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ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?──ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』(久保昭博訳、慶應義塾大学出版会、2019年)/ 立花史

  • 2019年12月2日
  • 読了時間: 4分

更新日:2019年12月26日

 文学、マンガ、映画、アニメ、ビデオゲームに対して、歴史上、幾多の“有害論”が巻き起こった。1999年に出版された本書は、そうした有害指定対象を、プラトン以来のミメーシス概念にさかのぼりつつフィクションの名の下に擁護している。ビデオゲームとフランス古典悲劇の両方を、同列ではないにしても、フィクションという共通の仕組みで説明すること――それが本書の試みなのだ。

 ジャン・マリー・シェフェールについては、ジュネットの指導を受けた経験もあって、その影響が強いことは一見して明らかだろう。用語から論点まで、さまざまな共通点が見られる。ただしジュネットが文学理論家として著名であって、ある時期までは作品分析のツールを提供しようとしてきた側面が見られるのに対して、シェフェールは美学者であってその記述も思弁的である。1992年の『近代という時代の芸術──18世紀から今日までの美学と芸術哲学──』に端的に見られるように、18世紀以降に定着した芸術の自律的価値という概念を一貫して批判してきた。

 シェフェールは、芸術的活動を、その他の日常的活動と一定の連続性をもつものとして、日常的活動と対比しながら議論を進める。その点では、分析系の美学や芸術哲学との親和性も頷けよう(彼自身、アーサー・ダントーの仏訳者でもある)。また、美学のなかでも受容美学の側面が強いとともに、芸術的に突出した特定の作品や特定の読解に依拠するよりは、標準的なフィクション、標準的な受容、標準的な美的経験などを主な対象としている。ただしその際、分析系のさまざまな議論と対比しても、明確に「自然主義」の立場に立脚して、人類学のほか、認知科学、進化生物学、情報科学など、主に理系の先端学問を参照することが多い。多様な生物と比較してヒトの活動を位置づけ、多様な人間的活動と比較して美的活動を位置づけるといったように、対象を環境の内部に位置するものとして論じるその立場は、彼が時おり使う言葉を借りれば、ある種の「生態学」と言ってよい。そして、この意味でフィクション経験もまた、人間が諸能力を用いておこなう「現実的」な活動として捉えられている。


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 さて、本書は、フィクション的プロセスを、「遊戯的偽装」「没入」「モデル化」という三つの要素によって説明している。

 シェフェールによれば、フィクションは誤謬や嘘と区別される。嘘は、(おそらくは生存競争において)他人をだますために用いられてきたのに対して、フィクションは、その嘘が遊戯的に共有されたものである。この遊戯的偽装は、時代や地域によって異なる「語用論的枠組み」として制度化されている。そして、われわれがフィクション世界に没入するとき、ある表象を知覚的には受け入れ、いわばだまされつつも、認識の上ではそれを真として受け入れていない。このように、没入とは、知覚上の受容と認識上の遮断の二重性によって特徴づけられる。また没入によって鑑賞されたフィクション世界から、われわれは現実世界における自分の思考や行動のモデルを構築しうる。これがモデル化と呼ばれる。モデル化自体は複数あって、数理的なモデル化とは別に、現実世界の事象に基づいておこなわれるミメーシス的モデル化の場合、世界とモデルは基本的に相同的であるのに対して、フィクション世界の事象に基づいておこなわれるフィクション的モデル化の場合、世界とモデルは相同的ではなく、全体的な相似性=類比性に基づくとされる。

 シェフェールの主張を汲んでおおまかに捉えるなら、鑑賞前に作品として存在するのが「遊戯的偽装」、鑑賞中に生じるのが「没入」、鑑賞後におこなわれるのが「モデル化」と、ひとまず考えてよいだろう。そして、ナラトロジーの成果を踏まえつつ、夢想、物語文学、演劇、図像や写真、映像、ビデオゲームなどのフィクションが機能する装置が、その「媒介」と「態度」によって第1から第7までの「フィクション装置」として分類される。

 このように、「フィクション能力」を人間の日常的な能力の組み合わせとして分析しつつ、さまざまな芸術ジャンルを分類するというのが、シェフェールの試みである。分析系のフィクションの哲学が、諸芸術を比較するためのツールとしてフィクション概念を彫琢してゆくのに対して、シェフェールの場合は、それを横目に、人類学的な見地から、人間が普遍的に有するはずのフィクション能力と、それが歴史・社会的に実現してきた装置や制度的枠組みの成立として記述しようとする点に特徴が見られる。

 とはいえ、イェスパー・ユールのビデオゲーム論のほか、シェフェール自身が参照しているネルソン・グッドマン、ジョン・サール、ケンダル・ウォルトンの著作と突き合わせることで、本書はさらに、さまざまな発見をもたらすことだろう。

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