「組み立て」小説の面白さ:小柏裕俊『モンタージュ小説論――文学的モンタージュの機能と様態』(水声社、叢書《記号学的実践》、2019年)/ 大浦康介

更新日:2020年5月26日

 本書はモンタージュという手法に焦点を絞った小説論である。「○○小説論」が面白いことは稀だが、本書は読む者をわくわくさせる。それはおそらくモンタージュ小説そのものが「遊び心」に満ちているからである。それはまた、けっして単純とは言えないその構造を噛んで含めるように解説する著者のやさしく賢い語り口から来るものでもあるだろう。

 モンタージュ(montage)といえば、犯罪捜査などで使われる「モンタージュ写真」というのもあるが、ふつう思い浮かべるのは映画のモンタージュだろう。これはフランス語ではいわゆる映画の「編集」を意味する。英語ではこれを使わず(film)editingという。マルグリット・デュラスの息子はドミニク・オーヴレ(Dominique Auvray)のことをけっして名前で呼ばず、いつも« monteuse de ma mère»(「おかんの映画の編集をしていた女」)と呼んでいた(ちなみに彼の«ma mère»の発音には「おかん」と訳すほかない一種の甘えが滲んでいた)。たしかに彼女は1970年代のデュラス映画(Baxter, Vera Baxter, Le Camion, Le Navire Night)の編集者だったが、これは明らかに角のある、見下した呼び方だ。オーヴレはのちにむしろブノワ・ジャコやクレール・ドゥニの映画編集者として知られるようになる女性である。しかも、2003年にはデュラスについてのドキュメンタリー(Marguerite telle qu'en elle-même)をみずから監督している(といっても過去の映像のパッチワークだが)。もう少しリスペクトがあってもいいんじゃないの? と言いたくなる(じっさいにそう言ってやったような気もする)。しかし待てよ。かく言う私自身、ここで「ジャン・マスコロ」とも「ウタ」(愛称)とも言わず「デュラスの息子」などと言っているではないか……。

 話がいきなり脱線したが(「おかん」あたりからおかしくなった)、脱線ついでに言うと、この« monteuse »という言葉、少し« menteuse »(「嘘つき女」)に似ている。

 話を戻すと、« montage »のもととなる動詞« monter »というのは面白い言葉である。他動詞として使う場合、これは「上にあげる」から派生して「組み立てる」という意味をもつ。IKEAでパーツを買って本棚を組み立てる、プラモデルのパーツから模型飛行機を組み立てる、そんなふうに使う言葉だ。バラバラのパーツを組み合わせて一つの全体に仕上げるいうことである。無からの創造ではない。オペレーションとしてはむしろ「利用」や「借用」(文章でいえば「引用」)に近い。しかし出来上がった全体は、たんなる部分の総和ではない。

 翻って考えると、映画というのはそもそもさまざまなカットの「組み立て」と考えられていたということが分かる。不連続が前提なのである。当り前といえば当り前だが、これはちょっとした発見だ。映像を媒体としているからそうなのか、小説のように文字媒体だとどうなるのか、そんな疑念が浮かぶ(ふつう小説を書き上げることは「モンタージュ」とは言わない)。

 ちなみに« monter »には「たくらむ」「でっち上げる」という意味もある。« monter un coup »(「(よからぬことを)一発たくらむ」)、« une affaire montée de toutes pièces »(「一から十まででっち上げられた事件」)などという場合がそうだ。組み立てにはときとして奸計や嘘が混じるということなのかもしれない。そういえばモンタージュ写真は、さまざまな顔写真の断片をもとにした合成写真だが、どんなに「犯人」に似ていようと、どこにも存在しない人間の顔写真である。ああ、また脱線しそうだ……。



 本書は、副題にもあるように、「文学的モンタージュ」を論じたものである。筆者によれば、文学的モンタージュには引用の切り貼りとしての「引用モンタージュ」と、複数の物語ラインを交互に示しながら同時進行させる「時空間的モンタージュ」の二種類がある。前者はフォトモンタージュ(先述した「モンタージュ写真」はその一分野にすぎない)から、また後者は映画のモンタージュから派生している。従来からなされてきたこの二定義は、ばらばらに存在していて、それらのあいだの関係性が問われることはなかった。本書の著者は、それらを貫くロジックを探り、両者の統合を試みる。その過程でエイゼンシュテインのモンタージュ論や、グリフィスの映画作品が1920〜30年代の英米小説に与えた影響、そして何よりジャン=ピエール・モレルの物語論的定義が検討されるが、いささか先取り的にいうと、この「統合」のさいに鍵となるのは読者ないし読書行為の役割である。モンタージュ小説は「テクストと読者が相互反応する場」であり、「モンタージュされた小説であるだけでなく、「組み立て」られることを待っている小説」なのである(「序」)。うん、うまい言い方だ。

 かくしてモンタージュ小説の構造が「縞模様」と「紐づけ」というタームで説明される(「紐づけ」というのは「情報通信分野の用語」で、linkingやlinkageに相当するらしい。私にはなじみが薄く正直違和感があるが、それはまあいいとしよう)。「縞模様」はテクストの様態を、「紐づけ」は読書行為の様態を示しているという。著者によれば、複線的物語のミニマルな交互的配列はABA'B'である。これが「縞模様」をつくる(Aにはひとつの色、Bには別の色が付けられているという想定である)。また縞にはさまざまな仕方で「紐づけ」がされている。この「紐づけ」には「組み直し」、「組み込み」、「引用の生成」の三種類があり、それぞれ「同色をまとめる機能」、「異色を嵌め込む機能」、「同色を異色に変える機能」をもっている。こうしてモンタージュ小説の基本構造が「カラフル」に図示されるのである。これはそもそもが「絵的」な文学的モンタージュの本質を汲んだ解明ではないだろうか。

 このように書くと、議論が抽象レベルでのみ展開されているように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。実作への参照はことあるごとななされている(ペレック『人生使用法』、アルフレッド・デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』、フロベール『ボヴァリー夫人』、ドス・パソス『U.S.A.』、クンデラ『生は彼方に』、カテブ・ヤシン『ネジュマ』、サルトル『猶予』、ペーテル・エステルハージ『生産小説』など)。しかしそれがよりシステマティックになされているのが最終の第三章「モンタージュ小説の類型論」で、私にはこれが一番面白かった。

 類型化は形式とテーマの両面から試みられている。形式的類型化は「縞模様」の色の数(二色、三色、多色)と種類(分岐・合流する縞、創出される縞)によるもので、それぞれについて代表的な作例が挙げられている(言及順に作者名だけ挙げておくと、エリオ・ヴィットリーニ、インゲボルク・バッハマン、クノー、リチャード・パワーズ、マイケル・カニンガム、ブロッホ、フアン・ルルフォ、バルガス=リョサ、アラゴン、ドン・デリーロ、クンデラ、エステルハージ、コルタサル、クロード・シモンなど)。モンタージュ小説になじみうるテーマとしては(1)集合住宅もの(ル・サージュ『片足の悪魔』、ペレック『人生使用法』、ビュトール『ミラノ通り』)、(2)車中空想もの(ビュトール『心変わり』、福永武彦『死の島』、レオニド・ツィプキン『バーデン・バーデンの夏』)、(3)臨終回想もの(フエンテス『アルテミオ・クルスの死』、フォークナー『死の床に横たわりて』、ミュリエル・バルベリ『至福の味』)の三つが取り上げられ、形式との関連が考察されている。この分類も作例もむろん網羅的ではないが、十分刺激的だ。「そういえばあの小説も」と、われわれ自身の読書記憶をたどる楽しみもある。

 以上からも窺われるように、モンタージュ小説は20世紀小説のひとつの(しかし多様な)実験ないし冒険としてある。これを物語上の合理主義、因果主義にたいするひとつの反抗と見ることも可能だろう。いずれにしても、モンタージュ小説の解析に読者と読書行為のモメントを導入し、多くの作例をとおして、いくつもの変換子を孕む一元的かつダイナミックな基本構造を剔出したことは著者の大きな功績である。あっぱれ!

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