ポール・クローデルの生誕150周年にあたる2018年を一つの節目として、関連書籍の刊行が相次いでいる。水声社からは論集『ポール・クローデル 日本への眼差し』や図録『詩人大使ポール・クローデルと日本』、ミッシェル・ワッセルマン『ポール・クローデルの黄金の聖框』(本ブログでの書評参照)、アンヌ・ユベルスフェルトの評伝『ポール・クローデル』、そして今回取り上げる『クローデルとその時代』が出版されている。
本論集のもとになったのは、2021年3月に4日間にわたって行われたシンポジウム「クローデル・セミナー2021 クローデルとその時代」である。タイトルにある「その時代」とは「1920年代のクローデルの転換期を中心に、その前後の1910年代および1930年代ごろまで」(序[1]p.15)にあたる一時期を指している(念のため付け加えておけば、「転換期」である1920年代の大部分(1921~1927)をクローデルは駐日フランス大使として過ごした)。論者のおおよそ半数はいずれもクローデルの専門家であるが、それ以外は別の作家の、あるいは文学以外の領域の専門家たちである。多彩な顔ぶれは、「ある意味で混沌とした様相を包摂している」(序p.14)クローデルが、その守備範囲を問わず、対峙するものの問題意識を刺激してやむことのない、いまだ新しい作家であることの証左ではあるまいか。
本書を紹介するにあたっては、収録されている13の論文のそれぞれの梗概を提示することでその責務を果たすつもりであった。しかしながら、編者の大出敦氏による「序」の中ですでに要を得たまとめがなされている以上、専門外の評者があえてその轍を踏みなおすには及ばないと判断するに至った。苦肉の策ではあるが、以下では、「序」において強調されている「多面的なクローデル像」なるもののうち、評者にとって印象深かったいくつかの「面」を、関連する論考に触れつつ思いつくままに列挙する怠惰を許されたい。
クローデルにおける詩、そしてリズム
本書は「日本」「演劇」「音楽」「宗教」の4つのセクションに区分されている。目次を一瞥した評者はこの章立てを怪訝に思ったものだが、それは本来あるべきセクションが欠けているように思われたからだ。すなわち「詩」である。日本では「詩人大使」と称された文学者の重要な一側面は、何らかの狙いからあえて無視されているのだろうか? しかし、少しばかり読み進めてゆけば、その問いが見当違いであることに気が付くだろう。4つのテーマのいずれを取り扱おうが、「詩」(ひいては「詩学」)の問題に逢着せざるを得ないことが理解されてくるからだ。
それでは、議論の共通の基盤とも言ってよいこのテーマに通じていない読者は、どの論考を入り口とすればよいだろうか? 詩への言及がある論考はどれも簡潔・丁寧な説明がなされているためいずれも入り口として申し分ないのだが、あえて1つ選ぶとすれば岡村論文「クローデルと日本の伝統演劇」[2]である。「III音楽」のセクションに収められ、一見詩とは関係のないように見える題名を持った岡村論文は、その冒頭において、ランボーとマラルメがクローデルに与えた決定的影響の内実を、そして『詩法』の鍵概念である「共同出生」を簡潔にわかりやすく説明している。それによれば、クローデルの詩学は「事物相互の関係」の「認識」を通して、「神の意図、神の被造物としての万物の意味」を感じ取ることに要諦があるということになる(岡村p.279-280)。
一見すると、この詩学のもとにある詩人は、「神の意図」「万物の意味」の拡声器のような、すなわち意志を欠いたもっぱら受動的な存在のように思われる。しかしそうではない。本論集が提示するクローデルは、むしろ能動的に「事物」に働きかける詩人である。彼は、「神の意図」「万物の意味」の看取を可能にするもの、すなわち「事物相互の関係」の「認識」なるものをいかに得、いかに表現するかを生涯を通して探求し続けた。この「認識」をめぐる様々な方法の行使に際して、クローデルはおのれの持つ自由を発揮するのだが、そこに彼の独自性が現れていよう。
クローデルは、トマス・アクィナスから「すべての感覚にもたらされる快楽への欲望の正当化」[3]を学んだというが、この貪欲さは詩人の「認識」の基盤でもあるだろう。世界を十全に受け取るためには、理性という手立てだけでなく豊穣な感覚的経験が不可欠だ。彼が自由詩形式を用いるのも、このような態度と無関係ではない。詩人にとってこの形式は、韻文特有の「数値的で人工的なリズム」ではなく、「情動や感情」によって区切られる発話のリズムをもつものだったからだ(岡村p.292-293)。
ところでクローデルにおいてリズムは、詩のみならず、音楽劇・音楽論の鍵概念でもある。彼が特に重視したパターンは、弱拍+強拍からなる「基本イアンブ」であり、それは「内なるメトロノーム」たる心臓の鼓動と類似している(安川p.229[4])。安川論は、《火刑台上のジャンヌ・ダルク》の音楽を担当したオネゲルが、聞き手の生理・情動に強く働きかけると判断された「基本イアンブ」どのように用いているのか、リズムをめぐるアカデミズム言説の変遷をふまえつつ明らかにしている。
リズムを生の根源に深くかかわるものとして理解するクローデルだが、この姿勢は同時にメロディ・ハーモニーに対する冷淡さでもあるように評者には思われた。彼にとって、音の高低や積み重ねによって生み出されるものは、リズムに対して二次的であり、生命の神秘にせまるものではない、「数値的」「人工的」なものにすぎなかったのだろうか?
マラルメとの繋がり
五感にもたらされる生の悦びに禁欲的ではいられないクローデルだが、知的と分類されうる営為においても貪欲であり、想像・連想の働きに最大限の自由を与えているように見える。そのことは、日本を中心とした東洋文化の「独特」な理解の仕方にも確認できる[5]。
たとえばクローデルの漢字観を見てみよう。彼がこの漢字に強い関心を示すのはそれが「一つのものの表象となつてゐる」(大出[6]p.39)ためである。彼は文字を構成する縦画や横画にも意味を認め、それらの意味を総合して「一つのものの表象」として示す。同様の分析はフランス語の単語でも試みられており、たとえばLocomotive(機関車)は煙突を表すL、車輪を表すoなどをその内部に含んでいるということになる。一見するとクローデルは、漢字やフランス語の単語の表意文字(あるいは象形文字)的起源を信じ、「隠されている意味や観念」があると思いこんでいるようだが、そうではない。大出論文によれば、クローデルは漢字の画やアルファベットが「何の意味も観念も有さない」ことを理解しており、彼はその意味を持たぬ細部に、語の意味やそれに基づく自由な連想を投影することで、「思いもよらぬ」新たな意味を生じさせようとしていたのだ(大出p.43)。
語に先立つものとして措定された神秘よりも、主体が語へ働きかけることで事後的に生成する意味に注目する姿勢は、彼の師のひとりであるマラルメの詩学に通じよう。この詩人とクローデルの関係については、両者の舞踊観を検討した村上論文、および音楽(とりわけワーグナー)方面からアプローチした黒木論文[7]に詳しい。
村上論文によれば、クローデルのバレエ作品『男とその欲望』の装置や衣装は極めて簡素であるが、このことは舞台芸術を「各自の意識の内部で成立する」とみなし、観客の想像力が不可欠であるとしたマラルメの主張に通じている(村上p.156)[8]。
黒木論文が提示するクローデルは、歌詞を伴わないがゆえに「好きな解釈をどのようにも投影出来てしまう」絶対音楽の特徴を(おそらくそれと知らずに)活用し、ワーグナーの楽劇の中に「カトリックの思想」を「誤読」してしまう詩人である(黒木p.272)。気になるのは、クローデルがこうした読解を、「無理筋」な「誤解」として認識していたかどうかである。絶対音楽は、漢字の画と同様「あらゆる意味を包摂」(大出p.42)するものとして機能するといえよう。ワーグナー作品へのアプロ―チが、漢字やフランス語単語へのそれと類似したものだとすれば、「カトリックの思想」なるものは作品にあらかじめ内在していたのではなく、受け手の働きかけによってはじめて作品に生じたのである、とクローデルが考えていた可能性もあるように思われるが、果たしてどうだろうか。
旅先での出会い、旅の途中での出会い
前節で、クローデルの奔放な想像力が、彼の東洋文化の理解に見いだされると述べたが、このことは彼が、異文化の伝統の中におのれの問題意識と通じるものを看取し、大胆な変更も辞さずそれを作品に取り込める手腕の持ち主であることを意味する。たとえば、舞踊劇『埴輪の国』の「埴輪」は、les hommes cassés (壊された人々)なる原義とかけ離れたフランス語に置き換えられているが、これもクローデルの詩学・認識論から説明できる。というのも、「埴輪」とは、その外形によって魂を可視化する機能をもつ一方、本来自在であるべき魂にとっては桎梏でもあり、最終的に「壊され」るべきものとも見なされているからだ(根岸[9]187-188)。
埴輪の「女王」や「行列」が登場するこの作品は、非現実世界を描くクローデルの舞踊台本の系譜に位置付けられるとのことだが、なんとも奇抜な設定と筋書きである。この印象は、クローデルと同じく「外交官作家」でもあったジャン・ジロドゥの劇作品を参照することで強まる。1942年にブラジルで初演された『ベラックのアポロン』は、現代フランスを舞台としながらも、タイトルで示唆されている古代ギリシアをはじめとするエキゾチックな要素を盛り込んだ「夢幻劇」である。ジロドゥ流国際主義を理解する上で重要なテクストではあるが、その筋書きはあくまで「大変他愛のない」ものであって(田ノ口[10]p.203-207)、『埴輪の国』から受ける幻想絵巻のごとき奇想天外さ――セリフのない舞踊劇という性格が大きいのではあろうが――にまでは至っていないように思われる。
ところで、埴輪についてのクローデルの知識が決して机上のものではない、ということを付け加えておきたい。彼はその実物を1926年の京都旅行で見ているからである。40年以上に渡る外交官生活は、故国と赴任先の往復をはじめとする大旅行の繰り返しだが、本論集を読むとクローデルは赴任先でも各地に足を延ばしており、滞在先での経験を創作の糧としている。休暇でフランスに戻った際にはヨーロッパ各地を訪問しており、『埴輪の国』の原形となった『自分の魂を探し求めるジロー』は、1925年のスペイン旅行の経験が活かされている(根岸p.173-176)。
クローデルは旅先だけでなく、その途上でも豊かなまた決定的な経験をする。彼と同日に回心したリジューの聖テレーズとの運命的な縁からクローデルの一生を読み直す大須賀論文[11]には、こうした経験が散見する。詩人は「マルセイユからサイゴンに向かう船ヤラ号」の上で、聖テレーズが所属したカルメル会の修道女である幼な子イエスのマリーに出会う。また、1925年、「日本からフランスへ帰る船アマゾン号」では、幼な子イエスのジャンヌに出会っている。この邂逅が1つの契機となり、1933年に彼女は東京女子カルメル会を創立した(大須賀p.317-320)。
カルメル会の修道女たちが渡ったインドシナは、クローデルにとって「母国と任地とを行き交うたびに」訪問する地でもあった(牧野[12] p.364)。この極東の地は、19世紀後半に「フランスで最も名の知られる殉教者」となったテオファン・ベルナール神父が処刑された場所、そして彼を「お気に入りの聖人」としたリジューの聖テレーズが布教を望みながらもついに叶わなかった場所だった。
小規模な「旅」と呼ぶことも不可能ではない日常の移動、その典型例である散歩においても、クローデルはかけがえのないものに出会う。京都と並ぶ特権的な空間であり、大使時代には毎年のように避暑に訪れていた日光を例に挙げよう。1898年の初来日時には、この地を散策中に、『詩法』で振り返ることになる「万物の共生」を体験しており、1920年代の再訪では、戯曲『繻子の靴』でも称揚される「黄金」のイメージに満ちた強烈な景観に打たれる。なお、クローデルの日々の散歩ルートは「かなりの健脚家でなければ歩けない」(井戸[13]p.63)とのことである。旅人クローデルの類まれな頑健さを示唆するこの一節は、著者がこの難儀な道を実際に辿ったに違いないと思わせる説得力がある。
都会での散歩も詩情とは無関係ではない。当時九段にあったフランス大使館を起点とする皇居一周コースは、クローデルに「ずいぶん方々の国を歩いてきたが、これほど美しい散歩道に出会ったのは始めてだ」と言わしめるほどであった(山本[14]p.125)。この経験から生み出された12の短詩『江戸城内濠十二景』は、紆余曲折の末に日本での出版が叶った詩集『聖ジュヌヴィエーヴ』に冨田渓仙の挿画と共に収録されることになる。表表紙の写真のクローデルが、屏風を背に腰掛け感慨深げに目を落としているのはこの詩集の特製本である。
アナクロなクローデル? 相補性について
ここまでもっぱら文学者クローデルに注目してきたので、最後に外交官としてのクローデルについての評者の印象を書き留めておきたい。
本論集で描き出される公人としてのクローデルに出会うたび、しばしば評者の頭をよぎったのは、序の一節「アナクロニズム的でありながら現代的」(p. 22)だった。前段の「アナクロニズム」については、詩人クローデルをもこの枠組みで捉えることは不可能ではないだろう。たとえば、ワーグナー作品に、古代ギリシア芸術の理想的な復活を、あるいは大革命により成立した共和政への非難の根拠を見ようとする反近代的な姿勢においてである(黒木p.266)。
とはいえやはり、同時代の政治的状況の中で見たクローデルにこそ、この語はふさわしいように思われる。軍閥間抗争を制御できない政府を持つ中国を非文明国とみなし、それに乗じて日本の「満蒙権益」拡大を認める1920年代前半の考え方は「旧外交」的なそれと呼べる(学谷[15]p.106)。文化外交の次元でも、各国の自主性を考慮したジロドゥに比べれば、この駐日フランス大使の手法は「従来的なプロパガンダの枠組み」にとどまっていた(田ノ口p.199)。最晩年、インドシナ戦争停戦の報を受け、現地のカトリック教徒の行く末を悲観し「慨嘆」するさまも(牧野p.374)、反植民地主義が高揚していた当時のフランスにおいては時代錯誤として映っただろう。
以上、「アナクロニズム的」といえる点を列挙してみたが、一方でその対となる「現代的」な側面も、彼の外交官としての活動・発言を通して見えてくる。
「外交活動と文学活動を見事に切り分け、相互に干渉することがないように」心掛けた外交官(序p.13)。学谷論文が提示するクローデルは、この評価と矛盾するものではない。内外史料の渉猟の結果が浮かび上がらせているのは、フランス側の利害を正確に見極め最適と思われる行動に打って出ることができる、有能な一外交官の姿である。先に述べた日本の「満蒙権益」承認も、中国におけるフランス権益の維持と拡大が見込めるがゆえのものであり、そのためにフランス側はワシントン体制下で孤立する日本の代理人としてその信頼回復に貢献できるとクローデルは外交文書の中で述べる。日仏両国が「類似」した国際的状況にあるとの見取り図を描くクローデルは、両国の発展の基盤が「相補的な関係」の実現にあると考えていた(学谷p.104-105)。
もっともクローデルは相補性を、政治的・経済的次元だけで考えているのではない。「人類全体の善」を見据える詩人大使は、1922年8月に日光で行われた講演『日本の伝統、フランスの伝統』で、「多種多様な伝統、それぞれが互いに補いながら作り出す全体の調和」の理想を語っているのだ。「近似性を探し、合致した点のみ」で打ち立てられた友好関係では、「一なる世界」は実現しえない(上杉[16]p.346-347)。もちろん現実の外交の場において、「類似」を前提とした相補性の重要性を疑う余地はないだろう。しかし、「互いに差異ある特殊な諸存在を普遍へと統合する」[17]ことを指針としていた外交官クローデルはその相補性の実現の先に、もう一つの相補性を、すなわち講演で語られたような「差異」を前提とする相補性を見据えていたようだ。
上杉論文で興味深いのは、普遍を目指すこの相補性が、クローデルと「伝統主義作家」と呼ばれる文学者たちとの違いを際立たせるものでもある点だ。モーリス・バレスをはじめ、この呼称のもとにくくられた作家たちはカトリシズムと愛国主義とを標榜していたから、一見この詩人との相性は悪くないように思える(実際、上田敏や厨川白村は、バレスとクローデルとの間に共通点を見出していた)。しかし、クローデルにとって伝統主義とは、自国の過去ばかりに目を向け、迷信ですら伝統の美名のもとにありがたがるような、忌むべき姿勢である。未知の他者が持つ「多種多様な伝統」に開かれていないこうした態度からは、当然ながらあらゆる意味における「相補的な関係」は生まれ得ない。
国境の内外を自由に行き来し、与えられた職務を越えて「互いに差異ある特殊な諸存在」との出会いに己をさらし続ける一方で、伝統の連鎖としてではなく「現在進行形」(上杉p.350)の相においてフランス文学を捉えようとする1920年代のクローデルは、「ヨーロッパの危機」の時代にあって、間違いなく「現代的」な作家であったと言えよう。
本論集の収録論文はいずれも、論の前提となる周辺知識を巧みな叙述でまとめているため、クローデルよりもそちらに好奇心が掻き立てられることもしばしばだった。井戸論文からは、戊辰戦争以降の日光の観光地化の過程や、二条城の歴史についてに多くを教えられた。「クローデルに会いたくていてもたってもいられなくな」り京都から東京に舞い戻り、その後クローデルの右腕として活躍する山内義雄の生き生きした姿とその交友関係は、山本論文を読む醍醐味だろう。評者の寄り道を誘った例は枚挙にいとまがないが、いずれにせよ、本論集は表題にふさわしく「その時代」そのものもクローデルに匹敵する豊かさを、すなわち様々な要素が「矛盾を抱えながら、しかしそれらが対立することなく共存」するがゆえの豊かさを持っていることを、改めて実感させてくれるだろう。
註
[1] 大出敦「序――ポール・クローデル、この多面的な存在」以下、論の表題は初出時に注釈に明記する。
[2] 岡村正太郎「クローデルと日本の伝統演劇――リズム演劇の構想における詩と音楽の身体性」
[3] アンヌ・ユベルスフェルト『ポール・クローデル』(中條忍監訳、水声社、2023、)p.199
[4] 安川智子「クローデル/オネゲルの《火刑台上のジャンヌ・ダルク》――「イアンブ」から読み解くリズムとジャンルの多声性(ポリフォニー)」
[5] 増田裕美子「100年前の日本とクローデルの問題意識」(図書新聞、2023年12月16日)
[6] 大出敦「アリストテレスと唐辛子――ポール・クローデルの俳諧受容」
[7] 黒木朋興「マラルメとクローデル――二人のフランス詩人のワーグナー論を巡って」
[8] 村上由美「マラルメからクローデルに至る舞踊の詩学――『男とその欲望』にみられる欲望の構造」
[9] 根岸徹郎「âme / ombre / doubleとクローデルの演劇――『埴輪の国』を手がかりに」
[10] 田ノ口誠悟「ジャン・ジロドゥ――もう一人の「外交官作家」
[11] 大須賀沙織「ポール・クローデルとリジューの聖テレーズ――降誕祭の回心と女子カルメル会をめぐって」
[12] 牧野元紀「クローデルと殉教のインドシナ」
[13] 井戸桂子「クローデルと二条城――「松の中の譲位」でのコンキスタドール」
[14] 山本泰朗「ポール・クローデルと山内義雄――二人の出会いと詩集『聖ジュヌヴィエーヴ』について」
[15] 学谷亮「クローデル、メルラン、幣原――1924年の極東」
[16] 上杉未央「エック神父、クローデル、伝統主義――日本におけるフランス文学受容の一側面」
[17] 学谷亮「文学、言語、伝統:滞日記ポール・クローデルの講演活動」、『ステラ』42号、p.158.
コメント