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エリック・ロメール映画における編集に関する覚書——『モードの家での一夜』と『緑の光線』にみるストーリーテリング / 正清健介

  • 日本ヴァレリー研究会
  • 11月6日
  • 読了時間: 36分

1.「モードの家での一夜」のシーン

 エリック・ロメール監督『モードの家での一夜[1]Ma nuit chez Maud』(1969)は、最初25分を過ぎたあたりから、ある長いシーンが始まる。それは、フランス中部の山岳都市クレルモン=フェランに引っ越してきたばかりの主人公〈僕〉(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、クリスマスの夜、旧友のヴィダル(アントワーヌ・ヴィッテ)に連れられて、ヴィダルの女友達モード(フランソワーズ・ファビアン)の家を訪れるシーン(25:37-1:06:25)である。ヴィダル曰く「とても美しい女性」であるモードは離婚しており、ヴィダルとは友人関係にある。ただ、ふたりは肉体関係にもある。ヴィダルは、そんな友達以上恋人未満とも言えるモードを、どうしても〈僕〉に紹介したいらしく、その夜、半ば無理やり〈僕〉をモードの家へ連れて行く。本シーンは、その夜のモードの家での出来事を描くシーンである。そんなまさに作品タイトルにもなっている「モードの家での一夜」のシーンと言ってよい本シーンは、約40分間もの持続を持ち、本作品の中核をなすシーンとなっている[2]

 ここで注意したいのは、〈出来事を描く〉といっても、その40分もの間、本シーンでは、人物のアクションというより、会話が展開するということである。約40分間、モードの家という同じ物語上の場で会話が延々と続くのだ。シーンは、ちょうど中頃(46:34)を境に前半と後半に分かれ、前半約20分は〈僕〉とヴィダルとモードの3人の鼎談、後半約20分は〈僕〉とモードの2人の対談が展開する。途中、会話からヴィダルがひとり抜けるのは、そのタイミングでヴィダルがモードの家をひとりあとにしてしまうからである。前半、ヴィダルが帰るまでの経緯は以下の通りである。

 モードの家を初めて訪れた〈僕〉は、ヴィダルにモードを紹介され、夕食を共にする。食後のコーヒーのあと、〈僕〉が帰ろうとすると、ふたりに次々に引き止められる。眠くて帰りたい〈僕〉を尻目にモードは「ベッドの周りに人がいるのが大好き」と、はしゃぎ、肌着一枚になって居間のベッドにもぐり込む。一方、ヴィダルも酒の勢いに任せて、そのモードがくつろぐベッドにグラス片手に寝転がり、モードと戯れる。事態は、あたかもパジャマ・パーティーのような様相を見せ始める。それを傍観する〈僕〉は、しかたなくその場に残り、酔いの回ったヴィダルとベッドの上のモードを囲む形で会話と続ける。その後、雪が降り出し、〈僕〉は「遅いから帰る」と言って再度、ふたりにいとまを告げる。ところが、〈僕〉は、モードに雪の夜道を車で帰るのは危険であるという理由からまたしても引き止められ、「隣の部屋la chambre à côtéでお眠りになって」と今夜はゲストルームに泊まるよう促される。すると突然、ヴィダルが「家の窓を開けっぱなしにしてきた。雪が入るから帰らなきゃ」と言って、〈僕〉をその場に残して呆気なくモードの家を出て行ってしまうのだ。そんなヴィダルをモードは、〈僕〉に対してとは対照的に引き止める素振りも見せず、笑顔で送り出す。

 ここまで約20分にわたり鼎談を追ってきた観客にとっては、ヴィダルとモードのこうした言動はやや不可解である。というのは、まず、ヴィダルは、食後のコーヒーの後、モードに飲み過ぎを注意されながら、コニャックのグラスを片手に、帰りは〈僕〉に家まで送ってもらう(車で送ってもらう)という趣旨のことを述べていたからである。


ヴィダル「とにかく、今夜僕を送るのは君[モード][3]じゃなくて、彼[〈僕〉]さ」


たとえ、モードの家の窓から降雪を目にしたヴィダルが自宅の窓のことを思い出したとしても、ただそれだけの理由で即座に〈僕〉に送ってもらうという当初の予定を取りやめ、〈僕〉を女友達の家にひとり残して立ち去るとは考えられない。どうしてヴィダルはこのタイミングで〈僕〉をモードの家に置き去りにして帰ってしまうのか。そして、そんなヴィダルをどうしてモードは引き止めようとしないのか。というのは、前述したように、モードは、この直前に、〈僕〉を、雪を理由に引き止めていたからである。雪の夜道を帰るという点では、〈僕〉もヴィダルも条件は同じではないか。もっと言えば、大学で哲学を教えているという大学教員のヴィダルは〈僕〉の目をはばかることなくベッドで女友達と戯れあうほど酔っており、そんな泥酔状態のヴィダルを雪の夜道ひとりで帰らせる方がよっぽど危険ではないか。

 こうした、ふたりの不可解な言動に対する疑問は、シーン最後にすべて明らかにされる。先に種明かしをすれば、ヴィダルがこのタイミングで急に帰ってしまうのは、実はモードがヴィダルに対してある〈意地悪〉をしたからであり、モードがその帰ろうとするヴィダルを引き止めないのは、モードが〈僕〉に対してある〈意地悪〉をしようと企んでいるからである。注目したいは、この、ふたりの男性客に対してそれぞれ決行するモードの2つの〈意地悪〉がシーン最後に明らかにされるはるか以前(後半に入って6分過ぎたあたり)、モード自身が〈僕〉に向かって自分のことを〈意地悪〉であると宣言している場面があるということである。まずはその場面を見てみよう。


2. 「私は意地悪」

 〈僕〉とモードのふたりの対談が描かれる後半では、前半に続きモードはベッドで寝るばかり格好になっている。したがって、シーンは、ベッドのモードと、そのベッドの周りの〈僕〉という位置関係で進む。ただ、〈僕〉は常に移動しており、ベッドに固定されたモードとは対照的に〈僕〉の位置は次々に変わる。〈僕〉はベッドの周りで、座ったり、立ったり、歩いたりしながら、ベッドのモードと話すのだ。モードが〈意地悪〉と宣言するのは、それまであくまでベッドの周りにいた〈僕〉が、先ほどの酔ったヴィダルと同じように、モードのベッドに上がる、その時である。次の3ショット(51:50-54:50)は、〈僕〉がそのベッドに上がる前後の3ショットである(図1)。


ショット画像

台詞

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……省略……

②-a ②-b ②-c

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……省略……








モード「私も意地悪なの」

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モード「私はとても意地悪なの」



……省略……

図1


 ヴィダルが帰った後、〈僕〉はモードとの対話の中で自身の恋愛歴について話し、次いでキリスト(カトリック)教徒として自身のあり方(道徳/精神的あり方)について話す。最後、ショット①で〈僕〉は「聖人」について見解を述べる。

 次のショット②で、これまで画面外から質問をしていたベッドのモードが現れ、〈僕〉にタバコを取ってほしいと頼む[4](②-a)。するとキャメラがパンして、ベッドから離れたところにあるソファーテーブルをとらえ、その上に置かれたタバコの箱を〈僕〉がフレームインして取る(②-b)。タバコの箱を手にした〈僕〉がベッドのモードのそばまで行くのをキャメラはパンで追う。〈僕〉は、彼女にタバコを1本取らせ、すかさずライターで火を灯す。そして、そのままモードと向かい合う形でベッドの上に腰を下ろし、モードと会話を続ける(②-c)。ここで〈僕〉は初めてモードのベッドに上がる。このように、ふたりはかなり親密な形で接近するわけだが、そんなふたりの話題は、それまでと打って変わって、先に帰ったヴィダルのことである。話の内容は省略するが、最後に、モードが〈僕〉に「今夜、あなたは[ヴィダルに対して]親切ではなかったわ」と非難めいたことを言うと、〈僕〉はあたかも心外だと言わんばかりに「親切ではない?」と返す。これに対してモードは、自分のことを棚に上げたことを後悔するかのように息を深く吐いて、「私も意地悪なの Moi aussi je suis méchante.」と言う。この台詞は、会話の流れから、今夜自分もヴィダルに対して親切ではなかったという自責の念から言われている。この台詞はショット②の最後の台詞であり、その最後の台詞を言うモードはロングショットで捉えられている(②-c)。

 次にショット③に切り替わると、一変して、モードは〈僕〉の肩越しにミディアムショットで大きく捉えられ、ここですかさずモードが「私はとても意地悪なの Je suis très méchante.」と直前の台詞とほぼ同じ台詞を繰り返す。

 ここでモードは、「意地悪méchante」という言葉を繰り返すことで、〈僕〉に対して自分が「意地悪」であるということを力説している。それは、「意地悪」が2回目の台詞では「とてもtrès意地悪」というように副詞で強調されていることからもわかる。注目したいのは、モードが1回目の台詞を言い終わったその直後にショットが切り替わり、その切り替わったショット③ではショットサイズがロングからミディアムへ拡大しているという事実である。つまり、2回目の台詞は、話し手=モードが画面上で大きくなり、この大きくなったモードの口から発声される形となる。

 現代出版史資料館(IMEC、フランス・カン)が所蔵する注釈版シナリオ(左綴じ・片面印刷)[5]は、台詞が印刷された頁の左横の白紙頁にロメール自身によると思われる手書きの絵コンテが描かれているものがある(全部で6頁)。当該台詞「私も意地悪なの、私はとても意地悪なの」が記載されている48頁の左頁(すなわち47頁裏の白紙頁)にも、絵コンテが描かれており、それが、モードのロングショットとミディアムショットの2つの絵コンテである。つまり、撮影前の脚本の時点ですでに、この箇所についてはカット割りが決まっていたことがわかる。この前々から図られたショットサイズの拡大により、「私は意地悪」という台詞、ひいては、そのモードによる力説という事実が観客に向けて強調される結果となっている。つまり、「とても」という副詞で強調された形での繰り返しは、ショットサイズの拡大により、モードが本当に「意地悪」かどうかはさておき、少なくとも、モードが〈僕〉に向けて自分が「意地悪」であると力説しているという物語上の事実を観客に向けて強調する。このことは、ショット③には、拡大されたモードの姿だけではなく、ピントから外れながらも、その左手前景に聞き手である〈僕〉の後ろ姿(特に右耳)が共に捉えられていることからもわかる。モードは、ここで他でもない〈僕〉に向かって、「意地悪」という自身の性向について力説していることが強調されるのだ。ちなみに、このような編集は、本作品中唯一この箇所しかない。すなわち、繰り返される台詞が、ショットサイズの拡大(光学ズームでもなく、トラヴェリングでもなく、ショットの切り替えによる拡大)によって強調されるのは、この場面しかないのだ。

 では、なぜ強調されているのか。その理由は、シーン最後にモードが〈僕〉にする、ある打ち明け話が関係している。前述したように、シーン最後、この夜、モードが、〈僕〉とヴィダルのふたりの男性客に対してそれぞれ「意地悪」をしたこと(あるいは、「意地悪」をすること)がその内容と共に明らかにされるわけだが、そのことはまさに、この打ち明け話によって次第に明らかにされるのだ。ということで、次にシーン最後の場面を見てみよう。


3. モードの打ち明け話

 モードと〈僕〉の対話は、モードのある過去に関する私的な話で佳境を迎える。画面外の〈僕〉の「どうして離婚したんですか?」という質問に答える形で、モードは元夫のことを話し出し、その元夫と自分にはそれぞれ不倫相手がいたことを打ち明ける。この打ち明け話は、本作品のラストシーンの重要な伏線となっているが、本稿が注目したいのは、このモードのプライベートな話が終わった後のもうひとつ別の打ち明け話である。ここでモードは、〈僕〉に、観客も驚く、自宅に関するある秘密を打ち明ける。

 話終わりに、〈僕〉が自分のタバコに今度はマッチで火をつけ、一息吐いて、モードに「もう夜遅い。その部屋はどこですか?」と尋ねる。「その部屋」とは、〈僕〉が2度目にモードに引き止められた際にモードに言われた「隣の部屋でお眠りになって」の「隣の部屋la chambre à côté」のことである。〈僕〉は、ヴィダルが帰る直前にモードが言っていた「隣の部屋」で寝ようとその場所を尋ねるわけだが、なんとこれにモードは画面外から「どこにもありませんわ」と答えるのだ。

 このように、この期に及んでモードの家には、〈僕〉が一晩ひとりで過ごすことのできる「隣の部屋」、すなわちゲストルームなど、どこにも無いことが明らかにされる。つまり、モードは、前半の終わり、〈僕〉を家に引き止めるために「隣の部屋」=ゲストルームがあると嘘をついていたということだ。「隣の部屋」というその嘘にまんまと騙された〈僕〉は、その晩、当然の成り行きで、モードと同じ部屋で(しかも同じベッドで)一晩を過ごすことを余儀なくされる。それが、カトリック信者、しかも「信心深い信者pratiquant」である〈僕〉にとって自制心が試される試練であることは言うまでもない。こうした、誘惑とも焦らしともつかぬ、なぶりこそが、モードの〈僕〉に対する〈意地悪〉に他ならない。前半の終わりに遡れば、この〈意地悪〉を実現するために、モードは〈僕〉とふたりきりになるよう、帰ろうとするヴィダルをあえて引き止めなかったのだ。

 では、一方、モードのヴィダルに対する〈意地悪〉とは何か。これもまた、「隣の部屋」というモードの嘘に関わる。モードと肉体関係を結ぶほど親密な関係にあるヴィダルは、当然ながらモードの家にはゲストルームなど存在しないことをはなから知っている。これについてヴィダル本人による言及は無いが、少なくともモードは、ヴィダルがそれを知っていた、という認識を台詞で示している。

 

〈僕〉「ヴィダルはそれを知っていたのですか?」

モード「もちろん」

 

したがって、モードが〈僕〉に「隣の部屋でお眠りになって」と言ったその時点で、ヴィダルは、モードが〈僕〉に嘘をついたこと、そしてその嘘によって〈僕〉を今晩家に引き止めようとしていることを知ったはずだ。さらには、ヴィダルは、モードがその嘘によって間取りを知る由もない初対面の〈僕〉を騙し、今晩自分と同じ部屋=ベッドで寝させようと企んでいることをも知ったはずだ(なぜなら、彼女の家にはゲストルームなど存在しないのだから)。要は、ヴィダルは、モードの〈僕〉に対する「隣の部屋」という嘘から、モードが〈僕〉に対して異性として興味を持ったことを瞬時に悟る。さらに言えば、ヴィダルは、モードが〈僕〉に興味があることを、〈僕〉にはわからない形で自分だけに伝えているということを知る。つまり、モードはこの嘘によってヴィダルに〈今夜はあなたの連れと寝るの、あなたは帰って〉と言っているようなものなのだ。

 この事実は、モードによれば、モードに「気がある」とされるヴィダルにとっては、モードを「軽蔑し、憎む口実」となると同時に、嫉妬心を掻き立てる面白くない事実でもある。だから、「虚勢」からヴィダルは「激怒して」このタイミングで〈僕〉をモードの家に置き去りにして先に帰ってしまうのだ。モードは「私は意地悪」と宣言した直後、次のように言う。


モード「あのあわれな男の子[ヴィダル]は、きっと、一緒にいる私たちを想像して今夜は眠れないわ」


もちろん、これはあくまでモードの見方(解釈)であり、ヴィダルが本当に何を思って帰ったかは映画では明らかにされない。少なくとも映画ではヴィダルが「激怒して」帰ったようには見えない[6]

 しかし、モードがヴィダルに対して行なったと自覚する〈意地悪〉、言わばモードの主観的な〈意地悪〉について言えば、この「隣の部屋」という嘘によってヴィダルに以上のような精神的ダメージを与えた(と思われる)ことが、その〈意地悪〉に他ならない。帰ろうとするヴィダルをモードが引き止めないのは、彼女が今夜〈僕〉に対して〈意地悪〉をしようとしているからであると同時に、モードがヴィダルの気持ちを以上のように想像し、ヴィダルに対しても〈意地悪〉をしようとしているからである。しかも、モードは、自分がヴィダルに〈意地悪〉する意図があることがヴィダル本人に確実に伝わると思った上で、ヴィダルの前で僕に嘘をつき、ヴィダルに対する〈意地悪〉を進めている。これほど悪意ある〈意地悪〉はないだろう。

 このように、前節で確認した後半6分過ぎたあたりで繰り返されるモードの「私は意地悪」という台詞は、シーン最後にモードの打ち明け話によって「意地悪」の内容が次第に具体的に詳らかにされることで内実を伴ったものとなる。つまり、「私は意地悪」という台詞は、このシーン最後の間取りに関する打ち明け話の、言わば伏線となっており、この台詞を伏線として機能させるためにこの台詞は編集によって強調されていると考えることができるのだ。というのは、もし、そうした編集による強調がなければ、40分にも及ぶ台詞の応酬の中で、「私は意地悪」という台詞は、他のあまたの台詞に埋もれ、観客に受け流されてしまうだろうからである。この台詞が、伏線として機能するには、そのように観客に簡単にスルーされてしまっては困るのだ。また、この編集による強調は、事前に「私は意地悪」であるとモード本人に警告されていながら、モードの「隣の部屋」という言葉を鵜呑みにして、そのままモードの家に居続けた〈僕〉の間抜けさを観客に事後的に印象付ける喜劇的機能もあるだろう[7]。さらに、この編集による強調は、観客に、〈この後、モードが何か「意地悪」なことをする(している)かもしれない〉といったその後の物語展開を予告する機能もあるだろう。いずれにせよロメールは、編集によって物語上キーとなる台詞を視覚的に強調して、観客の物語理解を促す効果を生み出している。


4. ストーリーテラー、ロメール

 同じ台詞が繰り返される際にショットを切り替え、ショットサイズを拡大させる。この〈技法〉は、もちろん何もロメール独自のものではない。たとえば、『モードの家での一夜』の2年後に公開されたフランソワ・トリュフォーの『恋のエチュードLes Deux Anglaises et le Continent』(1971)においても、同様の〈技法〉が使われている例がある。

 映画終盤、ホテルでクロード(ジャン=ピエール・レオ)と一夜を共にしたミュリエル(ステーシー・テンデター)が、朝、クロードに別れを告げるシーンを見てみよう。クロードが裸のままベッドで目を覚ますと、ミュリエルはコートを肩にかけすっかり身支度を済ませ窓辺に立っている。そんなミュリエルにクロードが「何してるんだい?」と尋ねると、ミュリエルは「私は行くわ、クロード」と答える。「どうして?」と事態を飲みこめないクロードは、ミュリエルを引き止めようと、「来てくれ! Viens!」という台詞を繰り返す。最初1回目の「来てくれ!」は、クロードのミディアムショットで発声され、2回目の「来てくれ!」は、ショットが切り替わり、クロードのミディアム・クロースアップで発声されている。このように、「来てくれ!」という台詞が繰り返される際にショットが切り替わり、ショットサイズが拡大している(図2)。重要なのは、『モードの家での一夜』の場合と同様、この技法によってこの繰り返される台詞「来てくれ!」もまた、視覚的に強調されているということだ。この後、ミュリエルは、クロードの一緒になろう(結婚しよう)という説得を振り切って、クロードに別れを突きつけることになるのだから、ミュリエルの強い意志やその後のクロードの孤独を理解する上で、この「来てくれ!」というクロードの命令形の懇願は重要な台詞であることは言うまでもない[8]。トリュフォーはその後の物語展開を踏まえた上でそのキーとなる台詞を視覚的に強調しているのだ。

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図2:繰り返される「来てくれ!」


 この〈技法〉が、当時、フランスの映画製作においてどの程度使われていたかはわからない。また、当時のみならず、これ以前のフランスの映画製作においても使われていたのかどうか、また、フランス以外の国でも使われていたのかどうか、いずれも定かではない。これらのことを確認するには、当時やそれ以前の作品を対象にした網羅的な調査が必要となるだろう。それは本稿では到底手に負えるものではない。本稿が問題としたいのは、この〈技法〉がロメール作品以外でどの程度使われていたかどうかは別にして、その後のロメール作品でも使われたかどうかであり、もし使われているのなら、どのように使われているか、である。

 これにあたりまず確認したいのは、この〈技法〉は、台詞を視覚的に強調する手段としては、いささか安易とも言える手段であるということだ。一方、だからこそ物語理解を目的とする観客にとってはわかりやすい手段とも言える。観客の多くは、この〈技法〉によって、特定の台詞が強調されていると思うだろうし、そのように露骨に強調されているがゆえに観客は、その台詞を受け流すことなく、キーワードとして心にとめ、その後の物語展開を予測することができる。さらに、その台詞を、のちにその台詞に関係した出来事が起こった後に、事後的に伏線として理解することもできるだろう。また、たとえショットサイズの拡大といった事柄に無頓着な観客にとっても、まるでサブリミナル効果のような形で無意識のうちに、繰り返される台詞が記憶に残るかもしれない。

 注目すべきは、そのような安易な手段が、ロメールとトリュフォーという、フランス・ヌーヴェルヴァーグを代表する両監督、その代表的作品の物語上重要な局面で使われているという事実である。これは、両監督の、ストリーテラーとしての側面を如実に示すものである。いずれもが、ハリウッドのストリーテラー、ハワード・ホークスとアルフレッド・ヒッチコックを敬愛してやまなかったという事実を踏まえるなら、このことは、ことさら注目に値することでもないかもしれない。この〈技法〉は、古典的ハリウッド映画の称揚から映画人としてのキャリアを始めた両監督の作品だからこそ必然的に認められる技法とさえ言える。ただし、両監督ともこの〈技法〉を乱用するようなことはしていない。引き続きロメールの場合をみてみよう。

 まず、この〈技法〉は、映画編集に関わるものであることから、当然ながらその使用には監督のロメールのほかに編集者が関係していると推測される。『モードの家での一夜』の編集を務めたのはセシル・ドキュジスである。ドキュジスは、本作品から1984年の『満月の夜Les Nuits de la pleine lune』まで約15年にわたり9本のロメールの長編作品の編集者を務めた、言わばロメール組の初代編集者である。このドキュジスが初めてロメールと組んだ『モードの家での一夜』にみられるこの〈技法〉には、ドキュジスが編集者として関わっている可能性がある。

 ところが、『モードの家での一夜』以降、ドキュジスが編集を担当した『満月の夜』までのすべてのロメール作品でこの〈技法〉が使われている例は管見の限り無い。この〈技法〉が再びロメール作品で使われたのは、『緑の光線Le Rayon vert』(1986)においてである。興味深いのは、この『緑の光線』は、「喜劇と格言」という連作途中の作品(全6作中5作目)でありながら、編集者をはじめスタッフ陣が一新した(世代変わりをした)作品であるという事実である。本作品は『満月の夜』の次作にあたり、編集は、ドキュジスの後任として、当時、20代後半の、女優で編集者のマリア=ルイザ・ガルシア(女優名リザ・エレディア)が担当した。ロメール組、二代目編集者である。つまり、この〈技法〉は、編集者が新しく入れ変わった最初の作品で、再び使われているということだ。この事実は、この〈技法〉の使用にはある特定の編集者が関与しているわけではないことを意味している。したがって、もし、『モードの家での一夜』と『緑の光線』におけるこの〈技法〉の使用に連続性を見出そうとすれば、その背後にはやはり監督ロメールの存在が浮上してくるわけである。ただし、『緑の光線』におけるこの〈技法〉の使われ方は、15年前の『モードの家での一夜』のそれとは大きく異なっている。


5. ヒロインの緊張——『緑の光線』

 『緑の光線』の終わり。夏のヴァカンスでフランス南西部の港町ビアリッツを訪れていたヒロイン・デルフィーヌ(マリ・リヴィエール)は、帰りのパリ行きの列車を待つビアリッツ駅で、運命の男性とめぐり会う。それまでヴァカンス中ずっと孤独に苛まれていたデルフィーヌにとって、僥倖としか言いようのない偶然の出会いである。デルフィーヌは、これから週末をビアリッツの南の漁港サン・ジャン・ド・リュズで過ごすというその家具職人の男性ジャック(ヴァンサン・ゴーティエ)と駅のベンチで話をするうちに、大胆にも「私を連れてってくれませんか?」と言い出す。これがきっかけとなり、デルフィーヌは急遽帰京を取りやめ、その出会ったばかりの男性についてサン・ジャン・ド・リュズへ赴くことになる。この漁港の岬から、ふたりが本作品のタイトルにもなっている〈緑の光線〉ことグリーンフラッシュを共に目撃するシーンが本作品のラストシーンであり、クライマックスとなる。

 このクライマックスの強烈さのためかあまり目立たないが、ラストシーン直前に、ふたりがカフェで過ごすシーン(1:29:29-1:32:59)がある。テラス席でデルフィーヌがジャックに自身の恋愛観について話すシーンである。直前の駅での出会いのシーンではvous(あなた)と呼び合っていたふたりは、このカフェのシーンではすっかり打ち解けた様子でtu(君)と呼び合う仲になっている。ただ、シーンをしばらく見ていると、打ち解けた様子でありながら、どうもデルフィーヌの様子がこれまでと違うことがわかってくる。どう違うかについての話に入る前に、念のため本シーンに至るまでのあらすじを確認しておこう。

 パリの事務所で秘書として働くデルフィーヌは、ヴァカンス直前に突然、友人からギリシャ旅行の同行を断られる。真夏のパリでひとりぼっちとなった彼女は、パリと地方都市を往来しつつ、ヴァカンスを共に過ごす相手を探すが、孤独という現状を変えることはできず、悲観に暮れる。だがある日、偶然、パリの街中でイレーヌという女友達とでくわし、それがきっかけで、ビアリッツに行くことになり、そこで運命の男性ジャックと出会い、幸福をつかむ。

 さて、本稿が着目するカフェのシーンは、この運命の出会いのシーンの直後に位置するわけだが、シーンは次の5つのショットで構成される(図3)。

 

①(mcu)デルフィーヌからジャック、ジャックからデルフィーヌへのパンショット

②(mcu)ジャックのショット

③(ms)デルフィーヌとジャックのツーショット

④(mcu)ジャックのショット

⑤(mcu)デルフィーヌのショット

 

*mcuはミディアム・クロースアップ、msはミディアムショットを示す



ショット画像

台詞

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……省略……




デルフィーヌ「私はこれまで3回恋をしたことがあるわ」

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デルフィーヌ「3回



……省略……


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……省略……


デルフィーヌ「現実よりも何かを待つ方がいいわ、わかるでしょ、ダメにしちゃうよりも」

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デルフィーヌ「期待をダメにしちゃうよりも」

 

 

……省略……


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……省略……

図3


 ショット①は、対話するふたりをデルフィーヌ→ジャック→デルフィーヌという順で、パンでゆっくり交互にとらえるショットである。ショットの最後、デルフィーヌが捉えられる中「私はこれまで3回恋をしたことがあるわ」と言う。その直後に次のショット②に切り替わる。ジャックをとらえた固定のショットである。これにデルフィーヌの「3回」という言葉が画面外の声としてかぶさる。直前の「私はこれまで3回恋をしたことがあるわ」の「3回」はフランス語では、フレーズ末に来る。したがって、「3回trois fois」という名詞が、ショットをまたぐ形で繰り返されていることになる。

 同様のことは、続くショット③からショット④の切り替わりの際にも起こる。ショット③は、テーブルを囲むふたりを同時にとらえる固定のツーショットである。ショットの最後、デルフィーヌが「現実よりも何かを待つ方がいいわ、わかるでしょ、ダメにしちゃうよりも」と言う。その直後に次のショット④に切り替わる。ショット④は、先ほどのショット②とほぼ同じ、ジャックのショットである。したがって、ジャックを軸に考えれば、このショットの切り替えによって、ミディアムからミディアム・クロースアップへとショットサイズが拡大している。つまり、ジャックにキャメラがよった形となり、ジャックは画面上で大きくなる。このジャックの大写しのショットにデルフィーヌの「期待をダメにしちゃうよりも」という言葉がまたもや画面外の声としてかぶさる。「期待をダメにしちゃうよりも」の動詞「ダメにしちゃうgâcher」はフランス語だとフレーズ頭に来る。したがって、このショットに切り替えに際しても「ダメにしちゃう」という動詞が、ショットをまたぐ形で繰り返されていることになる。

 たしかに、本作品においてデルフィーヌが言葉を繰り返すことは、なにも珍しいことではない。彼女は、本作品を通して誰かと会話する中で、同じ単語やフレーズを度々繰り返している。ここで注意しなければならないのは、その繰り返しは、先に取り上げた『モードの家での一夜』の「私は意地悪」のように念押しや強調というより、彼女がどもった結果として現れる類のものだということだ。そのどもりつつの繰り返しは明らかに、本作品を通して見られる彼女の涙ながらの彷徨と相まって、情緒不安定な彼女の人柄を表す物語上重要な要素となっている。ただ一方で、その彼女のどもりのほとんどは、実生活で人が話す際に自然に現れるどもり、特に人が考えながら(言葉を選びながら)話す際のどもりの域を出るものではない。実生活では人は度々、言葉を繰り返すものだ。その意味で、彼女のどもりは、彼女の発話を現実感あるものとして表す要素にもなっている。

 しかしながら、本シーンでは、デルフィーヌが、これまでにましてどもり、過剰と言えるほど言葉を言い直す様子が示されるのだ。たとえばそれは、ショット①の最後のデルフィーヌの台詞「私はこれまで3回恋をしたことがあるわ」を聞いてみるだけでもわかる。この台詞は、本作品の日本語字幕版の細川晋氏による日本語字幕でも「これまでに私は三度恋をしたわ[9]」となっているが、実は、正確には、次のように発話されている。

 

ただ、私は、私は、そう、私は恋をしたことがあって、ただ私は、そうよ、私はこれまで3、3回恋をしたことがあるわ。

Mais, j’ai été, j’ai été, oui, j’ai été amoureuse, mais j’ai été, oui, j’ai été amoureuse trois, trois fois dans ma vie.

 

前述したように、この発言の直後にカットが入って、さらに「3回」という言葉が画面外から繰り返されているというわけだ。trois(3)という言葉だけ見れば、通して全部で3回繰り返されていることになる。こうした吃音とさえ言える過剰なまでのどもりつつの繰り返しは、語の強調ではないのはもちろん、単に彼女の性格描写や発話のリアリズムに奉仕するだけのものでもない。それはむしろ、彼女がジャックという運命の男性を目の前にして極度に緊張していることをことさら示すものになっている(現に彼女は本シーンにおいて頬を赤らめてさえいる)。そこで注目したいのは、このシーンでは、単に言葉が繰り返されるだけでなく、言葉が繰り返されるその直前にショットが切り替わっているという点である。このような編集は他のシーンにはない、本シーン特有のものだ。これはどうしてか。

 注目したいのは、前述したように、ショットが切り替わることにより、「3回」と「ダメにしちゃう」の2つの繰り返される言葉、そのいずれもが、ジャックのショットに〈画面外の声〉としてかぶさる結果となっているという事実である。これは『モードの家での一夜』の場合と異なる点である。『モードの家での一夜』の「私は意地悪」は、話し手モードのショットにインの声として挿入されている。対して、この、『緑の光線』の「3回」と「ダメにしちゃう」はいずれも、ショットが切り替わったあと、聞き手ジャックのショットに画面外の声として挿入されている。これにより、デルフィーヌは同じ言葉を繰り返しているわけだが、ジャックを目の前にして繰り返しているという事実が強調される。つまり、繰り返される言葉がジャックのショットに画面外の声としてかぶさることで、デルフィーヌが他でもないジャックを前にして言葉を度々繰り返している(すなわち緊張している)ということが視聴覚的に強調されるのだ。いずれも、台詞が繰り返される直前に、ことごとくジャックのショットに切り替わっているのは、そのような観客に対する効果(印象操作とも言える)を狙ってのことだと思われる。特に、ショット③からショット④への切り替えでは、聞き手ジャックのショットサイズの拡大により、ジャックの、聞き手としての存在が強調される。そこにすかさず、デルフィーヌの繰り返される台詞が画面外からかぶさることで、デルフィーヌの緊張、さらにはその緊張をジャックが直に感じ取っていることが観客に強調された形で示される。

 このように、①台詞の繰り返し、②繰り返される際のショットの切り替え、③ショットの切り替えによるショットサイズの拡大、という3点だけ見るなら、使用されている技法は、『モードの家での一夜』の場合と同じである。だが、同じ台詞の繰り返しであっても、『緑の光線』の場合は、どもりつつの繰り返しであり、しかもそれが音源である発話者が映されるインの声ではなく、発話者が映らない画面外の声であることで、この〈技法〉による効果は『モードの家での一夜』の場合とは似て非なるものとなっているのだ。

 

6. 〈偶然と意図〉

 ではなぜ、『モードの家での一夜』で使われたこの〈技法〉は、このように、15年後の『緑の光線』では異なる形で使われることになったのか。なぜなら、まずそれはもちろん、この〈技法〉を使う目的がそれぞれ違うからである。『モードの家での一夜』の場合、その目的は、特定の台詞の強調であり、それによってその台詞を観客に印象付け、物語上の伏線として機能させることにある。対して、『緑の光線』の場合、その目的は、ヒロインが異性を前にして同じ言葉を繰り返しているという事実の強調であり、それによってヒロインのその異性に対する態度、心情を表すことにある。だから、その使われ方は違って当然である。


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図4:フレーム内に入り込んだマイク


 そもそも、『緑の光線』では、この〈技法〉を『モードの家での一夜』と同じ形で使いたくても使えなかったと考えられる。というのは、両作は、同じロメール作品でありながら、台詞に関わる部分で製作方法が大きく異なるからだ。たしかに、両作とも同時録音が使われている点は同じである。詳しくは拙論[10]に詳しいが、ロメールは『モードの家での一夜』から本格的に同時録音を採用し、その後、『緑の光線』を含め、その方針は映画監督としてのキャリアを通して変わらなかった。ちなみに、『モードの家での一夜』には、俳優の頭上のマイクがフレーム内に映り込んでしまったミスショット(1:44:43)(図4)もあり、屋外でのロケ撮影においてさえも同時録音が採用されていることが確認できる[11]

 しかし、録音方法は同じでも、その録音対象となる台詞、その生成過程は『モードの家での一夜』と『緑の光線』とではまったく違う。つまり、『緑の光線』の「3回」にしても「ダメにしちゃう」にしても、その成り立ちが『モードの家での一夜』の「私は意地悪」とは決定的に異なるのだ。後者の台詞は「私は意地悪」を含めすべて、撮影前にあらかじめ脚本として書かれたものだが、これに対して実は、『緑の光線』の台詞は事前に書かれたものではない。『緑の光線』の製作において脚本は書かれていない。脚本が無い。これはロメールの映画作りを少しでも知っている者ならみな驚いてしまう事実である。というのは、ロメールは映画製作において事前に必ず厳密な脚本を用意し、その脚本通りに、一字一句違わず俳優に話させたことで知られる監督だからである。一般にロメールはそのような脚本ありきの映画作りで知られる監督であり、実際、ロメール作品に出演した多くの俳優たちがそう証言しており、『モードの家での一夜』の〈僕〉を演じたトランティニャンもその1人である[12]

 ところが、1984年の夏、『緑の光線』の製作にあたり、スタッフ陣の刷新に伴いロメールは例外的に「書かれたものを介さない、より直接的な映画[13]」を目指し、脚本無しで撮影に臨んだ。その翌年、『カイエ・ドゥ・シネマ』誌のインタビューにおいてロメールは撮影時のことを次のように振り返っている。

 

この、ギトリ=パニョル的側面[脚本に基づく映画づくり]——人はこの側面に私を閉じ込めたいと思っていたわけですが——から離れるために、昨年の夏、ヴァカンス映画を気晴らしから作りました。撮影前も後も撮影中もまったく何も書きませんでした。この小さなノートを見てください。俳優たちとの事前対談をこのノートに書き起こすことを始めましたが、結局それは使いませんでした。あと残りといえば、請求書明細、クレジットタイトルの下書き、鉄道の時刻表と潮位表ぐらいです。なので、無駄な書類は何もありません。すべて口頭で済ませました。めったにありませんが、俳優たちにあるフレーズを正確に言わせたい時は、彼らにそれを言ったものです。ですが、それを書いたりはしませんでしたし、また、彼らにそれを書き取らないようお願いしました。それは、私たちとって、とても心地よく、実りある経験でした。ただ、主軸となる特定のテーマは必要です。[14]

 

このように、『緑の光線』は製作方法という点で、特にその台詞に関わる部分で、ロメールのフィルモグラフィーの中でも異色の作品となっている。ロメールは、次作『レネットとミラベルの四つの冒険4 aventures de Reinette et Mirabelle』(1987)においても同様の方法を採用したが、『緑の光線』ほどは徹底していない。そして、その次の作品『友だちの恋人L’Ami de mon amie』(1987)でロメールの映画作りは脚本を主体としたものに逆戻りしてしまう。

 事前に脚本を用意せずに、台詞を撮影時に撮影現場において毎回口頭で俳優に伝える。たしかに、この手法は、フランス・ヌーヴェルヴァーグの監督のものとしては一見凡庸に思える。だがそれは、ロメールの映画製作においてはかなり珍しいものなのだ。しかも、デルフィーヌの台詞は、ロメールから撮影現場で伝えられた台詞というより、デルフィーヌを演じた女優リヴィエールが即興で口にしたものであることがわかっている[15]。このように、ロメールの映画製作では異例なことに、『緑の光線』の撮影現場では台詞に関して俳優に完全な自由ではないにせよ、ある程度の自由が認められ、リヴィエールに至っては即興で台詞を口にした。この事実を踏まえれば、脚本に基づく『モードの家での一夜』と同様の形でこの〈技法〉を使うのはかなり無理があることは明らかだろう。

 即興で話している話し手を同録で撮影し、それを編集素材とする場合、編集で、その話し手がある特定の台詞を口にしている時だけショットサイズの大きいショットに切り替えるには、素材として他に、異なる位置にある別のキャメラ(いわゆる2カメ)から同時に撮影したフィルム、あるいは、異なる位置から後で撮影したフィルム(別のテイク)が必要となる。しかし、本作品の撮影においては、アートン社製の16ミリキャメラ(Aaton 16mm)が1台しか使われていないとされ[16]、また、ロメールは撮影において原則1テイクしか撮らないという監督であり、本作品の製作においてもその方針は守られている[17]。したがって、技術的にみて『モードの家での一夜』と同様の形でこの〈技法〉を使うのは不可能なのだ。

 ところが一方、話し手ではなく、聞き手のショットに画面外の台詞をかぶせるとなれば、話は別である。聞き手のショットであれば、それがたとえ即興で話され、同録されたものであっても、編集でいくらでもショットサイズの異なるショットにかぶせることができる。画面外の声は、話し手の口の動きとの同期(リップシンキング)を考慮する必要がないので、編集の段階でどんなショットにも挿入できる。このように、この〈技法〉が、『緑の光線』で『モードの家での一夜』とは異なる、画面外の声を使用した形で再び使われているのは、以上のような製作方法の違いからも説明できるのだ。

 ここで着目したいのは、『緑の光線』の製作において、台詞を女優リヴィエールの即興に任せ、それをロケで、同録するという不測の事態を必然的に招く方法が採用されながら、撮影後、ロメールが物語上の効果を狙って編集によって、その同録された台詞と撮影された映像の関係に手を入れているということである[18]。たとえ即興という撮影秘話を知らずとも観客は、前述したように、本シーンにおける彼女の発話が、単なる言葉の繰り返しではなく、人が極度にどもっている状態、もっと言えば言葉を噛んでいる状態を表していると感じる。その噛んでいる彼女の姿が16ミリフィルムの粒子の粗い映像となって現れているがために、観客はまるでドキュメンタリー映画の1シーンを見ているかのような印象を受ける。そして何よりも、屋外において同録された、雑音と反響音を含んだ彼女の台詞音声が、そのような印象を決定づけている。それは言ってみれば、〈俳優の演技の記録〉という印象である。こうしたドキュメンタリー性を強く印象付ける一方、繰り返される彼女の台詞が聞き手の男性のショットにかぶさるという、観客に対する効果を狙ったとしか言いようのない作為性に満ちた編集が認められるのだ。

 〈意図と偶然〉。この相反する要素の共存状態は、今日、ロメール作品を語る上でもはや前提となっているロメール作品の本質的あり方である。本稿が最後に及んで強調したいのは、そのうちの〈意図〉は、すべてが予謀されていることが前面に押し出される『モードの家での一夜』(あるいは『満月の夜』)のような作品ではなく、実は『緑の光線』のようなドキュメンタリーのように撮られた素朴な作品においてこそ際立つということだ。観客は、一見、〈偶然〉にすべて任せられたように見える『緑の光線』の素朴さに騙されることなく、目を凝らせ、そして耳をすませば、計算された〈意図〉が見えてくる。その際、本稿が着目した〈編集〉という要素は、ロメール作品にあっては、その〈意図〉への糸口となる。『モードの家での一夜』に認められるストーリーテラーとしてのロメールは、『緑の光線』においても健在である。というより、『緑の光線』においてそのストーリーテリングの手法は〈偶然〉の要素を隠蓑にすることにより巧妙化しているとさえ言える(よく、ロメールは『緑の光線』でヌーヴェルヴァーグの原点に回帰したなどと言われるが、ストーリーテラーとしては前進している)。その巧妙なカムフラージュのもと観客をコントロールするロメールの姿に、私は、1つの嘘で2人の男をコントロールする、あのモードの姿を見てしまう。ロメールの映画作家として実像は、その作品に度々現れる、モードに代表されるあの狡猾なキャラクターに近いのであり、少なくとも、人の言葉を鵜呑みにして、裸の初対面の女性の横で眠れない夜を過ごす羽目になるあの間抜けな〈僕〉ではけっしてありえない。〈僕〉とは、一人称でありながら作家ロメールのことではなく、映画を見ながら〈僕〉に次第に心寄せることになる観客のことに他ならない。

 


謝辞

本稿執筆にあたりその初期段階から板倉史明氏に助言をいただきました。また、最終段階には、ストキンジェル・アルノー氏、大谷晋平氏のおふたかたに助言をいただきました。心より御礼申し上げます。


 

[1] 本作品が1988年11月に日本で公開された際の邦題は「モード家の一夜」で、以後、本作品のソフト化に際しても同邦題が採用されている。ただ、本稿では、映画の内容に即し、「モードの家での一夜」とする。

[2] 本作品全体の上映時間が約110分なので、本シーンはその3分の1以上を占めていることになる。

[3] 以下、引用文中の角括弧内は引用者による補足。

[4] 本シーン中、モードは〈僕〉に対して3回お願いをするが、そのうち2回は、このタバコの例のように、何かをベッドの自分のもとへ持ってきてくれ、というものだ(あと1つは水)。モードはこの2つのお願いによって〈僕〉を物理的に近い位置に呼び寄せている。一方、モードはヴィダルに対してもお願いをするが、それは、窓を開けてくれ、というものである。モードはこのお願いによって、ヴィダルを自分から物理的に遠ざけ、しかも帰らせることに成功する。というのは、モードの命によりヴィダルが窓を開けることで、降雪が発覚し、それがきっかけとなり、最終的にヴィダルは帰宅することになるからだ。

[5] « Scénario avec annotation de tournage (Ma Nuit chez Maud: scénario annoté) », Cote(s) : 440RHM/3/10, dans le fonds Éric Rohmer, Institut Mémoires de l’édition contemporaine (IMEC).

[6] 帰る直前のヴィダルの顔に怒りの表情は確認できない。

[7] 実際、本作品の製作を担当した映画製作者バルべ・シュロダーは「本作品をしばらく経ってアメリカで見直した際、アメリカ人観客は[本作品の]台詞にまったくのユーモアを認め、本作品は[彼の地では]アメリカ的コメディになった」と述べている。Antoine De Baecque et Noël Herpe. Éric Rohmer biographie. Paris: Éditions Stock, 2014, 214.

[8] ちなみに、「来て、来て」という繰り返される言葉は、ミュリエルの姉アン(キカ・マーカム)が、初めてクロードと肉体関係を結ぶ際に言う言葉でもある(ただし、この際は編集による強調は無く、また正確には「来て、クロード、来て、今よ」となっているが)。つまり、クロードは本シーンにおいて、かつてアンが自分に対して口にした求愛の言葉「来て、来て」を、その妹に対してやはり求愛の言葉として口にしている、ということになる。

[9] 『緑の光線』、エリック・ロメール監督、1986年、DVD・HDマスター版(紀伊國屋書店、2022年)。

[10] 正清健介「エリック・ロメール映画における恋のキューピッド、あるいは〈天佑の友〉の声——画面外の声の「存在感ある」使用をめぐって」、『表象』第18号、2024年、123-140頁。

[11] また、前述のIMECには、同じ屋外のシーン撮影時の、俳優2人とロメールを、その頭上(トランティニャンの頭上)にブームで吊り下げられたマイクと共にとらえる撮影現場での撮影スナップ写真が存在する。«Photographies de tournage», Cote(s) : 440RHM/3/11.

[12] De Baecque et Herpe, op.cit., 210. ほか、マリ・リヴィエールの証言は、David Jenkins (2012). “Close-Up on Eric Rohmer’s “The Green Ray”: An Interview with Marie Rivière.” MUBIhttp://mubi.com/notebook/posts/close-up-on-eric-rohmers-the-green-ray-an-interview-with-marie-riviere (accessed 2023-1-15). を、アマンダ・ラングレの証言は、Jean Cléder (dir.). Éric Rohmer Évidence et ambiguïté du cinéma. Bordeaux: Éditions Le Bord de l’eau, 2007, 59.を参照のこと。

[13] Florence Mauro. « Secret de laboratoire Entretien avec Éric Rohmer. » Cahiers du cinéma 371-372. mai (1985) : 91.

[14] Ibid., 91. 同様のことは、この発言のちょうど10年後の1995年に蓮實重が行ったインタビューでも繰り返される。ロメールは蓮實を前に「全編がシナリオなしの即興演出で撮られた『緑の光線』の場合は、毎朝その場で役者に台詞を渡して撮っていった」と述べている。蓮實重「パリの実践的映画論 映画狂人meets エリック・ロメール(映画監督)1995」、『映画狂人のあの人に会いたい』(河出書房新社、2002年)、213頁。ただ、前述のIMECには、撮影後にロメールによって書き起こしたと思われる手書きの脚本が存在する。« Dialogues du film avec, en page gauche, des notes de tournage », Cote(s) : 440RHM/32/4.

[15] ただし、ロメールは彼女に、その場で言ってもらいたいことの大枠を定めていた。リヴィエールは次のように証言する。「すべての台詞は私から出たもの[私が即興で口走ったもの]ですが、ロメールが私に言って欲しかったことの大枠の範囲内でした。彼はいつも小さな本を手に持っていて、それに重要な文章だけを書き留めていました。彼はとても正確だった」。Jenkins, op.cit.

[16] De Baecque et Herpe, op.cit., 327.

[17] また可能性として、一旦、話し手が話終わるまで撮影したあと、その特定の台詞が発声されるショットサイズの大きいショットだけ、別に再度撮る(俳優にその台詞を再度言わせて撮る)ということもできるが、ただそれだと、脚本無しの即興性という撮影方針を裏切ることになってしまう(それに、リヴィエールに即興で話させる意味がなくなってしまうだろう)。

[18] もちろん、この〈技法〉に関与しているとは言えないとはいえ、編集のガルシアも手を入れた1人に数えられる。『緑の光線』の編集作業におけるロメールとガルシアの関係については、次の文献箇所に詳しい。De Baecque et Herpe, op.cit., 329-330.

 

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