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大浦康介『フランス論2.0』(人文書院、2025年)/ 菅原百合絵

  • 5月6日
  • 読了時間: 14分

更新日:6 日前

 フィクション論などの文学理論研究で知られる研究者であり、パリを味わい尽くしてきた著者大浦康介のあふれ出るフランス愛を感じずにはいられない一冊である。

 『フランス論2.0』と題された本書は、研究書ともエッセイとも言えないし、しかし同時にそのいずれでもある。著者は冒頭に、「私とフランスとのあいだにはたしかにいろいろあった」(19頁)と記す。その様子の一端は、『虚実のあわいに——大浦康介退職記念論文集』(大浦康介退職記念論文集編集委員会、2019年)に収録されたインタビューからもうかがい知ることができよう。その「いろいろ」のなかでフランス暮らしの酸いも甘いも噛み分けてきた著者が感じるのは、「日本人のフランス・イメージは、はっきり言って時代遅れ」(19頁)ということだ。彼によると、美食やファッション、シャンソンといった「おフランス」的なイメージは、多少色褪せてきているが、いまだ十分に更新されていない。本稿筆者もかなりそれに近い印象を抱いている。というより、著者の挙げているアラン・ドロンやピアフ、イヴ・モンタンといった名前は、フランス映画やシャンソンというジャンルとともに、若い世代からは影も形もないまでに忘却され、歴史の闇にすでに消えつつあるが、しかしたとえばラデュレ(マカロン)、ディオール(香水・コスメ)等といった、華やかな「おフランス」の残り香を市場での生存戦略としてうまく活用しているブランドによって、かろうじてそうしたイメージが薄れながらも延命し、とはいえ全体としてヨーロッパの経済的・文化的プレゼンスがゆっくりと低下していくなかで、そうした「おフランス」的なエレガンスの威信(プレスティージュ)はもうほとんど機能しなくなっているのではないか——憧れの国、おしゃれな国といって若い世代の人たちが思い浮かべる国は、もしかしてフランスから韓国などにとって代わられているのではないかと思うことがある。代わりに著者が示すのは「新しい、別のフランス」、受難の時代にあり、数多の困難を抱えながらもしなやかな強さを失わないフランスであり、それはひとことで乱暴にまとめてしまえば、多様性と共生の国フランスという像だといってよいだろう。

 大浦は、本書を構成する3章全体を通じてこの像の輪郭をくっきりさせ、時代遅れではない、アクチュアルな今のフランスの姿を示すとともに、そうした時流に左右されない普遍的なフランスらしさをも浮かび上がらせようとしている。

 第1章「フランス人とはどんな人たちなのか」は、そのなかでも最も本質的な「フランスらしさ」を捉えようとしているパートである。彼らの主たる特徴は、①個人主義であること、②「おしゃべり」(議論好き)であること、③享楽を是とする文化があること、だとされる。これらは三つの独立した特徴というよりは、互いにゆるやかに結びつき合っている。

 最初に挙げられる個人主義が、単なる「何でもあり」ではないということは注意すべき点だろう。著者はフランス人、ひいては西洋人の核をなす特徴を、分割不可能な(individuel)〈個〉として「屹立している」こと、自分で自分を統御できる自律的な(autonomie)存在である点に見てとっている。共同体のなかで他者と関わって生きながらも、あくまで自分で判断し、行動し、その責任を引き受けるのが「個人」であり、そこから群れない自由や、自他境界の明確な線引きも出てくるのだと。

 フランス人たちの「おしゃべり」も、集団のなかで「空気を読」んでふわっとした合意をつくる日本人とは異なり、まずは言葉にして伝え、議論する人々であるという点で、個人主義とも関わっている。その議論好みの極致として挙げられているのが、知的な言語使用としての「ディセルタシオン」であり、社交的な言語使用としての「テーブルトーク」である。この二つにおいては、つまるところ結論はどうでもよく、「優雅で、楽しく、創造的な時間の引き延ばし」(50頁)、「〈時間〉を共有し、生を共有する」(54頁)にこそ、その真の意義がある。

 このようにともに同じ時を共有し、楽しむことも含め、フランス人は貪欲に快楽を享受しようとする人々であり、彼らがいかにヴァカンス、美食、そしてコミュニケーションとしての身体接触や恋愛、セックスを重視するかということを著者は丁寧に説明する。これらが単なる肉体の楽しみというだけではなく、文化の一部をなしており、言葉と結びついている点は見逃せない。夏のヴァカンスはそれ自体としてれっきとしたフランスのひとつの文化であるし、また食にせよ恋愛にせよ、それらは人と人との関わりと切り離すことができず、また食べることと食について論じること、愛することと、愛について語ることはほとんど一体をなしているということが、本書を読むとよく分かる。こうした享楽は、肉体だけのものでも、精神だけのものでもなく、その両者の知的な絡み合いのうちにこそある。

 こうしたややもすれば抽象的になりがちな論点について、大上段に構えて理念的に論じるのではなく、著者が見聞きした実例、数々の文学や映画などの作品、そして時には統計データなども用いながら、それらを具体的に、生き生きと描き出すことが本書の説得的なところであり、それによって読み応えも増している。フランス人の性意識や性行動についての調査資料と日本のそれとを比べた時の大きなギャップには驚かされるし、著者自身が実地でリアルに見て触れた「デュラスのキッチン」をめぐるエピソードなどは、単なる論の補強を超えてそれだけでも読みものとして魅力的だ。

 第2章「フランス女性の腕力と痴力」、第3章「フランスらしさのゆくえ」では、古風な「おフランス」的なイメージを打ち破る、力強いフランスのイメージが描かれている。第2章で問題になるのはフェミニスム、それも複数形のフェミニスムである。著者は2022年にパリで女性への性暴力に抗する大規模デモを目撃したことから筆を起こし、そこで覚えた感動を記すとともに、かつてのデモとは何かが違うという変化を見て取っている。その変化とは、女たちの間の連帯が強調され、同時に、男性に対して態度が硬化しているというものである。ここから彼は、2017年のワインスタイン事件をきっかけに世界中に広まった#MeToo運動について論じ始める。ここで取り上げられるのは、ドヌーヴが署名したことでいちやく有名となったル・モンド紙掲載の共同声明「女性たちが別の言葉を解き放つ」と、#MeToo運動に対して必ずしも肯定的ではないその声明の起草者たちの思想的バックグラウンドである。著者は、この声明の核にあるものを「痴力」だとする。強い表現だが、否定的な意味ではない。彼女たちを支える「痴力」とは、「誘惑」という行為を中心におく性愛観、必ずしも女性を暴力の一方的な被害者とせず、その性的な主体性を力強く認める価値観、暴力と非暴力の間にある繊細なグラデーションの存在を認める立場、こういったものから醸成されている。「誘惑のプロセスにおける、性的関係にいたる前の男女のやりとり、駆け引き、探り合い」や「そこでの身体接触、言語接触」の微妙な領域に目を向け、性の自由、性の快楽の肯定を謳いあげる文学的な声明と、現実主義的で政治的な、「単純明快な、実効性を最優先した」#MeToo運動の言説との間には大きな差があり、前者の女性たちが主張する「ウザがらせる(importuner)」自由は、アメリカ流のハラスメント概念そのものへの挑戦なのではないかと著者は鋭い分析を加えている。たしかに、勝ったのは#MeToo派であり、声明には厳しい批判が数多く投げかけられた(本稿筆者の観測範囲では、あの声明はとくに若い世代からはあまり支持されなかったように見える)。だが声明派の主張はポリティカリー・コレクトネスとは相性が悪くても、決してアンチフェミニスムではないということを、本書は明晰に示している。その核心にあるのは快楽の発見であり、彼女たちはそれによって性的主体たることを引き受けるだけでなく、自覚的に性をエクリチュールに接続し、セクシュアリティにまつわる真理を探究する。そこに著者はフランス的な快と知の結合を見て取るのである。

 第3章では、2024年に開催されたパリオリンピック・パラリンピック開会式の感想を皮切りに、垂直的にも(≒歴史)、並行的にも(≒地理)多様なフランスの姿があらためて紹介される。その斬新さゆえに物議を醸しもしたようだが、あの開会式ではいわゆるクイアなパフォーマーが活躍しただけではなく、歌手やアスリートなど表舞台に立った人たちの人種もさまざまで、とくにマグレブ、海外県、西アフリカ旧植民地などの多様なルーツのプレイヤーが華々しいパフォーマンスを繰り広げた。しかし著者は、そこに「誰も排除しない、美しい共生」の姿を見て取ってよしとはしない。多様性の中にも、差別や暴力の源泉となってきたある種の「負の遺産」(植民地支配など)から生じた、いわば「強いられた多様性」もあることを指摘したうえで、それでもフランスには「多様性に寛容な心性、多様性をはぐくむ文化的素地」、自由の気風があり、それゆえに人々を惹きつけてきたことに言及する。もちろん、いかなる軋轢もなかったわけではない。現在も議論を呼び起こし続けているスカーフ問題をめぐって、著者は共和国のライシテという普遍主義的理念が、人々の帰属するコミュニティの文化を個々人のアイデンティティとして重んじる共同体主義と衝突することの難しさを描く。著者はどちらかというと前者の普遍主義的理念のほうに心を寄せているが、それはこの立場がヴェールの闇を抜け出して啓蒙の光で人間を照らし出すものだからであり、ここで再び性愛の問題が登場する。ライシテの源泉にある十八世紀啓蒙にはたしかに、抑圧され、人間としての権利を十分に享受することを妨げられているイスラム圏の女性たちを救いうる要素があるだろう。イラン出身の女性作家たちが十八世紀の作家たちの作品のうちに思想的闘争の武器を見出している実例が本書には挙げられている。モンテスキューの『ペルシア人の手紙』やサドのリベルタン小説は、理性とエロスを結びつけ、権力に対して性と笑いと風刺でもって抗することを彼女たちに教えたのだった。

 ここまで見てきたことから分かるように、本書は理論と実例をたえず行き来し、それによって記述に厚みをもたせることで、新しいフランス像——『フランス論2.0』というタイトルの「2.0」は決して飾りではない——を提示することに成功している一冊である。

 無数の刺激的な論点を含んでおり、さまざまな角度から考察することができる本だが、以下に二点だけ感想めいた私見を記しておきたい。

 一点め。ドヌーヴの署名記事を紹介するときに、著者がそれをフェミニスムとアンチ・フェミニスムの対立としてではなく、複数のフェミニスムの流れとして紹介した点は重要だと感じた。本稿筆者は女性運動史に決して明るいとはいえないが、しかしやはり歴史的に見るならば、声明派の思想を形づくったのは六八年五月の混沌によって精錬されていった女性解放運動MLFの流れを汲む系譜であり、あの声明も、彼女たちが(本書でも紹介されている)「三四三人のあばずれ女の宣言」などの挑発的な活動によって一定の成果をあげてきたことの延長線上にある。しかし2018年1月に刊行されたあの声明について日本語で紹介しているもののなかで、その系譜を汲んだうえで、彼女たちがどのような解放を目指そうとしているのか、そのためになぜ誘惑を擁護しなければならず、なぜ#MeTooに批判的なのかを丁寧に解説したものは管見の限り見られなかった。あの声明とそれをめぐる批判の応酬を『ル・モンド』紙で追っていた当時、筆者はフランスにおり、日本で刊行されていた書籍等をチェックできていたわけではないので、もしかしたらそうした背景について懇切に紹介している文献などもあったかもしれない。だが少なくとも当時フランスからアクセスできた限りでは、あの声明はバックラッシュとして反発の対象となることはあっても、そこで賭けられていたものが理解されている様子は感じられなかった。著者も述べていたように、フランス国内でも#MeToo派は「勝ち負け」でいえば「勝っ」ており、#MeTooに対して批判的な立場をとった論者はナタリー・エニックなどかなり少数派だった。今の時代に、こうした問題を被害と加害の二項対立に落とし込まず、正面切って誘惑の権利や性愛をめぐる駆け引きの妙を擁護することはかなり勇気のいることであり(それも男性にとってはとくに)、本書において日本語でその背景を含めて丁寧に論じられていることは、一定の意義と意味のあることだと感じる。

 二点め。フランス人の「おしゃべり好き」をめぐる著者の議論を読んでいて、ふと作家エドゥアール・ルイのことが浮かんだ。この点について書いて本稿を閉じたい。2014年にスイユ社から刊行された自伝的小説『エディに別れを告げて』で衝撃的な作家デビューを果たしたエドゥアール・ルイは、そこで自身の悲惨な生育環境について語っている(この本が自伝ではなく自伝的小説であることには注意しなければならないが)。主人公の生まれ育ったピカルディー地方の工業地帯は、衰退して貧困のうちに沈み、工場などでの肉体労働以外の雇用もほとんどなく、男性の多くはアルコール漬けで日常的な暴力のうちに生きている。主人公はこうした環境で「オカマ(pédé)」としていじめられ、凄絶な差別や暴力を体験する。ブルデューから強い影響を受け、またディディ・エリボンに師事し、社会学を学んだ著者はこれらを個人的な不幸というよりは、社会構造の観点から眺めようとする。

 フランス人のおしゃべりの話を読みながら思い出していたのは、「ジレ・ジョーヌ運動」がフランス全土を騒がせていた頃、彼が左派の雑誌『レ・ザンロキュプティーブル』のオンライン版に寄せていた記事だった。「ジレ・ジョーヌを侮辱する人はだれでも、わたしの父を侮辱していたのだ(« Chaque personne qui insultait un gilet jaune insultait mon père  »)」と題されたこの記事で彼は、この運動に参加する人々の肉体が見覚えのあるものだったと語る。それは「メディア化された公共空間にほとんど現れることがなかったような肉体」であり、「苦痛と労働、疲労と餓え、支配者が被支配者に向けるあの絶え間ない侮蔑、社会的・地理的な排除、こういったものに苛まれた肉体」、「疲れ切った肉体、疲れ切った手、打ちのめされた背中、憔悴した視線」だったのだと。それに対してメディア上で知識人が向ける非難にエドゥアール・ルイは苛烈な批判をなげかける。「支配者側にとって庶民階級は、ブルデューの言葉を借りるならば典型的な「階級対象(クラス・オブジェ)」である。言説によって操作可能な対象だということだ。あるときは真正の貧しき善人にされたかと思うと、その翌日には人種差別者やホモフォビアにされる。どちらの場合でも、そこに伏在する意志は同じ、庶民階級からの言葉、庶民階級についての言葉が現れてくるのを妨げる、ということだ」。ここで彼が言っているのは、階級の差が言葉の差によって可視化され、強化されるということではないか。一方には言葉を持ち、雄弁で、その言説操作によって社会を規定し支配するエリート、知識人、政治家がいる。他方には教育の欠如によって言葉を奪われ、自分の苦しみを言語化できない庶民がいる(もちろんこれはあまりに単純に図式化されており、階層構造はそれほどシンプルなものではないだろうが)。ルイはその「下層」の階級から抜け出し、作家として名声を獲得し、エリート校で学んだ。しかし成功したはずの彼は、言葉を持つ側と言葉を持たない側の間で引き裂かれ、苦しむ。

 このことを考えながら「社交的な言語使用としてのテーブルトーク」について読み返すと、少し違った景色が見えてくるようにも思う。とくに「優雅で、楽しく、創造的な時間の引き延ばし」であるような社交的なテーブルトークの源流のひとつは、宮廷社会と、その延長線上にあるサロン空間における会話であろう。そこで求められる話術は、自身が一定の階層に帰属し、その内部で求められる作法を完璧に心得ている上流階級であること、自分が言語を思いのままに使用できる文明化された存在であることを示すためのすぐれてパフォーマティヴな雄弁なのではないか。そうした空間はまた、高い教育を受け、ディセルタシオンなどの論説のフォーマットを使いこなすエリートたちや上流階級の人々が(日本とはまた違う意味で)空気を読み合う場でもあるのではないか。

 もちろんこうした見方は限定的で、一面的なものである。たとえばフランス人の雄弁はサロンだけでなく、カフェなど広く市民に開かれた公共空間における議論でも鍛え上げられてきたことにも言及しなければならないだろう。また、本稿筆者がジャン゠ジャック・ルソーという、パリの華やかなサロンでのおしゃべりにどうしても馴染むことのできなかったジュネーヴ出身のひねくれ者を研究対象としてきたというバイアスも計算に入れなければならないだろう。さらには本稿筆者自身が「こうした時間の緩慢な流れにどうしてもなじめない」、「午後から夜にわたってえんえんと続く」食事を「拷問にひとしい」(55頁)と感じるような非社交的で偏屈な人間であるというバイアスも多分にかかっていることは告白しなければならない。

 しかし『フランス論2.0』で描かれているのはそうした空間だけではなく、それどころか著者が「多面体」としての、多様で包摂的なフランスを余すことなく描いていることは、すでに縷縷述べてきたとおりである。日本を貶すために現実と乖離したフランス像を理想として持ち上げてみせるのではなく(よく目にする光景だが)、フランスとは「いろいろあった」と語りながらも、またその困難を見つめながらも、「風俗が驚くほど保守化し、政治的言説が急速にニュアンスを欠くようになり、一様に幼稚化してしまった」(216頁)今の世界に抗して、「それでも」と楽観的に、魅力的で活気あるフランスを描きだす著者の力強い筆致に励まされる一冊であることは間違いない。




フランス論2.0

大浦康介(著)


出版社 ‏ : ‎ 人文書院

発売日 ‏ : ‎ 2025年10月31日

判型・頁数:四六判・224頁

価格:2970円(税込)

ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4409140727



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