ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』(田上竜也訳、水声社、2021年)/ 中筋 朋

はじめに——ヴィリエを翻訳するということ

 ヴィリエの作品を訳すときの難しさのひとつに、バランスがある。風格と読みやすさのバランス。「語り」のような雰囲気から来る推進力がありながらも一筋縄でいかないヴィリエの文章は、ただ平易に訳すだけでは取りこぼすものが大きい。ヴィリエ、いやむしろリラダンといえば風雅な齋藤磯雄訳が作家受容と二人三脚であった日本では余計そう感じられるだろう。かといって、旧仮名遣いや、今となっては時代がかったものになった言い回しは、魅力であるのと同時に、読みにくさにもなることは否めない。この魅力がヴィリエを読むときの醍醐味でもあったが、今回新訳の『残酷物語』を読んであらためて感じたヴィリエの作品がもつ潜在的な読者の層を考えると、非常にもったいないように思う。

 ただ、『未来のイヴ』の文庫版の新訳のように、平易を目ざすあまり恣意的解釈を含む訳もまた、ヴィリエ作品の魅力を大きく損なうものと言わざるを得ない。というのも、ヴィリエの作品の読書の楽しみは、テクストを自分で把握していくことによって、直接の層、皮肉を解釈してわかる層、背後にある論理を理解すると浮かび上がる層——を同時に感じることにあるので、安易な解説訳は、そのおもしろさを根底から崩すものになりかねないからだ。

 その意味では今回の新訳は、そのバランスが絶妙である。そしてそれは、上記のような、ヴィリエのテクストにおいて複数の層を多層のまま理解することの重要さについて、訳者の田上竜也氏が非常に意識的だからだろう。「訳者解説」において、田上氏はヴァレリーのヴィリエ論も引用しながら、ヴィリエのテクストが「表面的記述が過剰に強調されるほど、文章の表面から隠された真意(皮肉、諷刺、諧謔)が浮き彫りにされる効果を発揮している」ことを指摘している。だからこそ、訳は読みやすくなっても、ページを一見したときに異質感を喚起しうるほどの多彩な書体や句読法の使用は、非常にていねいに日本語の表記へとうつしかえられている。一定の読みやすさを保ちながら表面の層の不透明性を損なわないというのは、非常に繊細でむずかしい作業だ。しかし今回の訳は、それを成し遂げることで、風格と読みやすさのバランスというよりも、不透明さを厚く保ったまま現代の読者への読みやすさを提供し、ヴィリエのテクストがどのようなものなのかが非常に見えやすくなった。この点について、訳文を見ながら考えていきたい。以下の『残酷物語』のタイトルおよび訳文は、既訳と明記していないかぎり、すべて田上氏の訳によるものである。


ヴィリエ作品の「読みやすさ」とは

 まず、既訳との違いを見ていきたい。今回の水声社のヴィリエ・ド・リラダン・コレクションは、あとがきによればヴィリエの作品に「正確かつより近づきやすい訳を」という趣旨で企画されたもののようだが、田上氏の訳はまさにその趣旨にぴったり添うものになっている。単に「近づきやすい」ではないところを強調しておきたい。その意味では、この『残酷物語』は、齋藤磯雄を代表とする既訳の流れを汲むものだ。さきほどふれた「表面的記述が過剰に強調されるほど、文章の表面から隠された真意」が浮き彫りになるという見方も、齋藤磯雄の解題にあった「かりそめの読者には容易にその真意を補足し得ないやうに、文章を計量してゐるやうに思はれる」というヴィリエ理解に共鳴するものである。筆者が学部生のころにはじめてヴィリエ作品を読んだとき、旧仮名遣いの訳にもフランス語の原文にも、どちらもわからない部分がしばしばあった。他方を見ることでわかるようになるなど、それが補い合える場合はよいが、どちらもわからないこともあり、そのときほしかったのはまさにこのような訳書だった。「正確さ」を置き去りにして平易にしすぎた訳だと、おそらくその訳者の唯一の解釈のみがヴィリエのテクストなのだと勘違いしてしまい、もしかしたら興味を失っていたかもしれない。

 しかし、「近づきやすい」のもやはり大事で、田上氏の訳者解説でも指摘されているように、「何よりもまず演劇人であることを望み、またカフェにおける語りの名手でもあったヴィリエ」のテクストには、語りのリズムの妙がある。既訳も独特のリズムがあって魅力的だが、「語られるように読まれるべき作品」であるためにはことばがすんなりと入ってこなければならない。田上訳は、ことばづかいの現代化だけでなく、ときに戯曲を思わせるような訳でこの演劇性をよりつよく感じさせるものになっている。たとえば、ほとんど戯曲として読めそうな「二人の占い師」において、齋藤磯雄訳で「主幹の跳躍」となっていた箇所は「主幹飛び上がる」とト書きを思わせる書き方になっている。また、空想科学小説や怪奇小説、諷刺小説から歴史小説や神話的雰囲気を漂わせたもの、さらには詩にいたるまで多彩な作品の収録された『残酷物語』で、各編の雰囲気の違いが訳文に反映されているのもこの「語り」的側面をよく伝えている。クノーの『文体練習』とまではいかないかもしれないが、たとえば「ヴィルジニーとポール」と「告知者」の雰囲気の違いはページを一見してわかるものになっている。

 そしてことばがすんなり入ってくるということについて、既訳が読みにくくなっているとすれば、それは筆者の教養不足のせいも多分にあるのだが、日本語のニュアンスの変化による場合もある。齋藤磯雄訳はもともとは1938年、現在入手しやすい筑摩書房版は1965年の訳である。『残酷物語』全体の訳ではないが、このなかの短編の多くを訳した辰野隆選の『リイルアダン短編集』は1952年。それぞれヴィリエのテクストの雰囲気をつたえ、文学作品として味わうのにふさわしい名訳である。しかし翻訳におけることばの選択は、現代物であればあるほど古びやすいこともある。『残酷物語』には、実は同時代の風俗や商品を扱った現代物が多く収録されている。こうした小説の場合、訳語の選択は非常にむずかしい。現代の感覚をもとに容易に語を置きかえてしまってはその時代を伝えるものとしてのおもしろさを損なってしまうのはもちろんだが、そういった置きかえを避けながら訳しても、日本語自体の変化の影響は避けられない。神話や歴史についての語彙はそこまですぐに変化しないが、現代社会についての語彙は、よりはやく変化してしまうからである。その結果、19世紀的な「現代性」を出すのには——やりすぎは禁物というのは強調してもしすぎることはないものの——実は訳される時代ごとの語彙が必要になることになる。端的な例を挙げると、空に広告を掲示する事業について書いた「天空の広告掲示」において、これが« industriel » な見地から天空を考察されたものであるという説明が、齋藤訳では「生産的」となっている。田上訳では「産業的」となっており、われわれにはこのほうが意味のとおりがよい。この作品は、いかに道具立てが立派になろうとも内容の愚かさはどうにもならない、またはかえってその愚かさが浮き彫りになってしまうことを描いて商業主義社会を風刺したものなので、やはりその冒頭におかれるのは「産業的」という語でなければならないだろう。ほかの短編からも細かいことばづかいを無作為にひろってみるなら、「運賃」が「配送費」に、「有産者」が「資産家」に、あるいはモットーとして「平気!」ではなく「平常心!」となっていて、現代の我々に、新しすぎる印象も与えずにすんなり届くことばになっている。齋藤訳で「ブールス街」となっていたものが「証券取引所」に、「肝臓入りの丼」が「フォアグラのテリーヌ」になっていることには、なにが当たり前になり、なにが当たり前でなくなったかを見るのにも興味深いように思うが、それについてはここでは深入りしない。『残酷物語』がまさに「語り(コント)」として活きた新訳であることを述べておくにとどめよう。

 また、既訳との違いということでは、注についてもふれておかなければならない。新訳では、「詳註を付した決定版」という帯の文句のとおり、訳注が補強されている。現在あまり必要なくなった注については省いているものもあるので単純に数の問題だけではない。たとえば「ヴェラ」のエピグラフについて、ヴィリエは出典を「近代生理学」としているので、これまでの多くの場合はその近代生理学がジョルジュ・キュビエの学説であるという注が付されていた。これに対して新訳ではこれがA・ヴェラの『ヘーゲル哲学序説』からの引用であるという注がつけられている。このような注の変化は、1968年にカステックスによるクラシック・ガルニエ版、1986年にプレイアッド版が出版されたためも大きいのかもしれないが、詳細でありながら煩雑になりすぎないよう注をつける箇所が選ばれていることも指摘しておきたい。

 どちらにせよ、ここで強調したいのは、こうした注が必ずしも文献学的厳密さのためだけにあるのではなく、ヴィリエ作品を「読む」ために非常に本質的なものであるという点である。最初にふれたように、ヴィリエのテクストにはいくつもの層があり、表面の層が過剰でぶあつく、そこで遊べる時間が長いほどに、直接には言われていない層を同時に受容できるように編まれている。文学作品における注というのは、とりわけ一般読者の読書の楽しみとのバランスを考えるとなかなか悩ましい問題だが、ヴィリエのテクストにおいては、この表面の層を厚くするのに貢献する重要なファクターである。物語がどう展開するかをはやく知るために読書をするなら多すぎる注はわずらわしく感じられるかもしれないが、むしろテクストを読者が展開させるためには、詳細な注は不可欠なのである。そしてこの「展開」には、古典についての教養と作品の書かれた当時についての時事的文化的知識が前提とされていることが多い。ある固有名詞がどのような背景をもっているかを理解できなければ、テクストの織りなすネットワークを構成する要素になりえない場合があるのだ。それを踏まえると、その作家が当時どのように受容されていたのか、あるいはときにヴィリエがその作家をどのように捉えているのかについてのヒントまでが記された新訳の注は、テクストの効果を理解することに大きく寄与していることがよくわかる。ヴィリエのテクストの「読みやすさ」は、つぎつぎにページをめくっていけるようなわかりやすさがつくるのではなく、むしろ不透明さこそがつくるのである。もちろん、ヴィリエのテクストのポリフォニー性については齋藤磯雄訳でも重視されていたところだが、新訳はこれまでの訳業を引き継ぎながら、さらにこの不透明さに貢献したものだと言える。


「かけことば」への感受性

 そしてこのような「層」をつくる要素は、なにも固有名詞だけに限らない。ヴィリエのテクストは、小説でありながらいわゆる「かけことば」のような仕掛けがされていることがしばしばある。たとえばさきほどふれた「天空の広告掲示」で、政治家の肖像が天空に掲示されるのはβ星の真下だが、ここの注には「フランス語のbêta には『間抜け(な)』の意味もある」と記されている。ほかにも、「<彫刻家のアトリエ座>のν」のところには、「ギリシア文字の『ニュー』とフランス語のnu 『裸体』とを掛けている」という注がある。後者は、プレイアッド版にも記載がないものである。またそもそも、こうした注は、既訳にはあまり見られないものであった。田上訳は、解説に書かれているように、もともと冒頭にひいたヴァレリーのヴィリエ・ド・リラダン観への興味から出発してなされた仕事であることもあってか、この「かけことば」をはじめとする原文を読んでいないと味わえない楽しみがとても丁寧に拾われている。

 いくつか例を挙げてみよう。「人間たらんとする欲望」のある注では、« avoir l'oreille »と« avoir l'oreiller »とが掛けられていることがフランス語表現の記載とともに指摘されていて、綴り字も非常に近いことから、フランス語を知らない読者でもことば遊びのイメージが持ちやすくなっている。かけことば以外にも、たとえば「見知らぬ女」では、vous からtu への変化が効果的に使われていることへの指摘があり、敬称と親称の区別がある言語を学んだことがあればイメージしやすくなっている。あるいは「トリスタン博士の治療」で« la Puce à l'oreille »という慣用句がつかわれている箇所は、齋藤訳では「寝耳に水」という耳を使った日本語の成句に置き換えられ、注に原文が「耳の蚤」となっていてそれが「不安に駆られる」という意味であるという説明がされていた。ほかの« avoir l'oreille basse »という慣用句も、「耳が痛い」という日本語に置き換えられるという工夫がされている。これに対して田上訳では、どちらも字義どおりの「耳の蚤」と「耳が垂れる」という訳が採用され、注でその意味を説明するという大胆な選択がなされている。ほかの作品でも、注をつかわずとも、慣用句をあえて直訳して括弧のなかにそれに対応する日本語の表現あるいは説明が書かれている箇所がしばしばあった。しかしこれは、ヴィリエがしばしば慣用句をあえて文字どおりの意味で使用することを考慮にいれるなら、むしろ順当な選択といえるのかもしれない。ヴィリエのこうした慣用句の使い方は、たとえば「暗い話、さらに暗い語り手」の« succès d'estime » という「玄人受け」を意味する表現が文字どおり使われている部分が挙げられる。これは、田上訳でも齋藤訳でも注で指摘されている。そもそもこれだと、そこまで特殊な使い方ではないかもしれない。しかしほかの作品では、このような慣用句の意味が物語の効果に寄与しているように解釈できるものもある。以下で見てみよう。


「結末」で長く遊ぶために

 『残酷物語』を読む楽しみのひとつは、各編の結末を味わうことにある。そしてその「結末」はしばしば最後の一文に凝縮されており、それを読むと、たいていの場合はもう一度本文にもどって——最後の一文の解釈のもとに——読みかえしたくなる。齋藤磯雄の「解題」においても、作品ごとの解説のまえに、それが「再読の欲求を感じた読者のために書かれたもの」だと書かれていた。田上氏の「訳者解説」にも作品ごとの解説が掲載されているが、『残酷物語』の多くの作品に共通する特徴のひとつとして「意表を突く結末や最終行に最大のインパクトを与えるための構成の技術」を挙げる氏の訳書においては、この結末をより繊細に味わうことが可能になっている。

 「二人の占い師」を例にとって、さきほどの慣用句の問題についてもふれてみよう。「とりわけ、天才はあってはならぬ!」という近代の標語をエピグラフに置くこの作品は、物書き志望の若者と某紙の編集主幹の化かし合いのような会話から大部分がなっている。そのなかで編集主幹は、才能がないこと、知性がないことこそが筆で身を立てる条件であると熱弁をふるう。そして、知性があること自体よりもさらに最悪なのが「知性を隠そうとしているのが感じ取れること」で、読者が「魂、すなわち自分たちがこの世で最も憎んでいるものを嗅ぎつけた」場合にはその記事はもう読まれないのだと強調する。こうして「誠実さ、そして、とりわけ、無意識の香りをまとわせ」ることの重要性が語られ、そういう主幹自身は、自分がまったく書かない理由を「自分の後ろに、虚無しか望まない」からだと語る。若者が出て行ったあとの結末の場面で、主幹は瞑想にふけるが、語り手は「その重要な主題が何であるか察知することは不可能であろう」と述べる。その理由として挙げられるのが、この作品の最後の一文をなす« Le flambeau n'éclaire pas sa base. » という格言である。これは、齋藤訳では「燈台下暗し」となっていた。田上訳では、「松明は基壇を照らさない」という文字どおりの訳がなされ、そのあとの小さな括弧の中に「灯台下暗し」という日本語のことわざが示されている。「松明は基壇を照らさない」という表現は、一読すると「灯台下暗し」ときれいに対応するように思える。しかし、「灯台下暗し」は、身近にあるものはよく見えていないという意味であり、これでは、この話のオチとしてあまり意味がわからないのではないだろうか。結末を理解するには、まさに灯台下暗しではないが、耳慣れた慣用表現だからとよく考えずに読み飛ばしてしまわずに、この「松明は基壇を照らさない」という耳慣れない表現の違和感によって立ちどまる必要がある。「松明」にあたる« le flambeau » という語には、「知の導き手」という意味もある。主幹は、この部分でわざわざ強調されているが、「政治、文学、商業、選挙、工業、金融、および演劇に関する新聞の主幹」であり、社会のなかで知の導き手の役割を担っているといえる。しかし、その導き手は、自分の足元は照らさず、むしろまっくらな虚無を望む。そしてこれは、主幹の思索の内容をだれも窺い知ることができない理由として書かれている。つまり、若者との会話で問題になっていた、虚無であることの効用、むしろ意識をからっぽにした中空でなければ社会でなにかをなすことはできないという、この短編にこめられた逆説的な皮肉が、最後の格言に凝縮されているのである。そしてそれは、「灯台下暗し」の訳だけではなかなか伝わりにくいものではないだろうか。

 ほかに結末に長くとどまる誘いとしては、最初の短編「ビヤンフィラートルのお嬢様方」も印象的であった。結末の「照らしてくださいました!」という台詞について、田上氏は詳細な注を付している。まずこの台詞が、異本では「私は贖われました!Je suis rachetée !」であったことを紹介しながら、最終稿で採用されたこの「照らすéclairer」という動詞に「支払う」という意味があることもふれる。さらに« éclairer le tapis » という賭け事にまつわる表現も紹介しながら、これがこの作品のエピグラフであるゲーテの「光を!…」という言葉と皮肉に響き合っていることを指摘している。この短編においても、やはりこの最後の一文にその作品の核をなす論理が凝縮しており、しかもそれが冒頭のエピグラフと呼応することで、円環するドミノ倒しのように、テクスト全体へと光を投げかえすという非常にヴィリエ的な構造になっている。本格ミステリの叙述トリックにも似たこのようなヴィリエのテクストの仕掛けを、最初の一編を注とともに丁寧に読めばそれが通過儀礼として伝わるように構成された本書は、ヴィリエを「読む」ことへの誘いとして理想的といえる。しかもそれが、フランス語を知らない読者でもわかるようになされているのがすばらしい。


「詩の仕掛け」で書かれた小説として

 このような訳、そして注の特徴からわかるのは、本書がヴィリエの小説の独特の仕掛けを日本語に翻訳するという困難と正面から取り組んだものであるということである。それは、田上氏が本作を訳すことになったもともとの動機と関わるからかもしれない。それは、すでに何度かふれているように、ヴァレリーの「ヴィリエ・ド・リラダンについての講演」にあるとのことだが、訳者解説で引用されているこの講演の一節には、「[ヴィリエの文章においては]全体的な意図がパラグラフを支配し、それまで卑俗に思われた言葉を——新しい——未知の——光で照らし、他の言葉に衝突させて、光を発させるのです」(恒川邦夫訳)とある。これはさきほど結末についての部分でみたヴィリエ作品の典型的構造そのものである。そして同時に、このようにことばを配置するということ、語と語が互いに照射しあうことで意味が生成されるという——マラルメの有名な一節も思い起こさせる——この構成の仕方は、小説のことばの使い方というより、むしろ詩に固有のものといえるかもしれない。ヴィリエの小説は、むしろ詩を読むように読むことで真価を発揮する小説なのだ。これは散文詩ともまた違う。散文詩ではなく、詩の作法で書かれた小説というほうが適当だろう。物語としての「筋」がないということではなく、むしろその「筋」とことばが密接に結びついていることが重要である。

 この意味で、実は今回新訳で『残酷物語』を読みながら、フランスの作家でも同時代の作家でもないのだが、思い出した作家がいる。1967年にニューヨーク州に生まれたテッド・チャンというSF作家だ。この作家は、1990年のデビューから10年以上かけてようやく8つの短編が収録された最初の作品集を発表し、その後現在にいたっても、もう1冊短編集を出版しただけにとどまるという、SF作家でなくとも、そしてSF作家としては稀に見るレベルの寡作の作家である。ただしその数少ない作品のほとんどが二大SF大賞ともいえるヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞しており、寡作でも非常に存在感のある作家であることは言い添えておこう。SFを読む心づもりではじめてテッド・チャンを読んだとき、その作風に驚かされた。はじめに読んだのは第一短編集の冒頭に収録された「バビロンの塔」だが、これはボルヘスを思わせる短編である。ある鉱夫がバビロンの塔に昇っていくのだが、そのてっぺんにあるのは「天球」ということばからイメージするとおりの丸天井のいきどまりであり、空はかたい甲羅のようなものでできていることがわかる。そしてさらにのぼっていくために「天に穴をあける」ことが必要になる。「のぼるためには掘らなければならない」という逆説もさることながら、最終的にこの短編で神の御業が示される仕方が印象的である。くわしくは本編にゆずるが、円筒印章のモチーフを効果的に用いながら示されるこの短編の論理は、「隠されることによってその業が示される」というヴィリエ作品に通じるような力業的な逆説である。このほかにも、非常に高度なテクノロジーによって産業革命以前に回帰する「七十二文字」など、ヴィリエの作品に特徴的な論理と非常に近しいモチーフをもつ作品が多い。

 ただし、これらの作品は、さきほどヴィリエの作品に見たような、ことばの表面上の意味と慣用的な意味を行き来することで浮き彫りになる非常に繊細な——かつ、わかってしまえば非常に大胆な——皮肉の構造をもっているわけではないかもしれない。しかし、オイラーの等式をテーマにした「ゼロで割る」や、三次元以上の生物の文字と言語の考察にもなっている「あなたの人生の物語」は、それぞれ核になる論理と、語りの構造とが呼応しあうものになっている。とりわけ「あなたの人生の物語」は、三次元の文字をもっている場合にいかにわれわれとは時間感覚が異なるかを扱っているが、その時間感覚を、物語のある時点を軸に過去からその点にいたる線と未来からその点にいたる線とを同時に描き出すことによって、物語の構造自体に体現させているのが秀逸である。しかもそれによって、一見悲壮なものと思える決断が、単純な悲喜を超えた肯定的なものとして受容されうるという仕掛けになっている。そして理解したときに読者に「再読の欲求」を与えるという意味で、テッド・チャンの作品は、『残酷物語』につらなる作品として読みたいという欲求を惹起するものである。これは、テッド・チャンの短編に、いわゆるスチームパンクの世界観のものが多いためにヴィリエの空想科学小説的な作品と似通った印象を与えるからという外面的な理由だけではない——これはなにより、どちらの作品も、短編の咀嚼に長編並の時間がかかるということが告げている気がする。


おわりに——「いまこそ」の『残酷物語』

 ヴィリエ・ド・リラダンとテッド・チャン——少々突飛すぎる結びつけだったかもしれないが、なぜわざわざこの場でテッド・チャンについて書いたかというと、それが、「いまなぜヴィリエか」という問いにひとつの答えを与えてくれるように思えたからだ。フランス国立図書館の電子図書館であるGallica の開設以降、20世紀初頭までのマイナーな作品の研究がもりあがっているが、その流れはSFの源流研究にも波及している。2019年に国立図書館でおこなわれた« Le merveilleux-scientifique » という展覧会を企画したフルール・ホプキンスは、その新世代の代表選手だろう。展覧会と同じテーマを扱った彼女の博士論文の出版が待たれるところだが、この展覧会以降、ラジオなどでもフランスにおけるジュール・ヴェルヌ以外のSF前史についての話を聞く機会が多くなった。2022年2月末には、フランス・キュルチュールの番組で、フランス語圏でのSF史の特集がはじまった。ヴェルヌ作品が、非常に優れた科学技術の普及に貢献したとすれば、« Le merveilleux-scientifique »を打ち出したモーリス・ルナールは、科学について考えさせる経験をさせることを目指したという。テッド・チャンはまさにこの系譜の子孫に思えるが、ヴィリエはこの文脈では、カミーユ・フラマリオンとともに、« Le merveilleux-scientifique » の先駆者として語られることもある。ほかの作家が、現在ならSFと呼ばれるであろう作品を書きながら他ジャンルの作品も書いていたのに対して、この二人はある意味で「SF」専属だったとも考えられるからだ。さらには、この新訳によって日本語読者にもあざやかに提示されたヴィリエの小説の「詩性」は、「普及」ではなく「思考」を促すこの流れに合致するものでもある。もちろん、ヴィリエのテクストの提供する「層」の複雑怪奇ともいえる厚みを考えると、それをモーリス・ルナールやロニー兄らの作品と安易に近づけることはあやうい部分も大きい。しかし同時に、ヴィリエ作品を、居場所を決めて囲い込んでしまうのはもったいない。ヴィリエ作品が« Le merveilleux-scientifique » の文脈に置かれて見えてくる部分は、個人的には非常に興味深く感じられる。読みやすく、しかしヴィリエの小説が巧妙につくられた「詩」でもあることが翻訳でも味わえる田上訳の『残酷物語』は、齋藤磯雄訳を楽しんできた文学読みにも、SFの「ファンダム」をなす読者層にも楽しめる非常に貴重なものであり、まさに「いまこそ」というタイミングでヴィリエ・ド・リラダン・コレクションの劈頭を飾ったと言えるだろう。


『ヴァレリー研究』第10号より転載)


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