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原大地『ステファヌ・マラルメの〈世紀〉』(水声社、2019年)/ 松浦菜美子

更新日:2020年6月27日

 本書は19世紀後半のフランス詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)が自らの時代との交渉の中で「いかにして詩人たろうとしたのか」(p. 11)、その歩みを描き出す試みである。初期の1860年代と詩人が円熟の域に達した90年代とをつなぐ時期として、著者はマラルメ中期と呼ばれる70年代——1871年のパリ上京から1879年の息子アナトールの死まで—— に重きをおく。マラルメがジャーナリズム活動や教育的著作の出版など多様な文筆活動に手を広げた時期である。ベルトラン・マルシャルの『マラルメの宗教』(1988年)や川瀬武夫の「祝祭と現在」(1995年)以降マラルメ詩学における70年代の重要性が広く認識されるようになったが、それから約30年経った現在でも論ずべき点が多く残されていた—— 本書を一読すればこのことが痛感されるだろう。著者は中期に生じたマラルメの詩想の断絶や揺らぎを慎重に辿りながら、90年代への新しい見通しを示している。

 4部から成る本書は年代順で構成されている。

 第I部はマラルメの出発点における詩人観をロマン主義的詩人像との対比から明らかにする。著者は第1章でマラルメが最初に直面した「不毛性」の問題を取り上げる。著者によれば、初期のマラルメ的詩人像にはボードレール「アホウドリ」やゴーチエ「荒野の松」が象徴的に描く詩人の運命ともいうべき広がりはなく、「書けない」ということが詩人の個人的な無能さに帰されている。ユゴーの「女の祝祭」との比較からは、ユゴーがその豊穣さを称える女性がマラルメでは生殖への嫌悪としてあらわれること、他方で若くして子を成したマラルメにおいて詩人の不毛性は身体的多産を排除しないことが示される。ユゴーが叙事詩的に人類の世代循環を見晴るかすのとは異なり、マラルメにとって生殖は詩人の精神の不毛性を際立たせることにしかならない。第2章では、マラルメの散文詩がボードレール的伝統から出発しながらもそこから抜け出していく様が、60年代半ばの散文詩「未来の現象」と1887年の「縁日の宣言」の分析から跡づけられる。いずれの散文詩も見世物小屋で〈理想〉を象徴する女性が「暴される」逸話なのだが、前者は太古の美を象徴する裸体の女、後者は現代の衣服を纏う女が見世物となる。〈理想〉が布を纏うようになる点は70年代の詩想の転機として続く第II部で考察される。

 第II部で著者は中期の散文作品—— ロンドン万博の報告記事(1871, 72年)、雑誌『最新モード』(1874年)、マネ論(1874年、76年)—— をもとに、マラルメの同時代認識をボードレールのモデルニテの美学とのかかわりから論じる。モードを扱う第3章に続く第4章では、マラルメがボードレールのテクストではなくあくまでマネや絵画を介してボードレールのモデルニテを継承するに至ったこと、マラルメが現代の美と永遠の美に対するボードレールの「逡巡」を引き受けなかったことが実証的に示される。第5章では、〈理想〉の美の所在と芸術家像をめぐるマラルメの変化が両詩人の自然観の比較から検証される。著者によれば、ボードレールは自然を前にした人間の側に美の成立条件をみたが、マラルメにとって自然はただそこに「ある」ものである。「人間が融解し果てたとそのとき、自然は自らの美に目を開く」(p. 194)—— すなわち、マラルメにおいて美の成立はもはや芸術家個人の天才や想像力に依らない、ということが指摘される。

 中期韻文を扱う第III部の「中期韻文詩分析のための序説」(第6章)では、まずパリ・コミューン前後の書簡、『最新モード』の「パリ歳時記」、マネ論、「エドガー・ポーの墓」から、中期韻文に共通する磁場が抽出される。著者によれば、60年代のマラルメに取り憑いた死のテーマがこの時期、〈世紀〉との対峙という社会的レベルを含むようになる。詩の受け手としての群衆に直面することで、マラルメは「群衆が目にするスペクタルこそ、芸術の領分と見定めつつあった」(p. 230)。ロマン主義的想像力が成立しない時代の詩人の責務は〈真〉の探求であるとする考えに、著者は中期マラルメの特徴を見る(p. 231-232)。次章では「イジチュール」との対比において死のテーマの変化がその揺り戻しも含めて丁寧に辿られる。私的なソネ二篇(エレン・ボナパルト=ワイズ宛の「庭にて」(1871年)と亡き友エッティ・イエップのソネ(1877年の日付))の分析から、マラルメの詩が71年に〈真〉(=「ある」ものしかない)への転換を見せつつも、77年には死者の再生という「ない」ものを虚構の枠組みで歌っている点が指摘される。次に著者は第8章で〈夢〉に対する詩人の態度の揺れを中期韻文の代表作「弔いの乾杯」(1873年)および「牧神の午後」(1875, 76年)を通して精緻に描き出す。そこでは「「ないものがある」という想念」(p. 279)としての〈夢〉と決別するも、地上的〈真〉を詩の言葉による〈夢〉でつかの間「侵食」(p. 308)する、マラルメのある種の遊戯が明らかにされる。

 第IV部では、「賽子一振り」に至るまでの90年代がマラルメにおける自然と人間の生死めぐる問題から読み解かれる。『ヴィリエ=ド=リラダン』(1890, 92年)を扱う第9章で、著者は一連の「墓」詩篇のような韻文ではなく散文によって友ヴィリエを追悼するマラルメに、来世ではなく「現在」に生の救済を求める姿勢を見る。続く第10章でジャーナリズムのかかわりが詩人にもたらした「現在」に対する認識を踏まえたのち、著者は最終章で散文詩「衝突」を取り上げる。この作品の背景には、マラルメがヴァルヴァンの別荘で実際に経験した出来事—— 労働者の対峙—— がある。著者は『アナトールの墓』と散文詩「白い睡蓮」を参照しながらマラルメにとっての二項対立—— 死すべき逸話的存在としての人間/ただ「ある」という意味で反=逸話的な自然—— を取り出す。「衝突」の描く酔って地に伏す労働者は死によって自然に回収される人類の運命を象徴している(p. 419)。労働者と詩人は「所有せず、ただ過ぎ去る」(p. 408)という点で共通するが、泥酔によって受動的に自然のサイクルを一時的に断つ労働者とは異なり、詩人はあくまで意志によってあらがう。詩の可能性とは自然のサイクルという宿命に偶然によって揺さぶりをかけるところに生まれるのであり、詩は逸話(=偶然事)を免れない—— 著者はこのような結論を「衝突」に読み取る(p. 423, 426)。本書は「衝突」の見せる帰結と『賽子一振り』の一節の比較をもって結ばれる。

 マラルメの詩人としての出発点から晩年までの道のりを繊細かつ重厚に描きだした本書は、いくつかの点でマラルメ研究や日本のマラルメ受容に重要な貢献を成している。まず引用テクストの日本語訳はそれだけで参照すべきものである。マラルメの文章は、一語一語ふさわしい訳が考え抜かれており、可能な限り平易な日本語になっている。これは「日本の幅広い読者にその清新な魅力を伝える一助に」(p. 14)という著者の願いを反映するものだろう。テクスト校訂や作品区分にかんして注意深い検証・検討がなされていることも指摘しておかねばならない。日本語版『マラルメ全集』に未収録のソネ「庭にて」の重要性(第7章)、『牧神の午後』の前テクストの一つ『英雄的間奏曲』の草稿をめぐる問題(第8章)の指摘。それから「マラルメの散文詩」の範囲や定義にかんする注意深い考察(第2章冒頭)。以上はこれまでのマラルメ研究に再考を促す貴重な指摘を含んでいる。

 本書では、以上のように、マラルメの実像に肉薄しようとする著者の知的営為がテクストの慎重な検証・読解のなかで説得的に展開されていく様に立ち会うことができる。著者の力強い筆致は近年のマラルメ研究の成果を豊かに広げ、同時代的現実とともにあるマラルメの歩みを確かに描き切る。参考文献一覧のない点は唯一惜しまれるが、それでも本書の描くマラルメ像が狭義の作家研究を超えて日本におけるマラルメ理解を刷新していくことは間違いない。

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