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ジャック・ランシエール『美学における居心地の悪さ』(松葉祥一/椎名亮輔訳、インスクリプト、2025年)/ 関大聡

  • 6 時間前
  • 読了時間: 27分

 たとえば存命のフランス人哲学者でBIG3を考えるとしたら、ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、エチエンヌ・バリバールあたりが有力候補になるのではないか。そう言っていいほどランシエールは今日、大きな存在感を示している。日本語に訳された書物も多く、本書『美学における居心地の悪さ』は、単著で言うと15冊目になるはずだ。

 邦訳書を中心にその知的遍歴を振り返ってみよう。彼自身が語る遍歴に関心のある向きは対談形式の『平等の方法』を参照されたい。もともとランシエールは60年代に光芒を放ったアルチュセール派の近傍にいたが、その批判者として頭角をあらわす(『アルチュセールの教え』)。そこから知識人と労働者の出会い/損ないを批判的に分析することで民衆の能力や平等、そして民主主義の可能性について独自の理解を築いた(『哲学者とその貧者たち』、『無知な教師』)。政治を、共同体の内部に「不和」が発生する場として捉え返す議論で、90年代の政治哲学をめぐる論争に切り込み(『不和』)、現代に蔓延する民主主義への不信に対抗する強力な拠り所になった(『民主主義への憎悪』)。他方、政治における不和を「感性的なものの分有(パルタージュ)」の再編成と結びつけ、「政治は原理において美学的(感性的)」だとするランシエールが(『感性的なもののパルタージュ』)、文学や映画、演劇や写真といった美学・芸術の問題に早くから取り組んでいたのも必然であった。文学については『文学の政治』、『言葉の肉』、個別の作家論として『マラルメ』や『詩の畝』がある一方で、『解放された観客』、『映画の隔たり』には演劇・写真・映画論を見ることもできる。そして彼の美学的立場を理解する上で、2003年に刊行された『イメージの運命』と双璧をなすのがその翌年刊行の本書『美学における居心地の悪さ』である。

 筆者は(身近にランシエールを研究する院生仲間がいたこともあって)彼の著作に修士課程の頃から折に触れて接してきた。とりわけ民主主義のスキャンダルとしての「不和」をめぐる議論には、その快刀乱麻を断つ語り口から影響されたと思う。他方で、彼の文学論や美学論は、同じくらい大胆不敵な論調に魅せられつつも、なかなか難解で捉えにくいとも感じる。この書評では、ランシエールの本書での議論を紹介しつつ、自分なりの理解や疑問点などもぶつけてみたい。

 

1. 理論的説明の試み

 『美学における居心地の悪さ』を読むとき、それが美学の可能性をめぐる視野の広い理論書であるのと同じくらい、同時代の論争やアート・シーンに隣接して書かれた書物であるという、二つの面を押さえる必要があるのではないかと思う。端的に言えば、日本におけるこのランシエールの「最新刊」は、フランスでは2004年に出版された本なのであって、その時点までに積み上げられた議論や制作された作品に触発されて生まれたのだ。もちろん、だからといって本書の内容が古いとか時代に制約されていると言うつもりはない。単純に、私たちは本書を読むとき、それが何を見据えて書かれたのかについて、20年以上の時を隔てて探求し、時には想像を働かせなければならないということだ。そうすれば、本書を通じて21世紀転換期におけるアートをめぐる問いに出会い直すこともできるだろうし、そこでのランシエールの独創性を見定めることもできるだろう。いずれにせよ、本書を日本語訳が刊行された2025年(あるいはそれ以降に読者が読む時間)と直通するものとしてではなく、わずかに距離を置いて読むほうが良い。

 そうは言っても、他方で本書はプラトンやアリストテレス、カントやシラーなどの古典的哲学思想に再解釈を施してもいる。リオタールによるカント崇高論の解釈という「現代思想」的な問いかけも欠けていない。そこからは原理論的な印象を受けもする。なかでも「美学」とは何かという問い、またそれと密接に関わる三つの体制の区別(倫理的体制・表象的体制・美学的体制)は、ランシエール美学の基盤をなすものであるから、まずこの点をまとめることから出発しよう。



 そもそもランシエールが「美学」と呼ぶのは、18世紀中葉以降に成立した学問領域としての「美学」ではない。一般に美学と言えばバウムガルテンの『美学』(1750)に端を発する「感性的認識の学」という規定を与えられるのだが、そうではない、と彼は言うのだ。そうした学問領域の成立自体が、われわれの感性をめぐるより大きな体制の変化、具体的には「何を芸術として認めるか」をめぐる同定(アイデンティフィケーション)の体制の変化によって可能になったのであり、18世紀にそれ以前の体制を突き破る形で成立した前代未聞の体制が「美学的体制」と名指される。彼の言葉を引こう。

 

「美学」とは、学問領域の名前ではない。それは、芸術における特殊な同定の体制を示す名前なのである。(16頁[1]

 

 この美学的体制の特徴を理解するには、それ以前に支配的であった表象的体制との対比が有効だろう。表象的体制とは、文学史や芸術史において「古典主義」と呼ばれる時代、17世紀に通用していた論理に概ね相当する。雑駁に言えば、それは規範とそれに基づく模倣の時代であり、「このように描くべき」という規律が安定的に成立していた時代だと言えよう。たとえばコルネイユ、ラシーヌのような古典主義的悲劇と、その規範として役割を果たしたアリストテレス『詩学』の関係を考えられたい。

 これに対して美学的体制は、そうした表象の規範を離脱することで成立する。それまでヒエラルキーにより厳格に区分されていた、高尚な芸術/卑俗な芸術、称賛さるべき美徳/非難さるべき悪徳といった分離が失われてしまう。以来、芸術は「何でも」ありの世界になる。

 

芸術がその形式と場のうちに、ありきたりのものや俗世間のイメージなど「何でも」受け入れてしまうという、芸術のスキャンダル(23頁)

 

 ――これこそ、ランシエールが語る美学のスキャンダルの片面である。もう片面は、そのように雑種的で何でも取り込む芸術、という規定から生じる逆説的なユートピアだ。いまや芸術にはいかなる序列や階梯もないのだから、社会的な規範が定める恣意的な身分指定を逃れる、自律した世界として立ち上がる。こうして芸術作品は、あらゆる支配秩序を宙吊りにする、自由と平等の約束を提示するのだ。ランシエールはこれを「芸術形式を新たな生の形式へと変えようとした美学的革命という法外で偽りに満ちた約束」(24頁)と呼ぶ。

 本書で「美学における居心地の悪さ」と言われるのは、いま挙げたふたつの「何でもあり」+「美学的革命という約束」に対して、人びとが抱く不安に他ならない。しかもそれは、近年になって初めて現れてきた反応ではなく、美学が揺籃したドイツ・ロマン派や観念論の世界においてすでに見られていた。この意味で、「美学における居心地の悪さは、美学そのものと同じだけ古い」(20頁)。

 ところで、ランシエールが挙げる三つの体制のうち、まだ倫理的体制に言及していなかった。表象的体制がアリストテレスに、美学的体制がカント以降のドイツ・ロマン派や観念論に結びつくのと同様、倫理的体制はプラトンの名に結びつく。もっともこの体制においては、固有の意味での芸術は存在しない。制作物は神の似姿としてのイメージであって、それが共同体における個人や集団に及ぼす効果が重視される。プラトンが共同体にとって危険な影響を及ぼす詩人を追放せよと主張したように、ここでは倫理的価値が判断基準になる。これら三つの体制は単なる時代区分ではなく、私たちが芸術を同定する三通りの仕方として、絶えず顔を現してくる。



 以上の見通しをもとに、本書の内容を紹介しておく。

 第一部は「美学の政治」と題され、最初の論考「政治としての美学」で上に見たランシエールの基本的な立場が確認されている。特に三つの体制(倫理的・表象的・美学的)の区別が、シラーの『人間の美的教育についての書簡』(1795)に言及される「ルドヴィシのユーノー」像の分析に即して展開されており、本書全体の議論を支える。続く「クリティカル・アートの諸問題と変容」では、90年代に提唱された「クリティカル・アート」が、実際には歴史上のさまざまな試み(シュルレアリストのコラージュ、ブレヒトの異化作用)に先立たれていることがまず確認される。コラージュに典型的な実践を見出せるその批判的芸術の本質を「異質なものが混淆する政治」だとまとめた上で、ランシエールはそれが現代においては異質性から同質性への移行という重大な変容を迎えていると指摘し、その様相を「遊び、一覧、出会い、神秘」という四点でまとめている。

 第二部「モダニズムの二律背反」はより理論的な議論に入る。第一論考「アラン・バディウの非美学――モダニズムのねじれ」では、バディウの「非美学」を芸術のモダニズム的理解と比較している。ここでモダニズムとは、社会や権力に対する芸術の自律性は望みながら、「何でもあり」がもたらす他律的性質は拒否する、といった傾向から理解される。ところがランシエールによれば近代の芸術(モダニズム的な芸術ではなく)において自律と他律は不可分なのだ。「美学上、芸術の自律性は、他律性の別名に他ならないのである。美学的な芸術の同定とは、同定しないことを一般化する原理なのである」(95頁)。その彼からすれば、バディウの議論は芸術を純化する点でモダニズム的な主張といくつかの点で共通しながら、言語でなく観念にその特異性を見出す点で「ねじれたモダニズム」になっているというわけだ。第二論考「リオタールと崇高の美学――カントの反読解」では、リオタールがカントからは到底期待しえない仕方で「崇高の美学」を引き出していることが指摘される。そうして成立した崇高の美学は、シラーによって切り開かれた芸術の「自由の約束」とは正反対に、〈他者〉の法への服従を強いるものだと、批判的に論じられる。

 最終部「美学と政治の倫理的転回」は、直前のリオタール批判の問題系をそのまま引き継ぐ。今日の芸術実践・批評に見出される「倫理的転回」は、一方では「芸術を社会的な結びつきに役立たせる芸術観」(リレーショナル・アートに代表される)と、「終わることのない災厄を証言させる別の芸術観」(クロード・ランズマンの映画『ショアー』に代表される)へと分岐している。ランシエールは、前者を「ソフトな倫理」、後者を「ハードな倫理」と呼び分けつつ、両者ともに美学の政治のラディカルさを換骨奪胎し、〈他者〉の法が支配する倫理への解消を目指すものだと批判して、そうした倫理的芸術を越える可能性を呼び求めるのである。

 

2. 花咲く運動・潮流のかげに

 以上の議論は、「美学的体制」ひとつを取ってみても、18世紀初頭に生じた「美学的革命」以来の200年近い歴史を展望に入れた、実に射程の長い議論である。同時に、すでに述べたように本書において目を惹くのは、著者のランシエール自身が2004年以前に見聞きしえた直近のアート運動・潮流や展覧会によって思考が触発されているという事実ではないか[2]

 このことは、ランシエールが冒頭で対決している、アラン・バディウの『思考する芸術――非美学への手引き』(1998)やジャン=マリー・シェフェールの『美学との訣別』(2000)と対比すれば、いっそう明らかに思われる(もちろん両著作も直近に書かれたもので、生々しい同時代の対話をそこに認めることができる[3])。まず『非美学』においてバディウが扱うのはマラルメ、ツェラン、ペソア、ベケットといった極めて近代的な詩人・作家たちか、あるいは幾人かの映画作家たち(ヴィスコンティ、ストローブ、ヴェンダースなど)であるのだが、そうした映画の「不純さ」は、ランシエールも指摘するように、「ただちに芸術の領域外に押し出」(118頁)されてしまう。他方、シェフェールの著作は、芸術作品よりも美的態度に焦点をあてた著作として致しかたないのだが、基本的に芸術作品に触れていない。せいぜいのところ、ランシエールが引用している箇所で、スタンダールや沈復(中国清朝の作家)、それにジョイスの名が挙げられるくらいである。対するにランシエールは、ジャンルを問わず多数の芸術作品、特に「現代アート」と呼ばれる作品群を取り上げていく。そもそも「美学」が「芸術を同定する体制」と呼ばれていたように、彼の議論が根本的に芸術作品を語るための装置であることは、彼に固有の選択として強調されて然るべきことに思われる。とりわけ、「美学=芸術を扱う」という等式は自明ではないだけに。

 さて、本書に挙げられている主要なアート運動や潮流、展覧会を挙げてみよう。

 

潮流:リレーショナル・アート(1998年 ブリオーの著書で命名)

   クリティカル・アート(1997年 第10回ドクメンタで提唱)

展覧会:《ここにいる》展(2001年、ブリュッセル)

    《背景音》展(2000年、パリ)

    《楽しませよう》/《スペクタクルを越えて》展(2000年、ミネアポリス/パリ)

    《ここに頭の中の世界がある》展(2000年、パリ[4]

    《ムービング・ピクチャーズ》展(2002年、ニューヨーク)

 

 他に映画作品として『ドッグヴィル』(2003年、ラース・フォン・トリアー監督)や『ミスティックリバー』(2003年、クリント・イーストウッド監督)などを加えても良い。こうしてみると、あくまで厳選されてはいるが、彼の議論が同時代の思想家たちとだけでなく、直近の展覧会や芸術潮流に即して書かれたものであることは明らかだ。無論、こうした潮流に組み込まれたり展覧会に出品している、多数のアーティストたちとその作品も言及されている。一部名前を挙げるに留めるが、ピエール・ユイグ、マーサ・ロスラー、ハンス・ハーケ、クリスチャン・ボルタンスキー、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、クリス・バーデンなどは重要だろう。もっとも、本書を読むためにあらかじめこれらの名前に習熟している必要はないけれども(多少知っていれば読みやすいだろうが[5])。

 こうしてランシエールが見据える潮流は、いずれも「アートと政治」をめぐる議論と連接している。「政治には政治の美学がある。〔…〕他方で、美学には美学の政治がある。」(66頁)――このように語る彼にとって、ある作品がいかに「美学の政治」を実現しているかが中心的な関心をなすのは驚きでない。

 ただし、誤解のないように述べておくなら、ランシエールの主張は、たとえそれがラディカルな政治(解放の政治)を目指して展開されるからといって、「芸術作品は政治的メッセージを発信すべき」という立場とは程遠い。本書でも「芸術はまず、それが世界の秩序について何かを伝えるメッセージや感情などによって、政治的であるわけではない」(35頁)と言われるとおりだ。この点については本書より4年後の著作『解放された観客』の方が明瞭である(特に「政治的芸術のパラドックス」と題された章)。その種の政治的メッセージが、芸術家から鑑賞者へと一方向的に伝達する教育モデルを前提にしているとすれば、かかる教育モデルは規範に満ちた表象的体制や倫理的体制にこそ相応しい。むしろ美学的体制においては、芸術家による制作意図やその社会的な目的と、鑑賞者によって作品に読み取られる意味の間に、分離ないし切断が生じる。それは、「あらゆる直接的な関係を中断することの有効性」に依拠しているのだ[6]。鈴木亘の簡潔な指摘を引用しておこう。

 

ランシエールにとって、現代における作品の政治性は、明示的な政治的メッセージの次元にはない。むしろ作品の意味が「宙吊り」になることで、感性的なもののパルタージュの再編成というよりラディカルな次元での政治的作用が生じるのだ。そこに賭けるところに、彼の芸術批評の核心がある[7]

 

 さらにランシエールは、こうして政治的メッセージを載せればそれで事足れりといった類の作品だけでなく、90年代以降の「ポスト・ユートピア的」現代アートの実践に、概して辛辣である。たとえばニコラ・ブリオーが提唱した「関係性の美学」と結びつくリレーショナル・アートについては、それがコミュニティ創造や「社会的つながり」の創出を目指すという微温的にポジティヴな企てであり、異質性がもたらすディセンサスの効果を同質的なもののコンセンサス的効果に解消してしまうことに批判的だ。またクリティカル・アートの実践についても、それが「観客を世界変革の意識をもった行為者に変える」ことを目指す企てだとまとめた上で、用語としてそのように普及する90年代以前から先駆する実践があることを語る。しかし、それら批判的芸術の伝統が、同じコラージュという技法を用いていても、現代のそれは「異質なものの衝撃」を緩和させ、すべてを並列させてしまう傾向にある、とやはり批判的に見える[8]

 ところで、このように現代アートを批判するさなか、ランシエールは一箇所で些細なミスを犯しているように思われる。クリスチャン・ボルタンスキーの作品を批判的に論じるにあたって、彼はクリス・バーデンの作品《もう一つの記念碑》を肯定的に引き合いに出し、次のように書いている。

 

ヴェトナム戦争時、クリス・バーデンは《もう一つの記念碑》という作品を発表したが、これはもう一方の側の死者たち、名前も記念碑もない何千人というヴェトナム人犠牲者たちに捧げられていた。〔…〕その三〇年後、クリスチャン・ボルタンスキーは、すでに言及した《電話加入者たち》というインスタレーションを発表した。(166-167頁)

 

 ボルタンスキーのインスタレーション作品は、世界中の電話帳を収めた本棚を設置し、観客がそれを好きに取り出して用意された長机で調べることができるというもの。2000年の《ここに頭の中の世界がある》展で展示されていた。この文章を読めば、バーデンの作品はそれから遡ること30年前の70年代、つまりヴェトナム戦争真っ只中に発表されたものだと思うだろう。しかし、私の調べえたかぎり、《もう一つの記念碑》は1991年の作品である。そもそもこの作品は、ヴェトナム戦争の米国側戦没者を追悼する《ベトナム戦争戦没者慰霊碑》への批判的応答として企図されたものである。同慰霊碑はマヤ・リンの設計により1982年に落成したのであってみれば、いずれにせよ「ヴェトナム戦争時、クリス・バーデンは…発表した」と言うことはできまい[9]。ボルタンスキーとバーデンの作品は、発表年で見れば10年も違わないのだ。

 単なる記憶違いかもしれないが、その背景を考えることはできる。ここでランシエールがどういうことを議論しているか、確認しよう。彼のここでの主張は、バーデンとボルタンスキーの作品は、同じ名もなき人たち(と死)を素材としていながら、その素材の使い方と、作品の政治的な意味合いが逆転している、という点にある。バーデンの作品では米国側戦没者たちの追悼という公式な文脈に抗し、銅板上に荘重に刻み込まれたヴェトナム人犠牲者たちの名を掲げることで、ひとつの論争を起こし、哀悼をめぐる感性的配置に挑戦を挑んでいた。しかし、ボルタンスキーの作品では、電話帳に記載された名前は単なる「人類の見本」に過ぎず、全人類がそこで同質的に扱われる。作品を通じて、すべての名もなき人たちが結ばれるのだ。これら両作品の対比から、ランシエールは次のような結論を引き出す。

 

かつては、異質な要素を出合わせることは、搾取によって特徴づけられる世界の矛盾を強調し、この相克(コンフリ)に満ちた世界における芸術とその制度の位置を疑問に付そうとするものだった。今日では、同じ寄せ集めが、共通世界に関するアーカイヴ化と証言の機能に委ねられた芸術のポジティヴな働きとして明らかにされるのだ。(168頁)

 

 この対比には、分析以上に「かつて」を優位とする価値判断が働いているように思われる。ここで「かつて」と「今日」の対比は、概ね60〜70年代と90〜00年代の対比に対応している。二つの時代に切断線を引くのは、明らかに、1989年のソ連崩壊とそれに続く冷戦終結に至る出来事である。「一九八九年前後に、それまで政治的、美学的なラディカルさを歴史的時間の切断に結びつけてきた、この〔来るべき〕革命の最後の名残りが崩壊した」(180頁)。このように考えるなら、「政治的、美学的なラディカルさ」に結びついたバーデンの作品は、89年より以前に発表されていなければならなかったのだと言えよう。無論ランシエールが89年以降に発表された作品すべてに批判的であるわけではないのだが(むしろ彼はさまざまな作品にディセンサスの政治を見てとっている)、ここでバーデンの作品は、論証的な効果のために隔世的に位置づけられる必要があった。

 以上のようにランシエールは、今日(つまり2004年を終端とする今日)、ラディカルな美学の政治が至るところで変質を迎えていることを確認する。60年代の批判的芸術の継承者を標榜するような作品においてさえ、そうなのだ。「論争を引き起こすような芸術作品(ディスポジティフ)」から「社会における仲介機能をもつ方向」(169頁)へ。あるいは「クリティカル・アートの政治的/論争的役割」が「社会的/共同体的役割へと変化」していく(79頁)。こうした言及から、ランシエールにとって芸術のもつ範例的役割が、論争を引き起こす機能にあるのは明らかだろう。それは彼が「ディセンサス」と呼ぶものの別名である。他の著作から、次のような言及を借りてきても良いだろう。

 

ディセンサス的地平がその自明さを失ってしまったとき、批判的芸術はどうなるのか。コンセンサスという現代のコンテクストのなかで批判的芸術はどうなるのか[10]

 

 この懸念が、ランシエールを現代アートに対して「居心地悪く」させていると言うべきだろうか。本書を、全体としてランシエールによる世紀転換期の現代アート批判として読みたい、というのが筆者の興味である。もちろん、これとはやや違う方向性として、むしろリオタールの崇高の美学やランズマンの『ショアー』への批判を中心に読む道も残されてはいる。ただ、本書におけるランシエールの慧眼は、そのような「無限の悪と決定的な破綻(カタストロフ)への終わりなき喪」を語る芸術(要するにアウシュヴィッツを比較不可能な範例とする、過去に起きた破局への追思としての芸術)の「ハードな倫理」が、リレーショナル・アートに代表される「ソフトな倫理」とコインの裏表の関係にあることを露呈させたところにあるのではないだろうか。

 

3. 2004年以降

 さて、こうした議論を本書が刊行された2004年以降に延長する可能性を、いくつか素描してみたい。「芸術のポジティヴな働き」を強調する傾向――それはキュレーター優位の現代アートにおいて加速した――に対する批判は、批評家をひとり挙げるならクレア・ビショップに引き継がれた。彼女の『人工地獄』(2012)が、ランシエールのとりわけ『美学における居心地の悪さ』の問題系を継承している点については、同書の第一章が「社会的転回:コラボレーションとその居心地の悪さ」(The Social Turn: Collaboration and Its Discontents)と題され、ランシエールの著書の英訳版Aesthetics and Its Discontents(2009)と明確に響き合っていることからも知られる[11]。他方、彼女は単純にランシエールの議論を敷衍しているのではなく、いくつかの示唆的な指摘によってその物足りなさを見ている。たとえば、ランシエールは政治的芸術をそのメッセージから説明することを拒絶するが、同時に彼は政治的なテーマと無縁な抽象的な作品を取り上げない傾向にある(ヴェトナム戦争をめぐるクリス・バーデンの上述作品のように[12])。また、彼の議論には往々にして、表現やイデオロギーの問題とどう具体的に取り組むべきかまで示していない。ビショップは、ジェレミー・デラーの《オーグリーヴの戦い》を取り上げ、この具体的な分析に一歩進めている[13]。この作品は2024年の第8回横浜トリエンナーレ(「野草:いま、ここで生きてる」)にも出品されていたが、同展の「政治性」がしばしば取り沙汰されたことを思うなら、ランシエール(やビショップ)の分析は表面的な「政治性」の議論をはるかに越えたところに私たちを導いてくれるだろう。

 それから、クリスチャン・ボルタンスキー的な作品をどう考えるか。すでに見たようにランシエールは、彼のインスタレーションのひとつが「人類を結合する記憶の風景」を示し、「コンセンサスというカテゴリーによって特徴づけられた芸術のパースペクティヴのうちに登録されることになる」(168頁)とする。彼の作品は、トラウマとの向き合いや社会的つながりが負った傷の修復により、ちょうどソフトな倫理とハードな倫理の中間に立つ作品であると言えそうだ。決して還元的な見方はできないものの、ボルタンスキーはホロコーストのトラウマから出発した芸術家の一人である。そのことは、彼の自伝的書物に読まれる「ある意味で僕はホロコーストから立ち直れないままだ」という言葉にも確認できる[14]。ところで、2019年に「クリスチャン・ボルタンスキー―Lifetime」展(大阪、東京、長崎)が開催されたとき、彼はカタログに収録された杉本博司との対談のなかで「芸術家としての人生の始まりに、トラウマというものがあったと思います」と述べ、幼少期の記憶を喚起している[15]。この言葉を、ランシエールの書物の末尾に見られる次の言葉と対比させてみたい。

 

〔…〕政治と芸術を、あらゆる時間の神学から、あらゆる起源のトラウマや来たるべき救済の思考から逃れさせること〔…〕(181頁)

 

 もちろん、こんな風に二人の言葉を対比(コラージュ)させたくらいで「異質なものの衝撃」を与えられると期待するなら、それはあまりに皮相な期待だろう。ましてボルタンスキーの作品に、「共通世界に関するアーカイヴ化と証言の機能に委ねられた芸術のポジティヴな働き」という言葉では括りきれない、別の美学の政治を見る可能性も排除されていない。しかし、〈モニュメント〉シリーズのように静謐で、ほとんど祭壇的なボルタンスキー作品、喪失や鎮魂の感情により敬虔な気持ちにすらさせる彼の作品と向き合うための距離を置いた逆説的な仕方を――その作品がいかなる知的風土の変容から登場し評価されたのか評価する尺度を――ランシエールは与えてくれるのではあるまいか。

 ところで、異質と言えば先に挙げたボルタンスキーと杉本博司の対談ほど異質な感じを与えるものもない。

 

杉本 〔…〕私としては、海の景色、これが私自身の最初の記憶です。3、4歳の子どもだった時、列車からここの海を見たのですが、私はその光景に心を奪われました。

ボルタンスキー それがあなたのトラウマなのですね。

杉本 はい、これが私のトラウマです。今でもはっきりと覚えている、海の景色が私の最初の記憶なんです[16]

 

 ここで二人は意気投合して見えるけれど、海の景色をトラウマと呼ぶ言い方には、どこか虚構じみたところがある。それが真正の記憶であることを疑うわけではない。現に彼の自伝の「記憶の始まり」と題された冒頭の章も、この圧倒的な海の体験から書き起こされている(『影老日記』新潮社、2022年)。ところがそれは、三島由紀夫の極めて虚構的な〈告白〉小説(『仮面の告白』)の参照から始まり、おぼろげで夢幻的な説明しか許容していない。確かに、写真家はその「子供の頃のさまざまな体験の記憶」に呪縛されて写真を撮り、長じてから〈海景〉シリーズ(1980〜)を制作するだろう。現在(2026年6〜9月)開催中の「杉本博司 絶滅写真」展にもそれが展示されており、そのスペースにはボルタンスキーのそれと同じくらい静謐で、何か祭壇的な空間設計を感じ取ることもできる。ただしそれは、ランシエールが言った、「政治上や権利上の差異が、倫理的な不分明のなかへと解消されていく」空間とは異なる。異なる土地を映すどの写真も、空と海が交わる水平線という同一の構図から撮影されているが、その水平線の不分明さは、むしろ「倫理的な不分明」のなかへと差異を回収させていく。それは倫理的ではなく、かといって政治的であるとも言えない不分明さだ。「絶滅」という、ポストヒューマン的または気候変動的な主題を連想させるタイトルを冠しながら、そこに人類へのいかなるメッセージも含んでいないように思われるのは(写真家が作品に添えた狂歌がその「メッセージ」を体現しているのでないならば)、やはり倫理とは遠い遊び心がそこにあるからではないだろうか。



 いささか連想的な無理をしながらランシエールの著作から出発して近年の展示や作品と結びつけてみたが、このように具体的な作品と共に考えることで、難解に思える彼の議論が見えてくることもあるのではないか。たとえば『美術手帖』2026年7月号の総力特集「21世紀の現代アート事典」を眺めながら、2004年と2026年の相違を考えてみてもいい。脱中心化、フェミニズム・クイア、ケアやアクティヴィズム、ハラスメントや♯MeToo運動、表現の自由などが大きく語られるなかで、2004年からどのように地平が変化し、具体的にどんな作品が現れてきた/現れてくるだろうか。そしてその作品はどのように私たちの感性を揺るがし、既存の感覚を再編成するだろうか。芸術は、私たちに衝撃を起こす時にしか現れてこない、ランシエールはそのように考えていた。そうした作品の到来に身構えるには、それが現れてくる世界への注視を欠かすことができない。それこそランシエールが、最後に引く次の言葉でもって言わんとしたことではないか。

 

いつでも様々なかたちの権力があるからといって、つねに政治があるわけではない。同様に、いつでも詩、絵画、超克、音楽、演劇やダンスがあるからといって、つねに芸術があるわけではないのだ。(38頁)[17]



[1] ジャック・ランシエール『美学における居心地の悪さ』松葉祥一・椎名亮輔訳、インスクリプト、2025年。本書からの引用は本文中の括弧内にページ数を入れて示す。

[2] 序論や各章に付された注に記されているように、本書は1995年から2004年にかけて行われたセミナーや講演に基づいている。したがって、本稿の記述に関係するので触れておくが、訳者解説の以下の記述は修正を要するだろう。「本書を構成する各章のうち、「序論」および「政治としての美学」は書き下ろしであり、他の章は一九九五年から二〇〇一年にかけてのセミナーおよび講演にもとづいている。」(209頁)第一に、「政治としての美学」は書き下ろしでなく、2002年5月および2001年6月のセミナーでの発表に基づいている。第二に、同「政治としての美学」(2001, 2002)、「リオタールと崇高の美学」(2002)、「美学と政治の倫理的転回」(2004)は2001年以降のセミナーや講演に基づいている。

[3] アラン・バディウ『思考する芸術――非美学への手引き』坂口周輔訳、水声社、2021年。Jean-Marie Schaeffer, L’Adieu à l’esthétique, Paris, PUF, 2000.

[4] フランス語での展示タイトルは« Voilà. Le monde dans la tête »である。「ここに頭の中の世界がある」という訳は、Voilàの後に打たれたピリオド(ポワン)を飛ばしているので不正確かもしれないが、便宜上そのまま用いる。『イメージの運命』ではVoilàを「そこにある」と訳している。「ほら」と訳すことも可能だろう。

[5] なお、こうした参照先は、前年に刊行されていた『イメージの運命』とある程度共通しており、両著作は独立していながら相補的である。書籍としての構成についても、特に両著の掉尾をそれぞれ飾る「表象不可能なものがあるのかどうか」と「美学と政治の倫理的転回」は、いずれもランシエールによる〈表象不可能性〉批判の文脈で極めて重要である。他方、この時期の重要な展示のひとつである《収容所の記憶》展(2001年、パリ)に対する言及は本書にはない。この展示については『解放された観客』所収の「許しがたいイメージ」参照。

[6] ジャック・ランシエール『解放された観客〈新装版〉』梶田裕訳、法政大学出版局、2018年、73頁

[7] 鈴木亘『声なきものの声を聴く ランシエールと解放する美学』堀之内出版、2024年、78頁。もっとも、この後続けて鈴木がクレア・ビショップの議論を引きながら述べるように、ランシエールが扱う作品は明示的に時事的または政治的である(後述)。

[8] ここで彼が21世紀転換期の芸術実践の特徴のひとつとして、「神秘」を挙げていることは興味深い。「「神秘」は、象徴主義の中心概念であった。そして間違いなく象徴主義が再びブームとなっている。」(82頁)19世紀末にも、同じように象徴主義が「ブーム」であった。ここでの現代アートの象徴主義的―神秘的傾向に対する批判(ゴダールに対しても差し向けられる)は、象徴主義詩人のマラルメに注目してきたランシエールならではの関心と交差している。

[9] フランス語原文を確認しても、« Au temps de la guerre du Vietnam, Chris Burden créait son Autre mémorial… »と書かれている(Jacques Rancière, Malaise dans l’esthétique, Galilée, 2004, p. 159)。英語訳でも« During the 1970s, before the end of the Vietnam War, Chris Burden created a work entitled The Other Memorial… »とある(Id, Aesthetics and Its Discontents, Polity Press, p. 121)。

[10] 『解放された観客』前掲書、86頁

[11] クレア・ビショップ『人工地獄――現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年。以下に見るリレーショナル・アート批判については同著者「敵対と関係性の美学」星野太訳、『表象』5号、2012年、75-113頁も参照。訳者の星野による日本への紹介として『美学のプラクティス』(水声社、2021年)も重要である。

[12] 「ランシエールは、内容の時事性または政治性は、政治的芸術の本質的特性ではないと言う。しかし興味深いことに、「感性的なものの分割=共有」は、政治的なテーマと無縁の抽象形式によっては決して提示されないのである。」(同前、56頁)鈴木前掲書も参照。

[13] 「ランシエールは、美学の政治が(党派政治というよりは)メタ・ポリティークであると言う。しかし彼の言説は往々にして、いかにしてあらゆる既存の表現、そのイデオロギー的な相互関係に私たちがより具体的に取り組みうるかという問いには向き合わない。」(同前、57頁)

[14] クリスチャン・ボルタンスキー+カトリーヌ・グルニエ『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』佐藤京子訳、水声社、2010年。より詳細な分析については、湯沢英彦『クリスチャン・ボルタンスキー 死者のモニュメント 増補新版』水声社、2019年(特に第6章)を参照されたい。湯沢は80年代後半からボルタンスキー作品にホロコーストの主題が浮上してくることを指摘して、次のように述べる。「その死者の記憶の問題は、明らかに八〇年代後半の思想状況と密接な関係にある。一九八五年には、クロード・ランズマンの映画『ショアー』が公開され、「絶滅収容所」を巡る記憶と証言の困難あるいは不可能が突きつけられていた。〔…〕『モニュメント』がはじめて制作されたのも、『ショアー』と同年の八五年であり、それを偶然の一致として片づけるかわりに、八〇年代半ばに記憶をめぐる多方向からの問いかけが、人びとの思考に緊張をもたらす形で浮上してきている、という見取図を私たちは意識しておきたい。」(同書、170頁)

[15] 「対談 クリスチャン・ボルタンスキー×杉本博司」『クリスチャン・ボルタンスキー―lifetime』水声社、2019年、106頁

[16] 同前

[17] ランシエールはその注視を中東に向けていたことを言い添えておく。「フィクションはイスラエル人のために、ドキュメンタリーはパレスチナ人のためにある、ゴダールは皮肉を込めてそう言った。まさにこの分断線を、パレスチナやレバノンの――そしてまたイスラエルの――数多くの芸術家たちが撹乱している。」(『解放された観客』前掲書、98頁)同書収録の論考「許しがたいイメージ」は、ソフィ・リステルユベールによる連作『WB』が捉えた「パレスチナの道路にイスラエルが築いたバリケード」の分析により締めくくられている。


美学における居心地の悪さ ジャック・ランシエール 著

松葉祥一・椎名亮輔 訳


出版社 インスクリプト

発売日 2025年7月7日

定 価 本体3,000円+税

判型・頁数 四六判上製・240頁

ISBN 978-4-900997-79-0


 
 

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