している、と言ってもよい。
このように見渡せば、戦後の日本に生じた「人倫の空白」(181)を利用した営みこそが、民主主義と消費社会とが絡み合いながら展開した1970年代の日本の文化の特徴であり、それが凝縮したものが、ジャズをモデルとした「カッコいい」であったと結論することができるのではないだろうか。そしてこのように、西欧の個人的な審美判断の誕生を横に置きつつも、それと一線を画すような枠組みで、日本的なものを析出したことこそが、本書の文化批評としての特徴と見えるのである。
戦後の日本の文化の来歴を描くことは必要ではある。だがそれは画一的に論じられるようなものではなく、手探りの試みである。そして1970年から半世紀以上が経った現在、震災やコロナ禍を経ることで、一口に日本人と言っても、民主主義の在り方や社会の感覚は大きく変容してしまった。誤解を恐れず言えば、「おおらかさ」は遠景にかすんでしまったのではないだろうか。日本人の来し方を振り返ろうとするとき、当時の審美判断の在り方を社会現象や政治・商業の動きと結びつけて示した本書は、ますます重要な手がかりになっていくのではないだろうか。
【引用文献】平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書、2019年)の引用は、()に頁数のみを記した。またアドルノ『プリズメン』(渡辺祐邦・三原弟平訳、筑摩書房、1996年)からの引用は、()のうちに「アドルノ」と記し、頁数を示した。
![]() | 平野啓一郎(著) 出版社 : 講談社 シリーズ:講談社現代新書 発売日 : 2019年7月17日 頁数:480頁 価格:1100円(税込) ISBN-13 : 978-4065170489 |


