モーリス・ブランショの評論集『ロートレアモンとサド』の新訳が2023年6月に刊行された。評者はブランショを専門的な研究対象として大学院で日々彼のテクストに向き合っている者であるが、今回の新訳刊行の一報に触れた時の驚きと期待の混ざり合った感情をいまだに覚えている。そして実際に本書を紐解いてみると、日本のブランショ研究が一歩前に進んだのだという確かな実感が湧いてきたのであった。この小文で評者は、『ロートレアモンとサド』をめぐる基本的な情報を整理しつつ、ブランショの批評への「入門」的な案内を提供することを目指している。
ブランショの翻訳事情──1970年と2023年
ブランショの『ロートレアモンとサド』の原書は初版が1949年、そして修正が施された新版が1963年に刊行されている。今回の石井訳が「新訳」であると書いたのは、もちろんすでに先行する翻訳が存在していたからである。1970年に発表された小浜俊郎訳(国文社)がそれである(改訂版は1973年に刊行)[1]。まずは日本におけるブランショの翻訳事情を振り返ることによって今回の新訳への導入に代えたい。
小浜訳が発表された1970年といえば、ブランショが日本に紹介され始めた最初期にあたる。まず1960年代に『文学空間』(粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社、1962年)と『来るべき書物』(粟津則雄訳、現代思潮社、1968年)という二つの主著の翻訳によってブランショの名は日本でも知られるようになった。そしてブランショの虚構作品で言えば、詩人天沢退二郎がブランショの長編小説(ロマン)『至高者』の翻訳(筑摩書房)を発表したのが1970年のことである。また同年には、雑誌『パイデイア』にてブランショ特集が組まれ、粟津則雄、宮川淳らが寄稿している[2]。その他、当時は『謎の男トマ』(菅野昭正訳、新潮社、1966年)、『死の宣告』(三輪秀彦訳、河出書房新社、1971年)といった初期から中期にかけての主要な虚構作品に加えて、後期ブランショの断片的なエクリチュールを予感させる対話体の物語(レシ)『期待 忘却』の翻訳もすでに刊行されていたのであった(平井照敏訳、思潮社、1966年。豊崎光一訳、白水社、1971年)。それらに加えて、当時、日本のブランショ受容を加速させたものとして、粟津則雄、清水潔らの編訳により筑摩叢書から刊行された、ブランショの個別作家論の集成(日本語独自編集)が挙げられるだろう。1968年に『カフカ論』、1977年に『マラルメ論』、1978年に『カミュ論』が出ている。こうして簡単に振り返るだけでも1960年代から70年代にかけてのブランショの翻訳の豊穣さが理解されるだろう。
このように1970年の『ロートレアモンとサド』初訳は日本におけるブランショ受容の最初期に現れた。だが当時はまず『文学空間』や『来たるべき書物』といった大部の評論集(つまりマラルメやカフカをはじめとする作家を論じるブランショ)に注目が集まっており、またそれに加えて、すでに長編小説や後期の物語作品の翻訳作業も進んでいた。そのような翻訳の量と速度の中で、『ロートレアモンとサド』は比較的注目が集まりにくい書物となってしまったと言える。さらに付言しておけば、澁澤龍彦による『悪徳の栄え』の翻訳が刊行されたのが1959年、栗田勇の『マルドロールの歌』の翻訳は1960年のことである。前者がわいせつ文書として起訴され有罪判決が下されたことで耳目を引いたとはいえ、独特の禍々しさを発散する書物の内部に敢えて分け入っていこうとする読者の数は当時多くなかったに違いない。
次に近年の翻訳に目を転じてみよう。ブランショ最大の書物『終わりなき対話』の待望の全訳(湯浅博雄他訳、筑摩書房、2017-2018年)、そしてブランショ生誕100周年に当たる2007年にフランスで出版された、第二次世界大戦期の時評集の翻訳(『文学時評 1941-1944年』郷原佳以他訳、水声社、2021年)などによって、ブランショの著述活動の全容が日本にも紹介されつつあると言えるだろう。今後は、『友愛』(1971年)、『彼方への一歩』(1973年)、『災厄のエクリチュール』(1980年)といった後期ブランショの重要著作の翻訳が期待されるところである。
ところで近年の翻訳の中でも特筆すべきもののひとつに、2013年に刊行されたブランショの自選評論集『カフカからカフカへ』の翻訳(山邑久仁子訳、書肆心水)がある(ちなみにブランショ自身による個別作家論の集成はこのカフカ論集が唯一のものである)。というのも、この翻訳によってブランショの最重要の論考のひとつである「文学と死への権利」の新訳が世に出ることになったからである。この論考にはすでに翻訳が存在していたが(『虚構の言語 焔の文学Ⅱ』 重信常喜・橋口守人訳、紀伊国屋書店、1969年)、この翻訳により現代の専門的な研究者の手による、一般の読者にとってもより親しみやすく読みやすい訳文が提供されることになったのである。2022年にジョルジュ・バタイユ『内的体験』の新訳(江澤健一郎訳、河出文庫)が出たことは記憶に新しいが、同様に日本におけるブランショ受容も半世紀以上が過ぎ、古典的な翻訳作品をあらためて現代の研究者の手によって蘇らせるべき局面に差し掛かっているのかもしれない。
ここまで日本におけるブランショの翻訳事情を簡単に振り返ってきた。まずはこうした観点からも、1970年の初訳から半世紀以上が経過していた『ロートレアモンとサド』の新訳は待望の翻訳であると言える。訳者はロートレアモンをはじめとするフランス文学研究の泰斗、石井洋二郎氏。今では古くなってしまった訳文が最適任の研究者によって膨大な訳註とともに現代に蘇ったことは、日本の読者にとって僥倖と言えるだろう。
『ロートレアモンとサド』の位置──1949年と1963年
『ロートレアモンとサド』の新訳について、まずは日本における翻訳という観点から見てきたが、次にこのテクストそのものに入っていきたい。ただ、ブランショの著作の中でもあまり知られているとは言えないこの著作の中に入っていく前に、まずはブランショにおけるこのテクストの位置、その重要性について確認することにしよう。
さて、ブランショの著作群の中で、このテクストはどのような位置を占めているのだろうか。原書の初版が刊行されたのは1949年、新版が出たのは1963年のことである。1949年とは、ブランショの第二評論集『火の部分』(前述の「文学と死への権利」はこの論集を締めくくる巻末論文になっている)が出版された年であり、またその前年の1948年には二つの重要な虚構作品である『至高者』と『死の宣告』が刊行されている[3]。その後『文学空間』(1955年)、『来るべき書物』(1959年)、『期待 忘却』(1962年)、『終わりなき対話』(1969年)、『災厄のエクリチュール』(1980年)などが続くことになる。
つまり1949年とは、ブランショが戦後、作家・批評家としての成熟の階段を一気に駆け上がっていくまさにその時であり、1963年とは、批評家としての地位を確立したブランショが、前期の主著『文学空間』から後期の主著『終わりなき対話』へと思想的な広がりと深みをさらに増していくその過渡期にあたる。1949年と1963年とは、ブランショにおいてそのような時期であり、その両者において彼はロートレアモンとサドを読みそして書くことに情熱を捧げていたのである。
もちろん本書の重要性は時期的な観点にのみ由来するわけではない。内容については次章以降で述べるが、まずは三つのことを指摘しておきたい。まずロートレアモンとは、特に1940年代のブランショにおいて、繰り返し言及される特権的な詩人の一人であったということである。早くもブランショは、ナチスドイツによる総攻撃前夜の1940年4月、ガストン・バシュラールの著作『ロートレアモン』(1939年)の刊行を機に書かれた評論(のちに評論集『踏みはずし』(1943年)に収録)の中で、すでに独自のロートレアモン理解を示していた。そこでは『マルドロールの歌』に「小説」作品の生成を見出すこと、またマルドロールの攻撃的瞬間と作品の時間的持続の相剋に着目することといったブランショ独自の論点がすでに出ている。つまり遅くとも第二次世界大戦の勃発に前後する時期から始められた彼のロートレアモン読解が、1949年の論考に結実することになると言える。
また第二に、これはあまり知られていない事実だが、ブランショの個別作家論(モノグラフ)の中では、本書に収められた論文「ロートレアモンの経験」は文量において最大のものである。後期ブランショにおいてはロートレアモンという固有名は目立たなくなるが、ブランショがその生涯で最大のモノグラフを捧げた詩人がロートレアモンであったという事実はあらためて明記されるべきであろう。
最後に、第二版に新たに付された序文「批評はどのような状況にあるか?」(初出1959年)は、短いながらも凝縮された批評的マニフェストとして、ブランショのコーパスの中でも特に注目に値するということである。そこでブランショは彼においては例外的な率直さで「批評」について直接的に語っているのである[4]。それはあくまでも批評一般についてではなく、ブランショ自身の「批評」についてである。かつてジャン=イヴ・タディエが20世紀の文学批評の歴史についての浩瀚な著作を書き起こす際に、まずこのブランショのテクストに言及することから始めているのは瑣末ではあるが興味深い事実である。というのもそこでタディエは『ロートレアモンとサド』冒頭で示された「批評」のあり方を紹介しつつ、ブランショは「他の批評家と同列に扱えるような批評家ではない」として、彼を自らの著作で扱うことは避けると宣言するからである[5]。翻ってみればこのテクストはブランショの「批評」の特異性を知るためには最適のもののひとつであると言えよう。
批評の消滅と回帰──「批評はどのような状況にあるか?」
1963年版の『ロートレアモンとサド』の巻頭に置かれたテクストは批評についての直接的で自己言及的な問いかけとなっている。ブランショは問う、「なぜ批評家が必要なのか? なぜ作品だけでは語るのに十分ではないのか? なぜ読者と作品のあいだ、歴史と作品のあいだに、こうした読むこと(レクチュール)と書くこと(エクリチュール)の厄介な混合物が介在しなければならないのか?」(本書、12頁)と。そう、批評家とはいかにも余計な存在であるように思われる。作品についてあれこれと論じる彼の声は当の作品を覆い隠してしまうように思われる。それゆえ批評は作品を前にして消え去るべきではないのか。
批評は常にこうした批判に晒されるものである。ブランショは、こうした批判をハイデガーのヘルダーリン注釈における「雪」と「鐘」の比喩を援用することで説明している。すなわち、野外に吊るされた鐘に雪がふれて、それに微かな振動を立てさせるのと同時に溶けて消え去るように、批評は作品の声を響かせるのと同時に消え去るべきではないのか、と。まず言えるのは、ブランショはこうした見解を斥けるわけではないということだ。ブランショにおいても、批評はそれ自体空虚であるような「空間」を生み出すべきものである。というのも、その空虚な空間においてこそ作品は存在し始めるからである。「批評のことばとは、作品の、それ自体は語ることのない不定形の現実が、ある瞬間にことばへと変貌し、輪郭が描かれる共鳴空間である。」(14頁)だが、それだけではない。つまり単に批評家が作品を前にして消え去り、そこに残された空虚な空間において作品が語り始める、といった「消滅」の図式だけでは作品と批評の関係を捉えるには不十分なのである。批評は消え去るだけでなく回帰する、とブランショは述べる。だがこの「回帰」の論理をブランショ自身がここでかならずしも直接的に説明しているわけではないため、以下の叙述は評者による補足を多く含んでいることをお断りしておく。
批評が消え去り残された空虚な空間で作品が語り出すという構図では不十分であるのは、まずブランショが文学作品を完結して自足したひとつの実体というよりも、終わりなき生成の運動として捉えているからである。ブランショは作品の存在を、作品が自らを実現していく再帰的な運動として考えている(そのときブランショは「作者」という言葉を用いていないが、ここで言われる「再帰性」は作者が自らの作品を書くというときのそれに近似している)。そして書かれつつある作品と書かれるべき作品の間には常に距離があり、そのズレが解消されることはない。それをブランショは「作品のそれ自身にたいする本質的な不一致」(14頁)と呼んでいる[6]。この「不一致」が「本質的」と呼ばれるのは、それが作品の端的な現前を妨げると同時に書くこと(エクリチュール)の営みを駆動し続けるからである。
そのように作品を捉えたときに明らかになるのは、作品が抱え込むこの内的な「不一致」あるいはズレが作品の作品自体に対する批評的な距離に等しいものになっているということ、つまり批評の契機は作品自体に内在しているということ、さらにはこのような作品創造のプロセスにおいて働いているものが、まさに上で見た批評の「消滅」の運動と一致するということである。すなわち書くこと(エクリチュール)の運動とは、書かれるべき作品の声を響かせるために、自らは常に消え去っていこうとするものなのである。
それゆえ批評は作品を前にして単に消え去るだけではなく回帰する、とブランショは論じる。「作品を前に消えようとする結果、批評は作品の中で、作品の本質的な段階のひとつとして、自らを取り戻すのだ。」(15頁)つまり、自らは消え去ることで作品のための空虚な空間を残していく批評の運動は、「すでに文学作品の現実に属しており、作品が形成されるあいだに作品の中で活動している」(14頁)のである。作品はその内部に解消不能なズレを抱え込んだまま、名目上は「完成」を迎える。そのとき批評家の読み(レクチュール)は、作品創造の過程で絶えず働いていた書くこと(エクリチュール)の運動を代補するものとなる。そうして批評家は作品を完結した実体として受容するのではなく、書かれつつある作品と書かれるべき作品の間における書くこと(エクリチュール)の運動そのものを聞き取り、それを作品の声として響かせるのである。
こうして作品と批評──ハイデガーの比喩で言えば「鐘」と「雪」、あるいは簡単に言ってしまえば書くこと(エクリチュール)と読むこと(レクチュール)──の二元論は斥けられ、両者の本質的な区別はなくなる。では、そのとき作品=批評の空間を領するのは何かといえば、それは「常に欠如としてあり続けることで自らを形作る文学固有の力」(15頁)ということになる。言い換えればそれは、作品の言葉も批評の言葉も、未知なるもの、来るべきものの声が響くための空虚な空間となるべく、常におのれを滅却しようとするものとして存在するということである。つまり作品の言葉は書かれるべき作品のために自らは消え去ろうとし、その痕跡が実際の作品として残る。同様に批評の言葉も、そのような作品の言葉が響くための空虚な空間となるべく自らは消え去ろうとし、その痕跡が実際の批評として残ることになる。
そのように作品=批評を捉えたときにまず言えるのは、批評の営みとは外部からの作品の価値判断ではないということである。そのとき批評は「作品の内密性と不可分になり」、「作品それ自身の探究、作品の可能性の経験」(15頁)になる。つまり、作家の文学的な達成(結果)を、あるいは詩作における「現実態」としての完成した作品を対象として何らかの価値評価を下すのではなく、書くこと(エクリチュール)の運動としての作品をその生成の相において、言うなれば「可能態」の次元で経験することである。このように「作品の可能性」を経験する営みにおいて、その主体は批評家であると同時に作家自身でもある。書くこと(エクリチュール)と読むこと(レクチュール)が不可分に組み合った地点においてブランショが繰り出す問いは、「文学とは何か」ではなく「文学はいかにして可能か」なのである[7]。
完全に意識的な注釈という幻想──「ロートレアモンの経験」
1963年版の『ロートレアモンとサド』においては、巻頭のマニフェスト「批評はどのような状況にあるか?」の次に、「サドの理性」と題されたサド論が、そして最後にロートレアモン論が置かれている。今回は論点を絞るためにサド論を省略する形になるが、サドは、ブランショにとっては、特に「すべてを書く」という作家の際限なく自由な主権=至高性を体現していたという点において特権的な作家の一人であった。その後のブランショのサド論としては、政治的抵抗の側面がより強く打ち出された論考「蜂起、書くことの狂気」(初出1965年、その後『終わりなき対話』に収録)が挙げられる。
さて、上で見た1959年の批評的マニフェストでのブランショの理論が練り上げられた背景には、間違いなく1940年代における彼のロートレアモン読解があった。まず何よりも「ロートレアモンの経験」というタイトル自体が上で見た作品=批評の二重性を暗示していると言える。つまり、これの意味するところは、作家イジドール・デュカス=ロートレアモンが『マルドロールの歌』を書くことにおいて被った「経験」であると同時に、批評家モーリス・ブランショが『マルドロールの歌』を読むことにおいて被った「経験」でもあるのだ。ロートレアモンが書くこと(エクリチュール)によって生きた──それによって彼が「作家」となった──「経験」、つまり「作品の可能性の経験」をブランショは読むこと(レクチュール)によって引き受けることになる。さらにその「経験」を引き受けることとしての読み(レクチュール)こそが、批評家としてのブランショを生成することになると言っても過言ではないだろう。
『マルドロールの歌』の最終第6歌の冒頭、ついに悪夢から目覚めたマルドロールが小説作品を書くことを高らかに宣言して、ある意味で第5歌までの作品全体が作家の誕生に至る格闘を歌っていたのと同様に、ブランショもその評論において、読むことの可能性と不可能性の間を絶えず揺れ動きながら、自らの批評家としてのあり方を建設していると言えるのである。
実際「ロートレアモンの経験」は長大な論考であり、そこで我々読者はロートレアモンとブランショそれぞれのめくるめく「経験」を再度経験することになるが、ここでの批評家の目論見は明晰である。冒頭付近で彼は次のように宣言する。
私たちはただ、あるテクストを追跡すると同時に見失うことがどこまでできるのか、そのテクストが包含する者であると同時にそれを包含〔把握・理解〕する者であること、すなわちある世界の内部にありながら、あたかも外部にいるかのようにしてその世界について語る人間であることがどこまでできるのか、そうしたことを証明したいだけなのだ。要するに、[…]何も説明することはできないながらもすべてを解き明かそうとひたすら専念する、完全に意識的な注釈という幻想を装いたいだけなのである。(83-84頁)
作品に呑み込まれながらそれでもなお作品を対象として語ることができるかのように、つまり作品の内部にありながら外部にいるかのように振る舞うこと。批評の営みとは徹頭徹尾そのようなものである限り、外部から「すべてを解き明かそうとする」ような注釈は「幻想」としてしか存在し得ない。あるいは『マルドロールの歌』とは、そのような「幻想」としての批評のあり方を不可避的に露呈させてしまうような作品なのだとも言えよう。つまりブランショは冒頭からおのれの読み(レクチュール)の客観的な真正性を否定しているのである。
それゆえ「ロートレアモンの経験」というテクストは、ロートレアモンの作品についての文芸批評(クリティック・リテレール)といった制度的な──つまり「幻想」の抑圧の上に成り立つような──言説などではなく、「読むこと(レクチュール)と書くこと(エクリチュール)の厄介な混合物」としての批評行為の本質的な幻想性=虚構性を意識的に装いながら上演したものなのである。対象との距離を前提とする注釈の客観性を「幻想」としてはじめから斥けるブランショの批評は、それゆえロートレアモンの作品を読む彼自身の「経験」なのであるが、それがあくまでも作家ロートレアモン自身が被った「作品の可能性の経験」にできる限り寄り添っていこうとするものであることを見落としてはならないだろう。そうしてブランショは、実在の人物デュカス、作者としてのロートレアモン、語り手の「私」、そして主人公マルドロールという作品をめぐる諸階層を意図的に脱臼させながら、作家の実存からテクスト内部までを、作品の生成のドラマとして一貫して辿っていくのである[8]。
さてこの怪物的な作品の核心はブランショの見るところ、明晰と盲目の二重性、あるいは覚醒と眠り、理性と狂気の両義性に求められる。ブランショの読解が絶えず立ち返っていくのもこの点である。
自分は明晰である、とマルドロールは示してみせ、是が非でもそうでありたい、それもけっしてあきらめない明晰さを保持したいと願うのだが、あるときはこの明晰さが強すぎて目が見えなくなり、眠れぬ夜の幻覚に満ちた重苦しさになる。(127頁、強調原文)
真昼の明晰を志向するマルドロールの意志は、その強度の甚だしさによって、もはや闇夜の盲目と区別がつかなくなってしまうという逆説に晒されている。おのれの理性を信じて疑わない者が誰よりも狂気へと接近してしまうのと同様に、マルドロールの格闘は悲劇的な様相を帯びる。フランス語の慣用表現にならえば、「両極端は相通じる(Les extrême se touchent)」のである。そうして作品は、明晰と盲目の反転を繰り返しながら通念的な二分割を絶えず揺さぶっていく。
だがこの逆説は単に作品のモチーフの問題に留まるものではない。一義的な解釈を許さない作品は逆にすべてを解き明かしたいという読み手の欲望を惹起することになる。つまり「常に明視するという決意」(128頁)、これはこの作品の読者、批評家の意識でもある。「作者が読者を追いやろうとしている状態は、まさにマルドロールが巻き込まれていた状態なのだ」(127頁)という点にこの作品の魔力があると言えよう。「いかなる読者も、ある瞬間になると、早く事実を白日の下にさらしたい、まだこれから生まれようとするこの「現実」にすぐにでも手を触れたいという欲望に抗うことはできない」(152-153頁)のであって、それゆえ作品に関する性急でかつ盲目的でもあるような解釈が生まれることになる。つまりそこには明視への欲望が闇の盲目に反転してしまうという逆説が存在している。
すべてを[…]説明できるような解釈とは、すべてを明るみに出したいという、きわめて容赦のない意志を物語っているので、精神が狂気という名のもとに理解しようとする欲望の、あの強烈な体系化をそこに認めないわけにはいかない[…]。(97頁)
ブランショは、明晰と盲目の反転構造が作品だけでなく作品読解にも常に取り憑いていることに意識的である。それゆえ彼は『マルドロールの歌』読解の様々なアプローチ──たとえば、特定のテーマへの還元的解釈、神話や聖書からのモチーフの借用の検証、同時代的な文学者との影響関係の解明など──を繰り返し取り上げつつもそれらに与することはない。そうした「「解釈」への狂気じみた情熱」(96頁)を相対化しつつブランショが辿っていくのは、明晰さへのマルドロールの格闘を通して、ついにデュカスという実存から「ロートレアモン」という名が冠された詩人が誕生しようとする過程そのもの、作品がその生成の相において徐々に可能なものになっていく経験そのもの(「作品の可能性の経験」)であると言える。そのような読み(レクチュール)をブランショは、「『マルドロールの歌』を、時間の中で、時間とともに作られていく漸進的創造として、進行中の仕事(work in progress)として、生成中の作品として読むこと」(130頁、強調原文)であると述べている。
おわりに──ブランショの批評に向かって
ここまでブランショの『ロートレアモンとサド』を簡単に紹介してきた。最後にブランショの批評の方法について簡単にまとめておきたい。ブランショの批評は常に二重の要請に貫かれていると言っていい。まず、作品を前に批評家が消え去ることを要求するような、作品に対する極めて厳格な倫理的要請である。それは特定の解釈への欲望に抗いながら、「注釈」の幻想性=虚構性に常に自覚的であるような読み(レクチュール)の態度を要求する。それに加えて、作家の書くこと(エクリチュール)の経験の引き受けとそれに対する応答としての読むこと(レクチュール)の実践。作家が生きた「作品の可能性の経験」を、ブランショは読むこと(レクチュール)の次元で自ら生き直そうとする。もちろんそれは批評家ブランショの経験であって作家の経験ではない。しかしブランショは自らの責任において作家の経験に応答しようとするのである。倫理と応答責任によるこの二重の要請は、特に『災厄のエクリチュール』(1980年)において全面的に展開されることになる。
最後に、このようなブランショの批評の方法を端的に示している例をひとつ見ることでこの小文を締め括ることにしよう。それは1983年、『明かしえぬ共同体』の末尾である。そこでブランショは、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の著名な結語「語りえぬものについては沈黙しなければならない」を引きながら、「決定的に口を閉ざすためにこそ語る必要があるのだ」と記している[9]。そう、この著作は、冒頭からブランショが注記しているように、「共産主義、共同体、といった語が含みもっていると思われる言語の欠陥に関する考察」なのであった[10]。つまり人間の共同性に関する既存の語彙によっては「語りえぬもの」──かりそめに「明かしえぬ共同体」と言いうるもの──、それについてブランショは語ってきたのだ。この末尾で「決定的に口を閉ざすためにこそ語る必要があるのだ」と記した後、たしかにブランショは「しかし、いかなることばで語るのか? それはこの小著が他の書物に委ねる問いのひとつである」と述べているが、その問いに対するひとつの答えはこの著作の中ですでに示されていると言っていい。それはナンシー、バタイユ、デュラスの(そしてレヴィナスとデリダの)テクストを引き受けながらそれらに応答することによってである。彼らの思考の特異性を尊重しつつ、彼らの経験を自ら生き直すことによってである。
さらに、「決定的に口を閉ざすため」と言っても──そう、一冊の書物であるからにはどこかで確実に「口を閉ざす」必要があるのだが──それは「語りえぬもの」についての問いに答える責任を放棄しているということではない。まずそれは、友人たちの思考と経験に対する倫理的な態度を示している。つまり彼らのテクストを根拠として利用しながら「明かしえぬ共同体とは何か」という問いに対する最終的な結論を出すことをせずに、その一歩手前で「そのような共同体はいかにして可能か」という問いに留まり続ける慎みである。それと同時に、ブランショはこの問いを開きつつ自らは口を閉ざすことによって、まさに彼自身が自らの友人たちの経験と思考に対して行なってきたのと同様に、自らの同時代人たちに対して、『明かしえぬ共同体』というテクストを引き受け、さらにそれに応答することを求めているのである。
註
[1] ここで『ロートレアモンとサド』の小浜訳について簡単に注記しておきたい。1970年に出された訳では1949年版の『ロートレアモンとサド』が定本とされているが、その後1973年に出された改訂版では1963年版が定本とされている。石井洋二郎氏の「訳者あとがき」にはこの改訂版の書誌情報が欠落していたため、ここにあらためて記しておく。
[2] 日本におけるブランショの初期受容においては、もちろん宮川淳『鏡・空間・イマージュ』(1967年)の存在も見逃すことはできない。絓秀実は、ブランショのイマージュ論から影響を受けた宮川の論が強力な「表象=代行批判」として、入沢康夫、天沢退二郎ら当時の前衛的な詩人たちの政治闘争と共鳴していたと説明している(絓秀実、『革命的な、あまりにも革命的な 「1968年の革命」史論』作品社、2003年、118-141頁)。それゆえ絓は「68年」を知るためのブックガイドの中で『文学空間』を「きわめて政治的な文学批評」として取り上げている(絓秀実編、『思想読本[11]1968』作品社、2005年、213頁)。
[3] ブランショの著作における有名な「小説(ロマン)」から「物語(レシ)」への移行は、発表された虚構作品の点から見ると、おおよそ1948年から1949年の時期に位置づけられる。『謎の男トマ』初版(1941年)、『アミナダブ』(1942年)、『至高者』(1948年)までが「小説(ロマン)」、「死の宣告」(1948年)以降の『期待 忘却』(1962年)をはじめとする虚構作品が「物語(レシ)」として整理されるのが定説となっている。また1949年には、その後『白日の狂気』(1973年)と題されることになる短編「レシ?」が発表されている。その後「小説(ロマン)」と「物語(レシ)」の理論的な区別は、論考「想像的なものとの出会い」(初出は1954年、のちに『来るべき書物』の巻頭論文として収録)において行われることになる。いずれにせよ1948年から1949年にかけての時期は、戦前・戦中期から始められていたブランショの著述活動が一気に開花すると同時に、1950年代以降の思想的な深化の階梯をすでに踏み出しているという意味で、極めて重要な時期であると言える。
[4] 付言しておけば、「批評」そのものについて論じたテクストは、他にも「批評の神秘」(1944年)、「批評の謎」(1946年)、「批評の条件」(1950年)などが挙げられるが、いずれも生前に単行本に収録されることはなかった。
[5] ジャン=イヴ・タディエ『二十世紀の文学批評』西永良成他訳、大修館書店、1993年、6-7頁。
[6] もちろんこうしたブランショの「作品」理解にはマラルメからの影響が大きい。1943年の論考「マラルメと小説芸術」においてすでに、書きうる実際の著作と大文字の〈書物〉の間の差異に基づいた「作品」理念が練り上げられている。
[7] ブランショは論考「文学と死への権利」の前半部分(初出1947年11月)において、サルトルの『文学とは何か』への批判的な応答を試みている。また同時代のカフカ論(「カフカと文学」(初出1949年7月)など)においてブランショは、文学に固有の「離脱(dégagement)」──アンガージュマンではなく──の力を論じている。また、「文学はいかにして可能か」とは、ジャン・ポーラン『タルブの花──文学における恐怖政治』(1941年)を論じたブランショの初の評論集(1942年)のタイトルである。
[8] 『文学空間』冒頭の「本質的孤独」などにおいて作者と作品の間の絶対的な距離を論じていたブランショを知る読者にとっては意外に思われるかもしれないが、ブランショは作家の実存とテクストの間に必ずしも常に厳密な区別を持ち込むわけではない。1940年代初頭、アンリ・モンドールの伝記『マラルメの生涯』から彼の詩論に取り組み出した時から、1930年代のバタイユの「アセファル」共同体の経験と『内的体験』を連続的に捉える1983年の『明かしえぬ共同体』まで、ブランショは書くこと(エクリチュール)を作家の生の次元と結びつけながら思考している。
[9] モーリス・ブランショ、『明かしえぬ共同体』西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年、116-117頁。
[10] 同書、9頁、強調原文。
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