あふれる言葉/声たち——『エリック・ロメール——ある映画作家の生涯』(水声社、2024年)書評 / 正清健介
- 日本ヴァレリー研究会
- 5月7日
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ロメール映画のなかでは誰もタバコを吸わない。映画のなかでも撮影のさなかでもだ——セルジュ・レンコとフランソワーズ・エチュガレイが『パリのランデブー』の撮影のさなかにこっそりと吸ったのを除いては。(432)[1]
たとえば、『モード家の一夜』(1968[2])の主人公〈僕〉(ジャン=ルイ・トランティニャン)とモード(フランソワーズ・ファビアン)の対話シーンと、『緑の光線』(1984)のヒロイン・デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)とレナ(カリタ)の対話シーンを見てみよう。するとたちまち、この指摘は正確さに欠けると言わざるをえなくなる。というのは、これらのシーンでは人物がタバコを現に吸っているからだ。両作品はいずれも、ロメール作品でも比較的知名度の高い作品である。というのは、前者は「ロメールの監督としてのキャリアにおいて最も商業的に成功を収めた」(253)作品で、後者は「ヴェネツィア国際映画祭で、金獅子賞に加えて、マリー・リヴィエールに対する演技賞まで受賞した」(387)作品だからである。しかも、それらの問題の喫煙シーンはいずれも、〈対話シーン〉というロメール映画において特権的なシーンでさえある。したがって、「フランスを代表する」(739)映画研究者である本書の著者たちがこれらの喫煙シーンを見落としているはずはない。なので、ここで問題となるのは、どうして著者たちがこれらのシーンをないことにしてまでも「ロメール映画のなかでは誰もタバコを吸わない」などと述べているか、である。
それはなぜなら、たしかに「誰もタバコを吸わない」と言ってしまえるほどロメール映画では人物がタバコを吸うことがほとんどないからであり、例外はあれ、そう言い切ってしまう方がロメール映画の特質を端的に表すからだ。たとえば、『緑の光線』『春のソナタ』(1989)『三重スパイ』(2003)を除く、『飛行士の妻』(1980)から遺作『我が至上の愛——アストレとセラドン』(2006)までの長編13作品(それはつまりロメールの80年代以降の残りすべての長編作に当たる)において主要登場人物が喫煙するシーンは認められない。しかも、例外となる『緑の光線』『春のソナタ』『三重スパイ』にしても、それぞれ、喫煙シーンは作中に1シーンしかない。つまり、これら合計たった3シーンを例外として、80年代以降、ロメール作品で喫煙シーンと言えるものはないのだ[3]。
ここで確認したいのは、喫煙シーンのない13作品のうち、最晩年の歴史物2作品を除く11作品はすべて、80・ 90年代のフランスを物語の場とする現代劇であるという事実である。当時のフランスをよく知る観客の中には、作中でタバコを吸う若者の姿が見られないことに、不自然さを感じる者もいるだろう。たしかに著者たちの言うように、ロメールは「自分の同時代人の諸々の会話、習慣、ファッションをそのままの形で表現する才能によって知られている」(488)。だが、タバコに限っては、あたかも何かの検閲を受けているかのように不思議なことにその「才能」を発揮していないのだ。たとえば、『満月の夜』(1983)によって「一九八四年のパリジェンヌの絶対的原型」(376)となったパスカル・オジエは、本作品で「流行の最先端にある一九八〇年代のパリのイメージ」(377)の只中でコーヒーカップは持つが、シガレットは持たない。そう、80年代以降のロメール映画においては〈コーヒー&シガレッツ〉という文化は存在しない。これはどうしてか。
本書は、こうした、ロメール作品を見る誰もが自然と持ちうる素朴な疑問に、実にマニアックで膨大な資料の中から、〈当事者の言葉の引用〉という直接的な形でもって答えてくれる。件の喫煙描写についてはこうである。著者たちは、ロメールが「自分の亡くなる前に、自分自身の所蔵する資料を」「預け」(441)た現代出版史資料館(IMEC)から、ある信書を発掘し、その信書からロメールの言葉を引用して、彼が生前、禁煙運動に関与した事実を明らかにする。その信書とは、1980年5月[4]にロメールが当時の「〈喫煙に反対する国民会議〉議長」(喫煙反対委員会委員長)に宛てた書簡である(432)。読者は、その引用文から直にロメールの喫煙者に対する批判と受動喫煙に対する問題意識を読み取ることができる。こうしたロメールの嫌煙は、70年代初頭にまで遡ることができ、本書によれば、『愛の昼下がり』(1972)のヒロインを演じた女優のズーズーは「この[喫煙]ためにロメール組から外された」(452)という。そして、80年代に入り、録音技師のジャン=ピエール・リューもまた同様の理由で組から外されたことがほのめかされる(341)。こうした一連の事実を踏まえるなら、数少ない貴重な喫煙シーンの1つである『春のソナタ』のそれが、〈喫煙者が喫煙を理由に非喫煙者によって部屋から追い出される〉という喫煙シーンならぬ嫌煙シーンとなっていることに納得させられてしまう。
1. 映画人ロメール
このように、本書では作品と作家の緊密な関係が明らかにされる。その関係を象徴的に示すものとして本書を通して度々指摘されるのが〈映画外の事柄との距離〉である。それは、晩年の小津安二郎に向けられた〈社会性の欠如〉という否定的評価に似たものがあるが、「ヒッチコック派である以上にホークス派である」(101)ロメールならではの特徴とも言える。たとえば、「奇妙なことに、戦争とナチスドイツによるフランス占領に関することはロメールの思い出にも、さらに彼の作品にもほとんど登場しない」(34)のは、ロメールが、当時それらに対して「距離を置かねばならない」(35)と思っていたからであり、また「この点に関して、今もそんなに変わってはいません」(35)と晩年にさらりと述べるような人物だったからに他ならない。ロメールとはえてしてこうした人物だと知っておれば、『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集長時代のロメールを知る映画批評家ミシェル・ドラエ、その「彼は決して『カイエ』に唯の一度たりとも政治的テクストを掲載することを許しませんでした」(180)という証言はなんら驚くにあたらない。また、ロメールは、〈五月革命〉に際しても、こうした「距離を取った観察者」(223)であることをきめこみ、「一九六八年二月にアンリ・ラングロワがシネマテーク・フランセーズの館長職を解任させられた際」(224)さえもそうだった。著者たちによれば、ロメールはラングロワを「擁護するために大っぴらに社会参加しなかった、ただ一人の『カイエ』の偉大な古参だった」のであり、「彼は路上を練り歩くのに姿を見せず、記者会見にも、新聞紙上にも現れず、支援委員会にも加わらなかった」というのだ(224)。というのは、「何よりも重要なのは、彼の映画作家としての仕事なのだ」(223)から。
したがって、ロメールは、自作のあくまで題材における「貴族主義的で白人的な理想的システム」(428)を理由に、「反ブルジョワ、反植民地主義者」と「戦闘的フェミニストたち」(428)の2つの反対勢力から批判を受けた際も、取り合うことなく、無関心を突き通した。著者たちは、ロメールのそのような態度を次のようにまとめる。
この映画作家は彼に向けられたこのような誹謗文書に対して常にほとんど関心を払わない。それは、彼の唯一の関心事である演出の問題にそれらの文書の矛先が向けられていないためだ。反動的な映画を撮っているというのを聞いてもロメールは不快になることはない。それは、ひどい映画を撮っていると書かれるよりはるかにましなことなのだ。釈明をしなければならないのは、映画の分野に関することだけだった。それ以外のことは、まるでどうでも良いのである。(430)
本書では、ロメールが「保守派」(223)、もっと言えばフランスの政治的分類においては明確に「右派」(105)に分類されることに対して、著者たちの見解が述べられることはほとんどない。本書では、事実が提示され、その事実の列挙から、ロメールが「右派」であったこと(正確に言えば、「右派」に位置付けられること)が示されるにとどまる。しかも、今ここに引用した解説のように、事実から浮き彫りにされるのは、ロメールが右寄りであったということよりもむしろ彼が真の意味で映画の人、すなわち映画人(シネアスト)であったということの方である。
いずれにせよ、本書の原書が刊行された際、フランスにおいては、こうした「ひたすら事実にのみ焦点を当てる姿勢」が評価されたとされる(750)。たしかに、ロメールに対する「乙女たちへと駆り立てられる吸血鬼」(110)や「稀代の恥ずかしがり屋」(118)という呼称はもちろん、フランソワ・トリュフォーに対する「不良で学がなく、ろくでなし」(65)や「策士」(113)、アンドレ・バザンに対する「世界で最も重要な「映画の著作家」」(80)といった人物評は、著者たちの放言などではなく、どれも事実に基づくものである。また、このように事実に忠実であるからこそ、本書で度々展開される人物描写もまた、生々しい現実感を読者に与えるものとなっている。たとえば、『カイエ』のオフィスでの若きロメールと映画批評家ジャン・ドゥーシェの名コンビの描写は、ドキュメンタリー『エリック・ロメール 確かな証拠』(1993)で後年の二人のやり取りに馴染みのある読者なら真に迫るものさえある。著者たちは次のようにスケッチする。
背の高い痩せた方は相手の話に耳を傾け、いくばくかのアドバイスをポツポツと口にする。体格のよい太った方は饒舌に諺を織り交ぜながら早口でしゃべり、相手の提案を受け入れる。(141)
一方で、もちろん、本書は単なる事実の羅列とそれに基づくこうしたスケッチだけに終始しているわけではない。たとえば、『パリのランデブー』(1994)に対する「第三エピソードはフランス映画の頂点である」(426)や、『冬物語』(1991)に対する「ロメールのあらゆる映画のなかで最も美しくない」(466)といった作品評は、彼らの、「歴史家」(742)というよりもむしろ映画批評家としての側面を感じさせるものとなっている。特に、『緑の光線』と『アストレとセラドン』に対する「映画的未確認飛行物体」(387, 538)というユーモアに富んだ表現は、批評家ならではのものと言える。こうした批評性も本書の魅力の1つである。
2. 映画製作法
しかしなんといっても、作品についての記述で読者の興味を引いてやまないのは、やはり徹底して事実に基づく製作秘話である。たとえば、シナリオの執筆は、『パリのナジャ』(1964)の場合について「彼女[ナジャ・テジッチ]との会話をいくつもテープレコーダーに録音し、その音声からテクストを引き出した」(196)と述べられるような方法が取られた。この〈録音された対話の書き起こし〉という方法は、後年、長編作品の製作の際に度々採用されたことが本書を通して指摘される。
そして、そのような過程を経て生まれた台詞は、「小学生用の手帳」(354)に書き込まれる。本書では、「小学生用の小さなノート」(496)、「緑色の学習用ノート」(519)、「緑色のクレールフォンテーヌ社の手帳」(558)などと言葉を変えて記されるが、基本的に同じものである。評者は前述のIMECでこれらの手帳/ノートの一部を実際手にしたが、フランス語圏で学校生活を送った者なら誰もが手にする、日本で言うならジャポニカ学習帳(ショウワノート)やキャンパスノート(コクヨ)のようなノートである。そのようなノートに書き込まれた台詞は、ノートの小学生じみたさまとは裏腹に、『夏物語』(1995)の製作について「大切なのはテクストであり、テクストのみだった」(474)と述べられるように、ロメールの映画製作においては柱とも言える本質的な要素である。
したがって、たとえその台詞を実際声にして具現化する俳優といえども、原則、即興は許されない。著者たちによれば「彼が気に入らないのは、自分がこしらえた対話が役者に台本通りになされないことだった」(466)。たとえば、本書では、『冬物語』の撮影で俳優のミシェル・ヴォレッティが台詞を「すこし端折っ」たために、ロメールが「突然怒り出した」という逸話が紹介される(466)。こうした台詞に対する厳格な態度は、たとえ外国語の台詞であっても変わらない。たとえば、『三重スパイ』のロシア語の台詞。これは、ロメールの依頼により、映画批評家で映画監督のピエール・レオンが、母方がロシア人ということから、フランス語の台詞をロシア語へ翻訳したものである。さらに、レオンは翻訳のみならず「撮影のなかで、対話がしっかりとされているかをチェックすること」が「仕事」として課された(523)。レオンは、その「仕事」ぶりを「スパイ」という言葉を交えて説明している。
ロメールは自分のテクストに執着があり、即興のせりふ回しや大雑把に語られることを好みません。そこで私はロシア語が話されるすべてのシークエンスに同席しました。一種のスパイだったのです。(……)ヘッドホンを被り、端役も含めて、そこで話されるすべてを聴いていました。(523)
要は、ロメールの撮影では、俳優はシナリオ通りに台詞を発声しなければならない。そのため、俳優はリハーサルを何回も繰り返すことを強いられた。女優のアンヌ=ロール・ムーリは、『飛行士の妻』製作の際、ロメールに「台詞を絶えず言い続けるように」指示されたことに触れ、「もう自分が感じ取ることができない何ごとかを口にするだけの機械になってしまうのです」(347)という、まるで小津組の常連俳優のような証言を残している。
ただ、映画要素のすべてを自身の統制下におこうとした小津とは異なり、ロメールは、〈偶然〉という制御不能な要素を積極的に自身の映画に取り入れようとした。事前にきっちりとしたシナリオを準備しておきながら、「彼は、正当にも偶然にしか帰されぬものを追い求めることに自らの意欲のありったけを傾ける」(362)。この矛盾としか言いようのない態度について、著者たちは、『恋の秋』(1997)での演出を踏まえ、ロメールの考えを次のように解説をしている。
良い演出家であるためには、自分自身の欲望をあきらめ、そして結局のところ、自分が統御することを放棄することができなければならない、と。自分が書き上げた虚構を乗り越えて、現実が(少なくとも見かけ上)やってくるのに任せなければならない、と。(460)
では、なぜ、こうした態度が「良い演出家であるため」の条件なのか。著者たちは、『アストレとセラドン』の撮影に言及するにあたり、次のようにロメールの考えを代弁している。
彼は自分の俳優たちにあれやこれやの姿勢を指示するが、一陣の風がそれをかき乱すことを非常に喜んだ。まさにそこにおいて、映画は文学を乗り越え、絵画さえも超越するのだ。(533)
ただ、重要なのは、ここで映画の緒芸術に対する優位性=偶然の象徴として挙げられる「一陣の風」は、まったくもって予想外の「風」などではなく、ロメールによって事前にある程度想定されたものであるということである。「あの人は想定内にある予想外の事態を待ち伏せしている〈偶然泥棒〉でした」(272)という俳優ベルナール・ヴェルレーの証言ほど的確にロメールの偶然に対する態度を要約するものはない。ロメールの映画製作は、その映画の物語と同様、偶然の要素抜きには成立しない。ただ、『グレースと公爵』(2000)のキャスティングにおける女優ルーシー・ラッセルの発掘について「それは偶然ではあるが、方向づけられた偶然だった」(507)と述べられるように、〈予謀〉としか言いようのない事態が偶然の要素にも及んでいる。ロメールは、偶然に不意に出くわすのではなく、偶然を「待ち伏せしている」のだ。著者たちが、ロメールの方法論を、録音技師ジョルジュ・プラの言葉を借りて「偶然との戯れ」(350)と呼んでいるのは、そのような意味においてである。
3. 作り手たちの言葉/声
〈意図と偶然〉。これは、今日ロメール映画研究において前提ともなっている、ロメール作品の本質的なあり方である。本書は、この、ロメールの映画作りの真髄ともいうべきものを、監督ロメールを始め、実際に製作に携わった数々のスタッフ・俳優の言葉を通して、読者に対して直接的かつ決定的な形で差し出す。もはや反論する余地のないそのやり方は、どんな優れた映画研究者の解説よりも説得力のあるものであることは言うまでもない。著者たちは、他のどんなトピックにおいても作品の作り手たちが残した言葉を前に黒子に徹している。それはたしかに伝記を書く者として当然の態度であり、たとえ評伝という形であっても基本となるべき態度である。だが、このあたりまえの態度をあたりまえに貫ける伝記・評伝作家が世にどれだけいるだろうか。本書は、例外はあれ、原則そのような態度のもと徹頭徹尾書かれているがゆえに、「ある映画作家の生涯」を、まるでスクリーンに映し出すかのように生き生きと2段組700頁超(注などを含む)にわたり展開することに成功している。
したがって、ロメールの病院での死について書かれた最後の節で、ここまでこの大著を読み続けてきた読者は、あたかも伝記映画のラストシーンを見届けるような感慨を持つことだろう。病床のロメールが「最も親密で忠実な共同作業者の女性」(560)であった映画製作者フランソワーズ・エチュガレイの手の上に書いたとされる「ここから出してくれないか」(561)という言葉は、おそらく本書のあまたの引用の中で最も身に迫るものであり、口に出されたものではないにもかかわらず、評者には声として聞こえてきた。本書は、ロメール映画と同様、常にそうした言葉/声にあふれている。
註
[1] 以降、本書、アントワーヌ・ド・ベック/ノエル・エルプ『エリック・ロメール——ある映画作家の生涯』坂巻康司/寺本成彦/寺本弘子/永田道弘訳(水声社、2024年)より引用。なお、引用中の角括弧は引用者による補足。
[2] 以降、製作年は、本書のフィルモグラフィー(665-690)による。
[3] ただし、まれにカフェやバーの客などの端役(あるいはモブ)が喫煙している様子がショットに映り込むことはある。
[4] 本文では「一九八〇年五月」となっているが、原注では「一九八一年五月」となっている。なお、原書もそうなっている。