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正清健介『小津映画の音──物音・言葉・音楽』(名古屋大学出版会、2025年)/ 宮本明子

  • 日本ヴァレリー研究会
  • 8月27日
  • 読了時間: 3分

 小津安二郎は、黒澤明や溝口健二と並び、日本を代表する映画監督である。小津をめぐって、さまざまな議論が交わされてきた。しかし、その多くは小津の映画の構図やアングルなど、見てそれとわかりやすい特徴や脚本、演出についてであった。こうした中、本書は小津の映画に現れる音に真摯に向き合い、その特徴を論じた一冊である。

 私自身、小津の映画を、主に映画台本や日記など当時の資料を通して調査してきた。研究方法は異なる著者の研究姿勢に常に学び、敬意を抱いてきた。それだけに、著者のこれまでの論文を基盤として本書が刊行されたことが何よりうれしい。映画音楽、音声・音響学に関心を持ち探求する研究者も、私のように映画の音に関心があるという初学者も、具体的な事例を通して小津の映画の音の特徴に触れられる。

 「音」といっても、その範囲は広大である。本書の議論にあがるのは、たとえば『麦秋』冒頭から聞こえてくるオルゴールの音楽や、子どもたちのおかしく可愛らしい遊びとして見る者を驚かせ、笑いに巻き込む『お早よう』のオナラの音などである。いずれも、映画を見たことがある者にはなじみのある音だろう。これらの音がいかに映画に存在し、いかに説明できるのかが実証されてゆく過程が鮮やかだ。考察の対象は方言を含む「言葉」、音を構成する「テンポ・間・リズム」など、広く小津映画の音に及ぶ。批評家の発言や小津自身の発言など当時の資料を丁寧に検討する作業も、本書の説得力を支えている。

 『秋日和』に流れるピアノソナタが取り上げられる箇所は、私自身、本書がまとめられる以前にまず論文として読み、その音楽の奇妙さを考えることとなったものとして忘れがたい。『秋日和』のピアノソナタは、原節子演じる母親が務める服飾学院の場面で聞こえてくる。かつて、私はこの音の特徴を意識したことさえなかった。実際によく聞いてみると、なるほど、映画の物語内でだれかがピアノを練習しているようであり、しかし練習にしては流暢であり、映画の伴奏音楽のようにも聞こえる。一口に言えば、奇妙な「音」なのだ。こうした音のそれぞれに焦点を当てたことで、小津の映画の「音」の種類やそれぞれの特徴が浮かび上がった。

 ところで、音といえば、小津の映画での作曲家の人選や録音の指揮をはじめ、音作り全般に大きな影響を与えていたという指揮者・作曲家吉澤博の存在がある。同・斎藤高順の回想録によれば、『秋日和』のピアノソナタも、どのような音にするかを実際に決めていたのは吉澤であったという。こうした当時の記録を私もぜひたどってみたい。本書は音の分析を主軸とし、吉澤に具体的に言及するわけではない。それだけに、小津の映画の音を考える上で吉澤の存在はどのように位置づけられるのか、著者の今後の議論への期待が高まった。最近では『麦秋』のように、撮影時に使用された助監督の台本から、小津が撮影時の会話の音声を入れ替えていたことも明らかになった。こうした事例も、今後研究対象となりうるだろうか。

 著者自身、小津安二郎にとどまらず、エリック・ロメールやジャック・タチなどの映画を対象に、広く映画の音を分析してきた実績がある。本書は小津研究のみならず、映画研究に多くの刺激を与え続けるだろう。ここからさらに小津の「音」をめぐる議論がどのように展開してゆくのか、一読者としても大きな関心がある。


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『小津映画の音──物音・言葉・音楽』

正清健介(著)


出版社 ‏ : ‎ 名古屋大学出版会

発売日 ‏ : ‎ 2025/6/12

単行本 ‏ : ‎ 356ページ

価格:6930円(税込)

ISBN-13 ‏: ‎978-4-8158-1195-2



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