小倉康寛『ボードレールの自己演出──『悪の花』における女と彫刻と自己意識』(みすず書房、2019年)/ 森本淳生

 本書はシャルル・ボードレール(1821-1867)の詩集『悪の花』(初版1857、第二版1861)に収録された諸詩篇を、「女と彫刻」を切り口としながら、自伝とも虚構とも異なる「自己演出」の試みとして読み解くものである。著者がなによりも注目するのはボードレールの詩篇がしめす意味の豊穣性である。彼の作品はきわめて難解なわけではないが、解釈をひとつに定めることは必ずしも容易ではない。著者はこれを逆手にとって、むしろボードレールが編纂した種々の詩群・詩集はそれぞれ独特の自己演出物語であったこと、各詩篇は各々の物語の文脈のなかで意味やニュアンスを万華鏡のように変化させるのだと考える。

 500ページ近いこの大冊は3部に分かれているが、第1部ではまず、制作方法や、ダンディズム、新プラトン主義、女性と官能性などをテーマに、ボードレールにおける詩と自伝性との関係の概要がまとめられている。第2部では、本書の中心テーマである彫刻が、ヴィンケルマン、ディドロ、スタンダール、ヘーゲルなどの言説を通して再検討され、ボードレールの彫刻観が浮き彫りにされる。ボードレールは彫刻に聖性を認めていたが、著者によれば、1840年代から50年代は、貴族からブルジョアへのメセナの変質、制作予算の減少といった背景のもと、彫刻の規模が縮小し日常の装飾品と化していたため、ボードレールは同時代の彫刻作品に大きな価値を見出せなかっただけなのだという。実際、ボードレールはエルネスト・クリストフの彫刻に関心を抱き、この見る角度によって微笑んでいるようにも泣いているようにも見える作品を詩篇「仮面」で取りあげていた。詳細に紹介する余裕はないが、第1部、第2部とも叙述はきわめて充実している。

 しかし、本書の白眉はやはり「『悪の花』読解」と題された第3部であろう。ここでは、実際の詩群・詩集においてボードレールがどのような「自己演出」を行ったかという本書の中心テーマが解明されていく。

 第8章ではまず、1841年以前の作品や1843年前後に「ノルマンディー」派の詩人たちとの交流のなかで書かれた諸詩篇における娼婦、放蕩、性病、不毛性、死などのテーマが検討される。たとえば「優しい二人の姉妹」は詩人である男に死をもたらす放蕩を歌うが、「ノルマンディー」派のル・ヴァヴァスールはこのように放蕩を歌うことに批判的であった。ボードレールはこれに対する応答として、娼婦のイメージに美の彫刻的な不動のイメージを重ね合わる詩篇「アレゴリー」を書き批判をかわそうとしたものの、結局、派の詩集に寄稿することをやめる。その後、ボードレールは『イデオリュス』や『ラ・ファンファルロ』でも美しい女性を彫刻になぞらえ、ある種の理想化によって自分の情欲に対して距離を取ろうとした。

 第9章では、1851年に『議会通信』に発表された11篇からなる詩群「冥府」が検討され、自伝的な詩篇を基盤としながらも、それらを同時代の若者たちの姿一般としても提示しようとしたボードレールの戦略があぶり出される。詩群は三つの段階に区別され、まず失望の中で芸術が希望として現れ、ついで、女性(ピグマリオン的な彫刻にして愛の対象)が探求されていくが(「芸術家たちの死」、「恋人たちの死」)、最後は憎しみ、そしてニヒリズムに陥るという物語を構成しているという。

 第10章では、1857年4月に『フランス評論』に発表された9篇からなる詩群が、おもに女性の身体と詩の理想という視角から論じられている。冒頭の「美」は乳房と眼、つづく「巨人の女」は乳房、「生きている松明」は眼、「夕べのハーモニー」は心、「香水壜」はにおい、「毒」は目と唾液をテーマとするが、「全て」に至って女への愛がむかうのは「全体」であって、偏愛する部分への分析は不可能であることが宣言される。次の「無題(波打つ、真珠母色の服を身に纏って)」では女性が彫刻的な美として再度歌われるが、ここでは冒頭の「美」の不動の姿ではなく、踊るように歩くもの、動くものとなる。最後の「無題(私が以上の詩句をおまえに贈るのは)」で歌われる女性は「詩句」のうちにかろうじて留められるような儚い存在である。この『フランス評論』の詩群はジャンヌ・デュヴァルやサバティエ夫人に宛てられたとされる作品からなっており、詩群がすくなくともふたり以上の女性のイメージを合成して作り上げられた虚構的物語であるという著者の指摘も重要である。

 第11章は1857年に刊行された『悪の花』初版を「再構成された自伝」として読解する。第一のセクション「憂鬱と理想」には次のような物語を読み取ることができるという。冒頭の「祝福」を初めとする諸詩篇で描かれるのは、詩人が天空のいわば支配者である神的な世界であるのに対して(詩人は太陽である)、詩人はまもなく現代の美に目を向け、「病んだミューズ」(7)や「金で身を売るミューズ」(8)を歌う。しかし「美」(17)を展開点として、彫刻的な美の化身が、詩人の特権であった天空の支配者となってしまった。著者によれば、詩人はこうして昼の空の支配権を奪われ、詩人-太陽としての力を失って、夜の女の官能のうちに慰めを求めるようになる。これを象徴するのが「理想」(18)で歌われる、乳房を巨人の唇に差し出すミケランジェロの《夜》の女神である。「無題(おまえは全世界を閨房にいれかねない)」(23)や「サレド女ハ飽キ足ラズ」(24)は女の官能性の負の側面を描くが、詩人は次第に官能から美を分離し、女性を鉱物的な姿で表現するに到る。しかし「無題(私がこれらの詩句をおまえに贈るのは)」(35)で女と死別することを強いられた詩人は、「親しい語らい」(51)で恋愛を総括し深い憂鬱に沈み込む。「我ト我身ヲ罰スル者」(52)は詩人の魂の渇きを歌い、「憂鬱」(60)は詩人が老いたスフィンクスとなり彫刻に等しい存在と化してしまう姿を描く。

 第二のセクション「悪の花」の語り手は、あたかもパリでの恋愛に疲れ果て、その傷をエーゲ海の島々への旅で癒やそうとする旅行者を思わせる(p. 438)。「レスボス」(80)は語り手が性愛を描く選ばれた詩人であることを歌う。「アレゴリー」(85)はかつてル・ヴァヴァスールの批判に答えて書かれたものだったが、『悪の花』初版の配列においては、「美」において歌われた彫刻のように美しい女との遭遇を示すものとも読める。「憂鬱」(60)でスフィンクスのように石の存在となってしまった語り手は、ここで石像的な女-彫刻に再会するのである。

 最後のセクション「死」は、詩群「冥府」に含まれる「芸術家たちの死」と「恋人たちの死」を収録するが、「冥府」においては、「芸術家たちの死」で垣間見られた理想が「恋人たちの死」で語り手の夢想として未来形で描かれているように読みえたのに対して、両者の順番を逆転させ「芸術家たちの死」を後に置く『悪の花』初版においては、女との死別から憂鬱を経て石像化した語り手が、芸術家としての自分の死後にかすかな希望を見る詩篇として位置づけられることになる。

 著者は以上のような詳細かつ緻密な読解を通じて、『悪の花』初版が、自伝的詩篇をつなぎ合わせることで再構築された一般的物語、すなわち、恋人たちとの性愛の経験を通して、詩人として成熟し深化する青年一般の成長の物語を示す詩集であることを明らかにしている。

 第12章は前章の成果をふまえ、1861年に刊行された『悪の花』第二版のうち、とりわけ新設されたセクション「パリ情景」を論じている。この第二版では、風俗紊乱を理由に初版から6篇が削除させられ、あらたに32篇が加えられたが、その結果、第一版に見られた青年詩人の物語は見えにくくなってしまったと著者は言う。とくに2番目に置かれていた「太陽」は第二版でははるか後の「パリ情景」に組み込まれ、かわりに嵐の夜に飛ぶ鳥の姿を詩人になぞらえる「アホウドリ」が置かれたので、詩人-太陽のアナロジーは後景に退いてしまうし、「宝石」が裁判で削除を余儀なくされたため、美から性愛への転換がぼやけてしまった。著者によれば、第二版におけるボードレールの趣旨は「パリ情景」のセクションに力を注ぐことだった。ここで詩篇はおおむね朝〜昼〜夕方〜深夜〜朝の順で配列されており、そのいくつかにおいて語り手は「遊歩者」として女-彫刻を描きだす。「通りすがりの女に」は「彫刻の脚」をもつ、街で偶然出会った女性を歌う。骸骨の女性を表すエルネスト・クリストフの彫刻に捧げられた「死の舞踏」は、舞踏会で出会ったとおぼしき女をやはり遊歩者の視点から描く。「嘘への愛」は不誠実な恋人マリー・ドーブランをモデルとしたが、「パリ情景」の文脈では盛り場にいあわせた男の一時的な思いであるように読める。ボードレールはこのように「遊歩者」としての自己演出の陰にマリーへの愛の葛藤を隠したのである。

 ボードレールは自作の配列を工夫することで様々な物語を紡ぎ出し、自己演出を試みた。本書は女と彫刻のモチーフを中心にしてその一端は読み解くものだが、ボードレールが残した詩群はこれ以外にもあり(全部で28点)、「ボードレールが「編むことができたかもしれない」詩集」(p. 493)をも考えれば、きわめて豊穣な世界が広がっていることが分かる。文学の意義とは、そうした可能態としての存在に視線を向けることである。本書がそうした営み対する少なからぬ貢献であることは疑問の余地がない。

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