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『加藤周一を21世紀に引き継ぐために』(三浦信孝・鷲巣力編、水声社、2020年)/ 岩津 航

 本論集は、2019年9月に日仏会館と立命館大学で開催された生誕百周年記念の国際シンポジウム講演録である。立命館大学加藤周一現代思想研究センター長の鷲巣力と日仏会館顧問の三浦信孝の両氏の編集によって、総勢25名の論考や証言が集められている。事情があって当日参加できなかった私にとっては、こうして論集として読めることは望外の喜びである。というのも、私自身も微力ながら、加藤周一によるフランス文学受容について考えてきたところがあるからだ。

 この論集の性格は、題名が雄弁に物語っている。2008年12月5日の加藤の死は、『朝日新聞』の追悼談話で浅田彰が指摘したように、「正統派知識人」という存在の終焉を印象づけるものだった。古典を読み返し、歴史に教訓を見出すことは、あらゆる知的生産物が消費されていく社会においては、それ自体が一つの抵抗でさえあった。論語を読むことと憲法九条を擁護することが、衒いもなく結びつくのが、「正統派知識人」である。そのような態度を、古き良き教養人として敬意をもって葬るのではなく、また、編者の三浦氏が強調するように、「知の巨匠」などと祀り上げるのではなく、現在の文脈に生かし続けるためには、加藤周一が同時代とどのように切り結んだかを検証していかなければならない。

 もちろん、没後10年が経っても、加藤周一は忘れられてなどいない。彼の死に前後して、岩波書店から自選集全10巻が刊行されたし、その後も『ある晴れた日に』(1949)や『文学とは何か』(1950)など、初期作品が相次いで文庫版で復刊された。さらに、40年に渉って編集者として加藤と交流があった鷲巣力(『加藤周一を読む──「理」の人にして「情」の人』、岩波書店、2011年、『「加藤周一」という生き方』、筑摩選書、2012年)や、フランス文学者の海老坂武(『加藤周一──二十世紀を問う』、岩波新書、2013年)、日本近代史の成田龍一(『加藤周一を記憶する』、講談社現代新書、2015年)の諸氏が、充実した論考を発表し、加藤周一が20世紀という時代とどのように対峙してきたかを検証してきた。本論集も、そうした加藤研究の蓄積をさらに発展させるものとして位置づけられる。

 加藤周一のテクストは、大きく四つに分けられる。第一に、詩と小説。第二に、文学評論。第三に、美術評論。第四に、社会評論。そして、そのいずれもが、日本文化論につながっている。加藤の出発点は、文学との出会いだった。文学を読むことが、現実逃避どころか、現実を理解する最善の方法であること、そうでなければならないことを、加藤は少年の頃に読んだヴァレリーの『ヴァリエテ』から学んだ。ヴァレリーに熱中するあまり、未訳の作品を読むためにフランス語を独習したという。ポーを原文で読みたくて英語を学んだマラルメを思わせる話だ。原文読解を通じて、ヴァレリーから広義の象徴主義的文学へと関心を広げた加藤は、ロマン・ロランの『ウーロップ』誌周辺の作家からレジスタンス文学に至るまで、社会と向き合い、言葉を尽くそうとした20世紀の文学者を評価するようになる。

 ところで、若き加藤が生きた社会は、『戦争文化と愛国心』(2018)の著者である海老坂武(「〈戦争文化〉への抵抗をめぐって」)がこだわるように、戦争文化を形成するものだった。自らもその中に投げ込まれた戦争という事象を理解するために、社会科学は不可欠だった。加藤は、階級闘争による社会の変革を無条件に支持するマルクス主義者では決してなかったが、マルクスによる社会構造の分析は正確であると考えていた。しかし、その分析から具体的な変革のための行動までには距離がある。加藤は、自らが行動の担い手になるよりも、そうした行動を観察し、理解することを仕事として選んだ。そして、そのことに対して、必要以上に卑屈になることもなかったのは、おそらく自分は言論によって立つ文学者であるという自負があったからではないだろうか。このように、文学と社会科学の両面からの「二枚腰」(三浦信孝「まえがき」)のアプローチが、加藤周一の特徴でもある。

 本論集の著者たちは、加藤が厳密に理論的なものに対して見せる保留、あるいは一種のためらいに注目している。理論は必ず個別性を捨象する方向に向かう。文学は特殊性を描きながら、普遍性を夢見る。澤田直(「文学とは何か──加藤周一、サルトル、そして〈独自的普遍〉」)は、加藤のサルトル理解を跡付けながら、『弁証法的理性批判』で展開された「独自的普遍」の考え方を、加藤も共有していると指摘している。それは「ヘーゲルに代表される哲学の普遍性(universalité)を指向するヴェクトルと、それに抗ったキルケゴール的な単独=独自性(singularité)のヴェクトル、その両者を単純に総合することなく、同時的に用いて、人間や出来事にアプローチするものである。」一方、片岡大右(「非ヘーゲル的な夕暮れへの招待──加藤周一と弁証法」)は、加藤が弁証法を、科学的な思考法というよりも、むしろ強力なレトリックとして用いられていることに注目している。加藤は、絶対的な正解へとたどり着くことよりも、その時代ごとの局面において議論の有効性を測るために、弁証法を用いた、というのである。

 つまり、加藤の思想には、論じようとしている歴史的現実に対して、どのような議論の立て方が有効か、というプラグマティックな側面がある。小熊英二(「沈黙する羊、歌う羊──戦後思想における加藤周一」)は、「加藤の思想にはさほどユニークな要素は少ない」、と断言している。確かに、加藤は既知の物事を思いきって図式的に整理し、そこから関係性を描き出していくことを得意とし、誰も気づかなかったような新しい概念を提出するタイプの思想家ではなかった。この論集で再三話題になっている「雑種文化論」にしても、精緻な理論というわけではなく、むしろその雑種性を「小さな希望」としたところに独創性があったと言える。つまり、日本文化の特質や限界を自覚したうえで、これからどうすればいいのか、ということが、加藤の関心の中心にあった。しかし、一方で、加藤が超越性への強い関心も手放さなかったことは、やはりこの作家の特徴として指摘しておきたい側面だ。そのことが、加藤を状況と密着しすぎた一過性の評論家になることから遠ざけてきた。

 加藤は、北米、ヨーロッパ、アジアの大学で日本文学や日本文化を教えた。また、主著『日本文学史序説』(1975, 1980)は8ヵ国語に翻訳された。そのため、少なからぬ国で加藤周一の名前が、代表的な日本学者として認知されていることは、本書の第一部セッション2に収められたイルメラ・日地谷=キルシュネライトやソーニャ・アンツェンの証言を読めば分かる。また、加藤のテクストがフランスでは学閥的な攻撃の対象にさえなっていることを、クリストフ・サブレが説明している。それは加藤のテクストが基本的な参照項となっていることの裏返しだろう。影響はアジアにも及ぶ。本書の第二部は、東アジアとの関わりを主題としているが、加藤の「雑種文化」論は、純粋民族というイデオロギーの強い韓国ではネガティブな言葉として受け止められる一方、中国では代表的な日本文化論として定着しているという。このように、日本文化を考える際に、加藤の議論が国際的な基準になっていることを、本論集によって私たちは確認することができる。

 漢字を借りて書き言葉を得た歴史がある以上、日本文学は混合的でしかあり得ない。加藤は、とくに美術史研究において顕著だが、明治以降のヨーロッパ文化の受容のあり方を論じる際に、日本文化に対する中国文化の影響との比較を常に念頭に置いていた。逆に言えば、ヨーロッパ文化の概念を参照項にして日中文化の交流史をたどる傾向があったことは、三浦篤(「『日本その心とかたち』再読」)が指摘するとおりである。とはいえ、加藤にとって最も気になっていたのは、自らを含め、ヨーロッパ文化を潜り抜けた近代知識人の雑種性の深さが、江戸時代までの知識人の中国文化との関わりの深さには及ばない、ということだったのではないだろうか。晩年まで、一海知義に漢詩の解釈に関する質問を続けていたという加藤は、日本文化の基層を成す漢文脈に少しでも自分を置こうとする努力を怠らなかった。

 最後に付け加えると、加藤周一が遺した四つのタイプのテクストのうち、詩と小説の分析が極めて少ない。批評的テクストと比較すれば、作品としての完成度や問いの豊富さの点において、やむを得ないことではあるが、この「作家」を論じきるためには、創作を無視してよいはずはない。なぜなら、彼の主戦場はレトリックにこそあったのだから。そもそも、最も広く読まれている加藤の著作『羊の歌──わが回想』(1968)は、連載当時には「小説」と銘打たれており、『道化師の朝の歌』(1948)や『運命』(1956)をはじめとする、先行する小説群を総合したと言える部分がある。その点では、片岡大右(前掲論文)が、あまり知られていない短編「香港逃避」や『神幸祭』を批評的なテクストと同列に置いて、その歴史的意義に触れているのは、今後の研究の新たな展開を期待させるものである。

 加藤周一が生きていたら、現在の日本の有様を何と言っただろうか。彼の生前には、読者は彼の言葉を答えとして求めた。だが、加藤周一を21世紀に引き継ぐということは、彼が生きていたら言ったであろうことを探すだけではない。加藤の思索は、膨大な読書と芸術体験、それに長年の外国居住の経験に裏打ちされた歴史的な奥行きの中から発せられた。だが、加藤周一の仕事を引き受けるためには、加藤の教養を再現することに絶望していては始まらないのであって、歴史と向き合うための方法をそこに見出すしかない。本論集は、まさにその方法を求める試みであり、すでにいくつもの道筋が現れている。ここから「次の百年」が始まる。加藤周一に答えを求めるのではなく、問いを求める時代の到来を告げる書物である。


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