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アントワーヌ・コンパニョン『ベルナール・ファイ ある対独協力知識人の肖像』(今井勉訳、水声社、2025年)/ 有田英也

  • 日本ヴァレリー研究会
  • 8月2日
  • 読了時間: 8分

事例か運命か、それともモデル?

 日本でその著作が多数、翻訳されているアントワーヌ・コンパニョンの手になる、ナチ占領下で国立図書館館長を務めたベルナール・ファイ(1893-1978)の伝記(ガリマール社、2009年)である。なぜコンパニョンがファイを取り上げ、その書評がヴァレリー研究会のブログに載るのか、と訝る読者もおいでだろう。

 対独協力者研究で知られる政治学者にして「文化史」研究者パスカル・オリィの描き出すファイは、著者の若さもあってにべもないものである。

 「コレージュ・ド・フランス教授にして、フリーメーソンの世界的陰謀の密告エキスパートに転じたファイは、やがてヴィシー政府によって栄誉に包まれ、1941年9月には、秘密結社常設博物館をパリに設置する任を負うだろう。」(Les Collaborateurs, Seuil, 1976, repris in Ce côté obscur du peuple, Bouquins, 2022, p.575)

 これに加えて、ファイが1946年に「セーヌ県法廷でのいわゆる<秘密結社局>裁判」(訳書p.133)で有罪となり、市民権剝奪と無期懲役に処せられた(1959年に恩赦)と知れば、これ以上、貴重な時間を費やすまいと思って当然であろう。だが、もうすこしおつきあい願いたい。

 ヴァレリー研究者である訳者によれば、コンパニョンの学術的著作は「文学理論」「個別作家をめぐる専門研究」そして「文学史あるいは思想史系の仕事」の三つに大別される。『ベルナール・ファイ』は、『文学史の誕生』(邦訳水声社)、『ブリュヌチエール──ある反ドレフュス派知識人の肖像』(邦訳水声社)『アンチモダン──反近代の精神史』(邦訳名古屋大学出版会)と並んで第3の系列に属する。そして、コンパニョンみずから「プロローグ」で執筆の意図を説明して、ドレフュス事件によるフランスの分断をプルースト、ペギー、プリュヌチエール、ランソン、バンダ、チボーデが証言していたように、「ドレフュス事件以後、すべてのフランス人同様、あらゆる作家、知識人が直面せざるをえなかった第二の二者択一、それを代表するのがヴィシーである」(訳書p.14)と述べている。ファイの伝記は書かれるべくして書かれた。これをブリュヌチエール伝の翻訳出版から時を置かずに刊行した版元と、膨大な人名、機関名に怖じずに取り組んだ訳者の勇気と労を称えたい。

 「プロローグ」によれば、この本は「私自身が描き出したファイの肖像(portrait)」(p.17)である。一方、原題は  « Le cas Bernard Faÿ » で、 « du Collège de France à l’indignité nationale » と副題されている。そして、最初の一文には « le destin de Bernard Faÿ »という語句が読まれる。肖像と事例と運命。

 文学的「肖像」は、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールら古典期の名品からサント=ブーヴまで続く伝統ある文学ジャンルである。ただし、コンパニョンは「プロローグ」でファイの「肖像」を、フランスやアメリカの網羅的伝記の域に達していないと謙遜しているから、原書はファイの写真を20葉あまり収録しているものの伝記とは言い難いエッセイという意味に取れる。

 ところが、タイトルの「事例」(cas)には、執筆意図に掲げていたヴィシー政権によるフランス国民の分断の「一例」として、ファイの個別例を、訳題の掲げる「対独協力知識人」という「一般」ないし「普遍」の解明に誘う社会学的見通しも感じられる。

 そして、巻頭に読まれる、「ベルナール・ファイがたどった運命について私はかなり以前から関心を持っていた」(訳書p.11)というくだりに触れた読者は、「運命」(destin)という交換不能で不可逆的な個別に引き戻されるだろう。さらに、読者は「私」という視座の取り方いかんで、ファイが悲劇の主人公にも端役の一人にもなりうると予感させられる。

 「予感させられる」のは評者だけかもしれない。評者はコンパニョンの大著『アンチモダン』を書評して以来(『思想』2012年12月号)、この作家を深読みする癖がついているから。ともかくコンパニョンはファイをモデルに、どのような肖像を制作しようとしているのだろうか。

 

フリーメーソン問題担当フランス政府代表(第5章)

 ここで言うフランス政府とは、1940年7月に成立したヴィシー政府のことである。「6月18日の男」として知られるシャルル・ド・ゴールを首班とする自由フランスはロンドンの亡命政府であり、フランスの国土、植民地、国民の大半はヴィシー政府の発出する法律と政令の下にあった。フランス本国は国土を北部のナチ占領地と南部のヴィシー政権下の「自由」地域に二分され、植民地は中立地域とされた。

 ヴィシー政府も占領ドイツ軍も、占領地と「自由」地域のユダヤ人を迫害する前に、フリーメーソンに対する弾圧を開始した。ペタン元帥を国家元首とするヴィシー政府は開戦と敗戦の責任者を裁判にかけるために、ドイツ軍はいまだ抵抗するイギリスのフリーメーソン組織とフランスのそれが接触するのを防ぐために、「敵」の居場所を知り、これを叩く必要があった。ヴィシー政府は1940年8月13日の法律で、「秘密結社」の解散を命じた。ベルナール・ファイは回想録のなかで、ペタン元帥の発した反フリーメーソン「政令」に感銘を受け、あえて行動する決心を固めた、としているが、コンパニョンはファイの責任逃れを実証的に打ち砕く。

 ファイはたんに「法律」を「政令」と言い間違えたのではない。反秘密結社法は、ファイのヴィシー訪問と国立図書館(BN)館長就任の数日後に発出された。そして、「秘密結社を禁じる決定とファイをBNの長に据える決定はきわめて緊密に結びついていた」(訳書p.123)。ファイは法務大臣アリベールの知己であり、1940年7月末にヴィシーに立ち寄った際に、アリベールを始めとして同法の立役者すべてと会っていた。ファイはまた、パリで反フリーメーソンの展覧会を組織する資金を獲得するため、館長就任直前の1940年8月24日から30日まで再びヴィシーに赴いた。

 かくして、ファイは、当時の文部大臣ミローの指示文(1940年11月13日付)によって、フリーメーソンのアーカイブを中央に集めて目録を作るべく、「秘密結社博物館」をただちに設立。すでにBNに雇い入れていたフィリップ・ポワルソンとウィリアム・ゲダン・ド・ルーセルを派遣し、ナチ親衛隊保安部(SD)のモリッツ中尉の指揮のもと、マルセイユ、トゥーロン、リヨン、アルジェでフリーメーソンの書類、書籍、調度品などを接収させた。ファイは軍政下のパリで国立図書館館長というローカルな地位にありながら、フリーメーソン迫害についてはヴィシー政府の代理人となったのである。

 こうして、BNは「抑圧の対象となる名前を表示する装置の役割を果たし」、その結果、3千名の公務員が失職した。ファイは『ドキュマン・マソニック』誌の評論で、名簿の公開をジャコバン委員会の名簿になぞらえて正当化した。もし1790年夏にジャコバン委員会の「名簿が公表されていたならば、おそらくそれは何千人もの人間の命を、フランスの最も純粋な血を救っていたであろう」(訳書p.127)とおぞましい仮定をしている。おぞましい、とは、ファイが両次世界大戦間の著作で、18世紀の米仏の革命(現在、西洋史学会で「大西洋革命」と呼ばれるようだが)に対するフリーメーソンの知的貢献を、アメリカ史の専門家として主張していたからである。ファイの肖像にはリベラルな歴史家としての顔と、極右の反革命論者と見まがう顔がある。

 ファイはまた、プチ・パレで1940年10月から11月にかけて開催された「暴露されたフリーメーソン展」の準備に参加した。企画者で『イリュストラシオン』誌の編集長ジャック・ド・レダンが、「奇妙な戦争」時にベルリンのドイツ・フランス委員会で働き、占領下のドイツ大使オットー・アベッツによって編集長に据えられたことが分かっている(Bernard Bruneteau, « L’Europe nouvelle » de Hitler Une illusion des intellectuels de la France de Vichy, Editions du Rocher, 2003, p.215)。

 ドイツ軍の劣勢とフリーメーソンに対して容認的なラヴァルのヴィシー政府首班への復帰によって、対独協力派の立ち位置は変化した。文部大臣へのファイの野心は、ヴィシー政府寄りの彼よりも占領ドイツ軍に好意的なアベル・ボナールが任命された時点で潰えていた。それでもファイは1943年になっても反フリーメーソン講演を行い、プロパガンダ映画『隠れた力』(ジャン・マルケス=リヴィエールとジャン・マミーが制作し、1943年3月封切り)に出資している(訳書p.132)。

 

対独協力知識人の運命

 ファイは事例のひとつだろうか。同じように文部大臣ボナールと不仲だったコメディー・フランセーズ支配人ヴォドワイエは、タイミングよく辞任して難を逃れた。フランスが国土を全面占領された1942年11月以降、そしてジョゼフ・ダルナンの民兵団が国家権力に食い込む1944年以降も、ファイは対独協力から降りなかった。だから、解放と粛清の時代に刑死した作家ロベール・ブラジヤックのような過激派と見なされても仕方あるまい。

 評者がコンパニョンの著作の第5章に拘ったのは、ファイが粛清裁判で死刑を免れたのが判事のミスによると知ったからである。ヴィシーの国家元首ペタンの裁判の折、判事は論告に盛り込まれるはずだった反フリーメーソン法を失念してしまった。「この忘却がファイを救ったのである」(訳書p.135)。一方、映画『隠れた力』の監督ジャン・マミー、通称ポール・リッシュは、ナチ親衛隊保安部への協力のかどで銃殺刑に処せられた。秘密結社のアーカイブ接収の下働きだったゲダン・ド・ルーセルはスイスで逮捕され、フランスのセーヌ県法廷で欠席裁判により死刑を宣告されたものの、すでに南米に渡っており、不動産業で財をなしたという。極右新聞『アクション・フランセーズ』のジャーナリストからファイがリクルートしたフィリップ・ポワルソンは、占領ドイツ軍との悶着が相次ぎ、何度も投獄された後、1944年8月にドイツのノイエンガンメ収容所に移送され、翌年、ジフテリアで病死した。

 第二次世界大戦の緒戦でフランスが敗北し、対独協力も辞さないヴィシー政権が成立すると、コンパニョンが言うようにフランス知識人は二者択一を突きつけられた。その機に乗じて立身を図ったファイは、得たものを失ってまで途中で降りるのを拒んだ結果、やがて過激主義に導かれる運命だった。だが、その彼は偶然という慈しみの女神たちによって救われる。それゆえファイは、コンパニョンがこの本を書くために読んで呆れるような戦後の著作をいくつも残せたのである。


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ベルナール・ファイ

ある対独協力知識人の肖像

アントワーヌ・コンパニョン(著)

今井勉(訳)

判型:A5判並製

頁数:292頁

定価:5000円+税

ISBN:978-4-8010-0869-4 C0098


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