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『GRIHL II 文学に働く力、文学が発する力』(文芸事象の歴史研究会編、吉田書店、2021年11月)刊行に寄せて / 嶋中博章

 本書のタイトルにある「GRIHL(グリール)」とは、1996年に歴史家で社会科学高等研究院(EHESS)の研究指導官クリスチアン・ジュオーと、文学研究者でパリ第三大学教授アラン・ヴィアラ(2021年6月没)を発起人として発足したGroupe de Recherches Interdisciplinaires sur l'Histoire du Littéraire(文芸事象の歴史に関する学際研究グループ)の略称である。編者の「文芸事象の歴史研究会」は、GRIHLの研究活動に触発された日本の文学研究者と歴史研究者が自由に出入りする緩やかで開放的な研究会で、私も(数少ない歴史研究側からの)メンバーとして名を連ねている。

 文芸事象の歴史研究会は、2009年のジュオー招聘以来、GRIHLの仕事を翻訳・紹介しつつ、批判的な検討を通して、各自が自身の研究の深化に務めている。その一環として、GRIHLメンバーと共同研究を企画し、日仏両国の研究者が直接顔を合わせる形で、シンポジウムや関連講演会も開催してきた。その内、2013年にジュオーとダイナ・リバール(現EHESS研究指導官)、ニコラ・シャピラ(現パリ・ナンテール大学教授)の3名を招いて東京と神戸で開催したシンポジウムと講演の記録は、2017年に『GRIHL 文学の使い方をめぐる日仏の対話』(吉田書店)にまとめられている。本書『GRIHL II』はその続編で、『GRIHL』刊行と同じ2017年、上記3名に、前回一身上の都合で来日がかなわなかったジュディット・リオン-カン(現EHESS研究指導官)を加えた4名を招来し、福岡、長崎、大分で催したシンポジウムと講演の報告を収める。

 折よく、この『GRIHL II』刊行直前の2021年10月末には、日本フランス語フランス文学会が開催され、そこでのワークショップ「Témoignage(s) de littérature-文学は何を証言するのか?」にリバールとリオン-カンがオンラインで参加し、現在時の問題関心を披歴してくれた。その際、私も二人の紹介を兼ねて、GRIHLの方法論とその意義を歴史研究の立場から話す機会を得た。以下では、このときの紹介文を改めてまとめ直し、『GRIHL II』の案内としたい。

 GRIHLが標榜する「文芸事象の歴史」が、伝統的な「文学史」と同一でないことは言うまでもない。「文芸事象の歴史」が目指すところを、GRIHLの「学術協力者collaborateur scientifique」で、私たち日本の「文芸事象の歴史研究会」の結成メンバーでもある野呂康は、次の3点にまとめている。「第一に、文学を社会的現実あるいは政治社会的現実として捉えること」。「第二に、文学をその価値判断、規律あるいは学問領域の歴史として捉えること」。そして「第三に、文学の外部である諸現実に関した、文芸の視点の歴史を捉えること」(『GRIHL』6頁)。これらの問題意識を共有しつつ、GRIHLメンバーは、それぞれの関心に応じて「文芸事象の歴史」を実践する。

 歴史研究者としての私がGRIHLの研究からとくに刺激を受けたのが、文学作品を歴史記述の対象として扱うその視点である。もちろん、これまでにも歴史家が文学作品を歴史記述に取り入れることはあった。例えば、バルザックやゾラを引用しつつ、パリの歓楽街の盛衰を生きいきと描いたルイ・シュヴァリエの名を挙げることができよう。しかし、たいていの場合、歴史家が文学作品を使用する場合、それがあくまでフィクションであることを断ったうえで、自身が描く歴史像に彩りを添えるため、あるいは自説を補強するために、控えめに文学作品を引用するにすぎない。少し意地悪な言い方をすれば、自分が描く歴史像に箔をつけるため、都合よく大作家の作品をつまみ食いしていると、とれなくもない。いずれにせよ、歴史家の間では、引用可能な信頼できる少数の文学と、引用に値しない完全な作り話にすぎないその他大多数の文学という分類があるかのようだ。

 しかし、引用できる文学と、そうでない文学の境界はどこにあるのだろう。何を基準に歴史家は引用可能な文学と、そうでない文学を識別しているのだろう。そもそも、そのような境界を客観的に見定めることなど可能なのだろうか。記述内容の信憑性を基準に文学作品を仕分けようとすれば、歴史家はもっとも嫌っていたはずの主観性を自らの歴史記述に持ち込んでしまうことにならないだろうか。

 歴史家にとっての「良い文学」と「悪い文学」の区別という袋小路に入り込むことなく、歴史家が文学を扱うことを可能にするには、「問い」そのものをずらす必要があると、リオン-カンとリバールは言う。つまり、その文学作品が、それが書かれた時代を正確に映しているかを問うのではなく、文学作品が書かれたことそれ自体の意味や作用を問おうというのである。別の言い方をするなら、歴史記述のための材料として文学作品の一節を取り上げるのではなく、文学作品そのものを歴史事象として捉え直そうというわけだ。

 『GRIHL』に収められた論考で、具体的に説明したい。周知の通り、19世紀前半、七月王政期はバルザックやウジェーヌ・シュといった同時代の社会を描いた作家が人気を博す。そして、ルイ・シュヴァリエのような歴史家は、その作品世界に社会的真実の描写を見出し、それを自らの歴史記述に取り入れようとした。しかし、先も述べたように、或る文学作品を取り上げて、その作品がどれほど社会的真実を反映しているのかを、歴史家が判定することはできない。そこで、リオン-カンは視線をずらし、別の角度から文学と社会の関係を問う。


 歴史家の多くはこれら文学テクストを資料として使おうとしてきました。〔……〕さて、これらのテクストが社会的真実をあらわしているのかという問いは、仕事場にこもって執筆をする歴史家だけが気を揉む問題ではありません。〔……〕またこれは男女を問わず、作家や編集者や読者であった一九世紀の人々にとっても気がかりな問題でした。そう、私が興味を惹かれるのは、まさにその点なのです。(『GRIHL』296頁)

 この引用に示されている通り、リオン-カンの関心は、小説に社会的真実を求めた同時代の読者に向けられる。そこから当時の読者が作家に宛てたファンレターの分析を通じて、当時の読者が自らの社会的アイデンティティを確認し、それを表明するのに文学が果たした役割を析出した。

 もう一例挙げよう。17世紀、18世紀は大学や神学校など教育機関に属さずに「哲学する」作家が活躍した時代だった。デカルトやフェヌロンがその一例である。それと並行して、この時代には、それら教育機関の外で哲学的著作をものする作家についての伝記文学が多数現れる。リバールはこの二つの並行現象に着目し、次のように指摘する。


 ところで、哲学に関した文学が増加したというのは意味深である。その当時の哲学とは何か、当時は誰が哲学者で、それ以前には誰が哲学者であったのか、今現在哲学をしているのは誰で、以前には誰が哲学をしていたのか。これらの諸点に関して、意見の対立、不和、懐疑と無理解が存在したことを教えてくれるからである。〔……〕それらの記述を理解するには、言説であれ発話であれ、公衆としての読者が読む著作が、(哲学書であるかどうか)資格に関しての同意がない状況の中で、伝記記述が介入している点を考慮せねばならない。(『GRIHL』115頁)

 ここでは「哲学書」というジャンルの存在を自明のこととして構築されてきた従来の哲学史が批判されている。誰が哲学者で、何が哲学書かについて社会的合意がない状況のなかで、哲学者の「生」を語る伝記文学が「哲学」の生成に寄与していることを、この論文は明らかにしている。

 文学作品それ自体を歴史事象として扱い、分析の対象とする姿勢は、リオン-カンとリバールの共著『歴史家と文学』L'historien et la littérature(Éditions La Découverte, 2010)の中で、証言をめぐる問題とつなげて論じられている(なお『歴史家と文学』は、現在、「文芸事象の歴史研究会」メンバーである、辻川慶子と中畑寛之の手で翻訳が進められている)。過去の出来事をめぐる証言もまた、歴史記述との間に、文学作品と同じ問題を抱えている。個人の経験に基づく証言は、どうしても主観的なものにならざるを得ない。その証言を歴史記述に取り入れるか否かは、歴史家の判断に委ねられる。それゆえ、或る証言は信頼でき、或る証言は信用できない、という事態も起こるだろう。一貫した問題意識に基づいて、理路整然と構成され、巧みな文体で綴られた証言は、かえってその「文学性littéralité」のゆえに、歴史家から敬遠されかねない。ましてや、個人的体験を意図的に文学作品へと昇華した証言文学に対して、歴史家は「敬して遠ざける」という態度をとっていないだろうか。しかし、歴史家のそうした態度は、重要な事実を見落としていると、リオン-カンとリバールは指摘する。


 このように証言者のエクリチュールは、まさに歴史の領域で使用される際に、〔証言として〕他とは引き離されて使用されるものであるが、次の事実は隠されるべきではない。文学的証言はありとあらゆる場所に遍在しており、これは興味深いことであるとともに問題含みの事実でもある。歴史家たちが、バルザック小説を同時代に作成された統計表より重視することがままあるように、最も文学的なもの(つまり、文学創作という作業の跡が明白に残されているものや、文学として刊行されたもの)も含めて、証言は過去に起こった現象に到達する、避けて通ることのできない通路のように見える。ある時代やある事実に関する知識は、それを一般に知らしめた文学的証言とは切り離せないとさえ言える──少なくとも最初に知らしめたのが文学的証言であった場合、文学的証言とは切り離せない。1962年にアレクサンドル・ソルジェニーツィンがソ連で刊行し、世界中で翻訳されることになる『イワン・デニーソヴィチの一日』〔……〕を一切考えないなら、ソヴィエト強制収容所に関する知識や歴史はいかなるものになるだろうか。文学のエクリチュールは、ソヴィエト体制がスターリンの没後すら、他の形で表明することを許さなかったものを描写し、告発するという役割を担った。証言を記すための文学の利用が、強制収容所の歴史自体の一部をなしているのだ。〔……〕強制収容所が詩や物語を生み出したという事実は、強制収容所固有の歴史現象とみなさねばなるまい。(L'historien et la littérature, p. 48-49、辻川慶子による試訳)

 ここには、証言が文学ないしフィクションとして書かれたという事実それ自体を歴史事象として捉え直そうとする、リオン-カンとリバールに共通する(ひいてはGRIHLが共有する)問題意識がはっきりと示されている。リオン-カンとリバール、そしてGRIHLの仕事から学ぶことは多々あるが、歴史研究者としての私が最も強く惹かれるのは、文学を文学のまま歴史事象として扱い、歴史的考察につなぐ、この視点である。証言もまた一種の文学的エクリチュールとして考えるならば、文学は歴史家にとって特殊な問題ではなくなる。歴史家が過去の証言の良し悪しを判定するのは、文学の良し悪しを判定するのと同じように、自己都合の傲慢な振舞いである。歴史家にできるのは、過去の証言に真摯に耳を傾けることだ。このとき文学研究と歴史学という専門領域の垣根は意味をなさない。GRIHLの研究はそのことを私に教えてくれた。

 GRIHLの視点や方法論に少しでも興味をと感じていただけたなら、ぜひ『GRIHL』および『GRIHL II』を手に取り、「文芸事象の歴史」研究の扉を覗いてほしい。出入りは自由なのだから。



『GRIHL II 文学に働く力、文学が発する力』

文芸事象の歴史研究会(野呂康/森本淳生/桑瀬章二郎/嶋中博章/辻川慶子/杉浦順子/中畑寛之)編、吉田書店、2021年11月 ISBN:978-4-905497-98-1、336頁、本体価格4,500円


【目次】


序 言説化された権威と、その作用としての権力 【野呂康】


第Ⅰ部 文芸事象と権威‐権力

第1章 「規範逸脱的な」作家とは何か――古典主義時代における文化場の周縁から

1 父の権威とマイナー作家性──レチフ・ド・ラ・ブルトンヌにおけるエクリチュールの主体をめぐって【森本淳生】

2 《ラミールの饗宴》の「作者」をめぐって――ルソー『告白』の余白に【桑瀬章二郎】

3 カシエとデフォルジュ−マイヤール――過剰な作者:啓蒙の名もなき二人【ダイナ・リバール(淵田仁訳)】

第2章 出来事の構築――歴史上の権威と歴史記述上の権威

4 フロンド時代のメモワール作者の権威の構築【クリスチアン・ジュオー(嶋中博章訳)】

5 ルイ一四世の死と証言の権威――日記、メモワール、歴史記述【嶋中博章】

第3章 政治的権威と文学的権威――一九世紀および二○世紀

6 文学フィクションを律する?――一八五〇年リアンセ法改正案【ジュディット・リオン-カン、辻川慶子(辻川慶子訳)】

7 一九三〇年代、セリーヌにおける反知識人的アンガージュマン――アンリ・バルビュスとの比較から【杉浦順子】

第4章 検閲のエクリチュールと権威――一七世紀および一九世紀

8 一七世紀における神学博士たちによる承認――文芸化の諸用法【ニコラ・シャピラ(中畑寛之訳)】

9 権威を演じ、それと戯れ、あるいは裏をかく――第三共和制下で検閲された書物に関する言説【中畑寛之】

第5章 複数の権威

10 背後の権威、権力――アントワーヌ・アルノー『頻繁なる聖体拝領について』をめぐる論争【野呂康】


第Ⅱ部 歴史表象の諸問題(講演記録)――マザリナードのその後、ユダヤ人虐殺の表象

1 マザリナードの境界【クリスチアン・ジュオー(嶋中博章訳)】

2 〈本当はそうじゃなかった〉――ユダヤ人虐殺(la Shoah)後に、表象不可能なものを初めて表象しようとする試み【ジュディット・リオン−カン(永田道弘訳)】


あとがき


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はじめに まずはベルクソン哲学を学ぶものとして、そして次第にベルクソン哲学研究者として、評者はここ八年ほどベルクソンの著作を読み続けてきた。去る2023年10月、ついに発行されたベルクソンの講義録『記憶理論の歴史』邦訳を紐解いた評者は、一ページまた一ページと読み進めるにつれ、さまざまな感情を経験することになった。それはまず、すでに発表されたものとは別に、ベルクソンの活き活きとした声を(それが確かに

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——列車のなかでは心が張り詰めていた。これから本を書かなければならないが、できそうもなかった。 書かなければならない。しかし無気力に苛まれて筆は進まず、もう生きていたくはないが、かといって死のうとも思わない。恋人には素晴らしい原稿ができたと嘘の手紙を出し、実のところはアルコールと睡眠薬に溺れながら、いつか〈恩寵〉が訪れるのを待っている。『失われた時を求めて』におけるゲルマント大公妃邸の書斎や、ラン

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