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アントワーヌ・コンパニョン『ブリュヌチエール──ある反ドレフュス派知識人の肖像』(今井勉訳、水声社、2024年)/ 渡辺惟央

  • 日本ヴァレリー研究会
  • 2 時間前
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「知識人」成立史の裏面

 フェルディナン・ブリュヌチエールという一見して保守的な文芸批評家の思想と行動から、19世紀末のフランス社会の複雑な様相を再構成する、伝記にして社会史的な著作である。

 原書(スイユ社、1997年)が刊行された1990年代末は、第三共和政やドレフュス事件の歴史的再検証が進んでいた時期にあたる。「反ドレフュス派」の一批評家を論じた本書もこの潮流に連なる。主に分析されるのはドレフュス事件から政教分離法成立までの、「現代フランスの起源」(18頁)となる約10年間(1894年〜1905年)だが、議論の射程はさらに広く、1870年から第一次世界大戦前夜まで、つまり第三共和政の始まりから定着期までが視野に収められている。

 ブリュヌチエールは世紀転換期のフランス文壇で大きな影響力を持った。高等師範学校で教鞭を執った後、1886年からソルボンヌ大学で教え、1896年にはフランス学士院の会員に選ばれるなど、輝かしいキャリアを築いた。また、文芸誌『両世界評論』誌を牽引し、1893年に同誌の編集長に就任している。学士号のみで独学で名をなしたこの「知的プロレタリアート」、「成り上がり者」(259頁)は、ドレフュス裁判に際して反ドレフュス陣営についたことで、栄光からの転落を経験する。コレージュ・ド・フランス選挙に敗れると、高等師範学校、次いでソルボンヌ大学から排斥され、喉頭がんによって失意のうちにこの世を去った。また1900年に、政教分離の流れに抗してカトリック改宗を決意したこともあって、時代錯誤の反動思想家とみなされた。以後、学界での権威を失い、今日では完全に忘れ去られている。

 一言でいって「反ドレフュス派」であり、「教権主義者」であり、したがって「反共和主義」のレッテルを貼られたこの人物から、著者コンパニョンは何を見出すのか。この本の魅力は多岐にわたるが、まずは、序文や「訳者あとがき」であまり強調されていない点を挙げよう。すなわち本書は、「知識人」という語がまだ意味を確立していなかった時代に立ち戻り、その役割が矛盾を抱えながら成立してきた歴史的プロセスに光を当てている。20世紀文学を専門とする評者がこの書評を引き受けたのも、本書が今日までの「知識人」の成り立ちを考える上で多くの示唆を与えてくれたからである。

 自らの専門性と倫理的判断に基づいて社会に道徳的・政治的方向性を示す存在を「知識人」と呼ぶようになった契機は、一般にドレフュス事件に求められる。その典型は「私は告発する」で知られるゾラであり、あるいは、ゾラより早くからその役割を担ったルナンである。知識人像にはしばしば彼らのような、ドレフュス派ないし共和主義的・世俗主義的立場が結びつけられるが、しかし著者コンパニョンによれば、反ドレフュス派のブリュヌチエールもまた「知識人の原型」(268頁)である。ブリュヌチエールは、ルナンとゾラの政治的発言を激しく糾弾し、専門知の範囲を超えて政治に口を出すべきでない、と断じた。にもかかわらず、彼自身が『両世界評論』誌を通じて精力的に政治的・道徳的問題に発言し続け、結果として、論敵に負けず劣らずアンガージュマン(政治的関与)を実践したのであった(ドレフュス事件への介入を論じた第三章は「アンガージュマン」と題されている)。この概念は第二次世界大戦後にサルトルらによって確立されたが、その精神と実践がより古くからあったことは言うまでもない。第三共和政期を生きたブリュヌチエールの立場は、ゾラやルナンと同じだけ、アンガージュマンによって定義される知識人の先駆と言えるのである。

 コンパニョンの狙いは、複雑さに満ちたこの「反ドレフュス派」のケーススタディを通じて、19世紀末フランスを論じる際にしばしば用いられる安易な同一視の連鎖――反ドレフュス=カトリシズム=反ユダヤ主義=人種差別主義――を批判的に検討することにある。その際、ユダヤ教とカトリシズムという二つの宗教的座標軸の間に、当時のフランス社会の動揺を位置付け、その推移をブリュヌチエールの置かれた状況から辿る、という構成が取られている。「〔...〕本書が狙いを定めているのは、ドレフュス事件前後におけるカトリック教とユダヤ教の関係であり、共和国とそれらふたつが取り結ぶ関係のあり方なのである」(18頁)。

 こうした企図は、本書が第一章「ユダヤのフランス」で始まり、第五章「ではカトリックのフランスか?」で締めくくる流れにも表れている。もちろん、ブリュヌチエールのカトリック改宗を単線的な終着点として描くのではない。彼の改宗はしばしば反共和主義や反進歩主義と短絡的に結びつけられるが、事情はより複雑である。ブリュヌチエールは、実のところ合理主義と共和主義的理念(特に人権思想)に強い信頼を寄せていた。彼にとってカトリックと共和主義は本質的に対立するものではなく、むしろ道徳的秩序の保証として補完関係にあった。ゆえにこの改宗は、時代の反動にただ身を委ねたのではなく、共和主義的理想を維持するために不可欠な帰結として決意されたのである。このように、彼がカトリシズムおよび伝統主義へと傾斜していくプロセスは、反ユダヤ主義、共和主義、教権主義といった政治的・道徳的問題をめぐってフランス社会がまだ自らの方向性を確立できずにいた時代と同期している。本書はブリュヌティエールの個人史を通じて、「知識人」成立をめぐるいわば公式の歴史を相対化し、その役割が当時のより複雑で混乱した社会状況の産物であったことを明らかにしている。

 

「反近代」と「反ユダヤ主義」の絡み合い

 コンパニョンは後の主著『アンチモダン』(2005年)でブリュヌチエールを「反近代」の知識人として紹介しているが、ごく短く論じられているにすぎない[1]。しかしその評価は、本書で積み上げられた精緻な読解に裏付けられている。さらに、『アンチモダン』において重要な論点となる反近代的知識人と反ユダヤ主義との関連については、本書で既に実質的な議論が示されていたと言える。

 『アンチモダン』第二部第二章「反近代主義と反ユダヤ主義」においてコンパニョンは、この二つのカテゴリーがしばしば歴史的に重なり合う一方で、必ずしも同一ではなく、互いに独立しうることを強調している。個別の知識人に目を向けた場合、一見似たような反近代的言説を展開していても、その思想的基盤や時代背景は人物ごとに大きく異なる。本書『ブリュヌチエール』は、その一事例として読むことができる上に、反ユダヤ主義のいくつかの類型を知るための格好の副読本でもある。

 ブリュヌチエールは反ドレフュスの立場を取ったが、単純に「反ユダヤ主義者」と括れるような人物ではない。コンパニョンは、この批評家の複雑さを同時代の知識人たちと対比させながら丁寧に描き出している(主にジョゼフ・レナック、ジャーム・ダルメストテール、アナトール・ルロワ=ボーリウが参照されている)。なかでも重要なのが、『アンチモダン』でも大きく取り上げられているエドゥアール・ドリュモンとエルネルト・ルナンとの比較である。

 まずドリュモンについて。彼のベストセラー『ユダヤのフランス』(1886年)は当時のフランス社会に反ユダヤ主義を浸透させる上で大きな影響を及ぼしたが、ブリュヌチエールは出版直後からこれを批判し、ユダヤ人擁護の立場を示している。またルナンに対してはより厳しい姿勢を取り続けた。一貫して近代反ユダヤ主義の創始者とみなし、その言語学的・民族学的理論がアーリア人種とセム人種を対立させることで、ドリュモンらの反ユダヤ主義に理論的根拠を与えたと非難している。とりわけセム人種を劣等と位置づけるルナン初期の言説は、ブリュヌチエールにとって到底容認できない。

 「反近代」という観点からみれば、三者はいずれも「堕落したフランス」の過度な個人主義や物質主義を批判する点で一致していた。しかし立場は大きく異なる。ドリュモンは反近代主義と反ユダヤ主義を結びつけ、もっとも排外的な立場をとったのに対し、ルナンとブリュヌチエールは排外主義をはっきりと批判している。ただしルナンの場合、彼自身は反ユダヤ主義を否定していたにもかかわらず、著作中の人種差別的発言が反ユダヤ言説の正当化に利用されるという矛盾を抱えていた。ブリュヌチエールはこの点を鋭く批判し、ルナンの道義的責任を問うことで自らの反‐反ユダヤ主義を打ち出したのである。コンパニョンによれば、ブリュヌチエールの執拗なルナン批判には「知的貴族主義」への嫌悪が読み取れるという。これはドレフュス事件時の選択とも無関係ではなく、知的エリート(知識人)による政治支配を拒むあまり、彼が「ルナンへの警戒心によって反ドレフュス派になった」可能性も示唆されている(262頁)。

 ドリュモンの排外主義や、それが依拠するルナンの人種理論に対する一貫した拒絶は、今日の目から見ても評価されうる。しかしブリュヌチエールが親ユダヤだったことは決してなく、コンパニョンはそこに「秘密の反ユダヤ主義」(260頁)を認める。実際、この批評家は「ユダヤ人は私の好みにまったく合わない」と認めており、ただ判断は個人的感情ではなく理性に基づくべきだと主張したのであった。また、フランス第三共和政下のユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンたちが「影響力を持ちすぎるようになった」ことに懸念を表明しており、これが反ユダヤ感情を招いているとも考えていた。こうして、露骨な人種差別主義を退けつつ、反ユダヤ感情を一部黙認し、反ユダヤ主義との曖昧な妥協を選んだブリュヌチエールの立場が、ドリュモン、ルナンへの批判を通じて浮かびあがる。

 以上のような限界を抱えているとしても、ブリュヌチエールは単なる愚昧な保守主義者ではなく、むしろ近代の内側からその限界を深く洞察した反近代的知識人だったのであり、それが多くの同時代人から尊敬を集めたことの理由となるだろう。コンパニョンは、ブリュヌチエールと敵対した知識人たち(ベルナール・ラザール、アルフォンス・オラール等)が、それでも彼の才能と誠実さを認めていること、また、ペギーや(意外にも)プルーストのような作家が、この反ドレフュス派知識人に敬意を表していることを紹介している。

 

「文学史」と「文学批評」の分岐点

 コンパニョンの「文学史」研究との関連を踏まえてみると、著者がブリュヌチエールに強い関心を示した背景がより一層明らかになる。これは本書の直接のテーマではないが、著者の他の研究との接点を紹介することは、その解釈の奥行きを知る上で有益である。

 本書では、この批評家が17世紀文学の専門家であり、古典主義の擁護者であった側面はほとんど紹介されていない。だが、原書が刊行された1997年にコンパニョンは「常套句の理論」と題する論文――このタイトルはブリュヌチエールの著作から借用されたものだ――を発表し、「批評家」ブリュヌチエールの業績を紹介している[2]。ブリュヌチエールは第三共和政初期の教育改革(修辞学の削減・廃止)に抗して文化保守的な立場を取り、修辞学こそが文学創造の条件だとする論陣を張った。コンパニョンは『近代ヨーロッパ修辞学事典(1450–1950年)』に寄せた記事でもこの点を強調しており、修辞学との結びつきを重視した彼の古典主義観が、同時代人のランソンのみならず、クルツィウス、ジャン・ポーラン、マルク・フュマロリといった批評家に継承されたと述べている[3]。生前は学界で敗北したものの、彼の確固たる文学観は受け継がれ、後世の文学批評に大きな影響を与えているのである。以上の分析からも、コンパニョンがブリュヌチエールの文学史上の重要性を認めていることが分かる。

 このような関心の延長線上にあるのが、「フランス文学史研究会(Société d’histoire littéraire de la France)」創設をめぐるコンパニョンの史料調査である。本書の序文にも紹介されているとおり、コンパニョンは、1894年の初代理事会においてなぜブリュヌチエールとランソンが選ばれなかったのかを検討する論文を発表している[4]。後に学界の中心人物となるランソンはまだキャリアの途上だったのに対し、ブリュヌチエールは当時すでに高い名声を得ており、彼の不在が主な焦点となる。注目すべきは、この1894年の出来事がコンパニョンの「文学史」をめぐる基本的な問題意識――すなわち、文学史がいかに特定の批評的言説を排除していくか、と深く関わっていることである。同論文や本書『ブリュヌチエール』の直後に出版された『文学をめぐる理論と常識』(1998年)では、文学史と文学批評という二つの営為が19世紀末を境に分岐したことが指摘されている[5]。文学史が「科学的」な制度として台頭する一方で、ブリュヌチエールやファゲに代表される、道徳的判断に根ざした19世紀的な文学批評が周縁化されていったのである。この視点に立つとき、1894年の「フランス文学史研究会」の創設においてブリュヌチエールが不在であった事実は、単なる人事上の偶然ではなく、学問のパラダイム転換、文学史の制度化を象徴する出来事であったと考えることができる。

 この論文では、1894年の出来事だけでなく、1904年以降にブリュヌチエールが権威の座から転落し、高等師範学校やソルボンヌ大学から排斥されていく舞台裏も詳細に論じられており、本書にも部分的に収録されている(192–210頁)。同僚の大学人たちが水面下で繰り広げた、ブリュヌチエール排除をめぐる画策の連鎖が、書簡や会議の議事録を通じて克明に暴かれているのだが、それが「文学史」という学問領域の成立と重なっていたことは意味深長である。つまり世紀転換期において、ブリュヌチエール流の道徳批評が次第に文学史に取って代わられたプロセスは、単なる学説上の変化だけでなく、学界内部の党派的対立、私欲や個人的対立によって推進された面があるのではないか、とコンパニョンは示唆しているのである。批評家ブリュヌチエールの転落を辿ることは、文学史が決して中立な知の体制ではないことを改めて思い出させてくれる、というわけだ。

 こうした視座に立つと、コンパニョンにとって本書『ブリュヌチエール』は、文学研究という制度そのものの成立条件を問う批判的試みにも裏打ちされていることが分かる。本書より10年以上前に書かれた『文学史の誕生──ギュスターヴ・ランソンと文学の第三共和政』(1983年)はその点において対になる著作である[6]。そもそもコンパニョンは、ランソン研究の過程でブリュヌチエールに出会ったと序文で打ち明けている。この二人の批評家を交差させることで、「文学史」の成立を明らかにするとともに、忘却された「文学批評」の系譜を読み直そうとするコンパニョンの仕事の射程をより立体的に捉えることができるだろう。

 

 本書の「結論」冒頭は、上記の論文で暴露された1904年のソルボンヌでの内幕――知的誠実さを標榜する場にあって、実際には政治的思惑が渦巻いていたこと――を、現代の大学に置き換えることで始まる。コンパニョンは読者に向けてこう書く。「だが安心してほしい。大学の採用人事の選考委員会の議論が国立古文書館に送られることはもはやないし、私たちは手紙というものをもはやほとんど書かなくなっている。投票前に学部じゅうをゆるがすヒステリーの場は電話のほうに移された」(257頁)。

 このように、歴史と現在とを交差させながら語るコンパニョンの筆致は巧みである。本書の魅力は、忘れられた批評家の再発見にとどまらず、知識人の役割や大学制度の社会的役割といった普遍的な問題を浮き彫りにする点にある。ブリュヌチエールが生きた第三共和政下のフランスは、宗教と国家、学問と政治、個人と制度の緊張関係が新たな局面を迎えた時代であった。その複雑さを一人の知識人の生と思想を通して知ることは、今日の文壇や学術に関わる者(私たち)にとっても「知識人とは何か」を改めて問い直す機会になるだろう。



[1] Antoine Compagnon, Les Antimodernes : de Joseph de Maistre à Roland Barthes, Gallimard, 2005 (アントワーヌ・コンパニョン『アンチモダン──反近代の精神史』松澤和宏監訳、鎌田隆行・宮川朗子・永田道弘・宮代康丈訳、名古屋大学出版会、2012年).

[2] Antoine Compagnon, « Théorie du lieu commun », Cahiers de l’AIEF, 1997, n° 49, p. 23-37.

[3] Antoine Compagnon, « La rhétorique à la fin du XIXe siècle (1875-1900) » ; « La réhabilitation de la rhétorique au XXe siècle », dans Marc Fumaroli (dir)., Histoire de la rhétorique dans l’Europe moderne, 1450-1950, Paris, Presses Universitaires de France, 1999.

[4] Antoine Compagnon, « Deux absences remarquables en 1894 : Brunetière, Lanson et la fondation de la Revue d’histoire littéraire de la France », Revue d’histoire littéraire de la France (« Colloque du centenaire »), décembre 1995, supplément, p. 29-53.

[5] Antoine Compagnon, Le Démon de la théorie. Littérature et sens commun, Seuil, 1998 (アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』中地義和訳、岩波書店、2007年).

[6] Antoine Compagnon, La Troisième République des lettres de Flaubert à Proust, Paris, Seuil, 1983 (アントワーヌ・コンパニョン『文学史の誕生──ギュスターヴ・ランソンと文学の第三共和政』今井勉訳、水声社、2020年).



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ブリュヌチエール

ある反ドレフュス派知識人の肖像


アントワーヌ・コンパニョン(著)

今井勉(訳)



判型:A5判上製

頁数:400頁

定価:6000円+税

ISBN:978-4-8010-0827-4 C0098


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