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ジャンセニスム 論争からみた歴史記述の可能性:書評 御園敬介『ジャンセニスム 生成する異端』(慶應大学出版会,2020)/ 野呂 康


 本書は2020年,第37回渋沢・クローデル賞奨励賞を受賞した作品である.まずは,フランス語圏に関した学術成果に対して与えられる,我が国で最も映えある賞の一つを受賞されたことにお祝い申し上げたい[1]

 実際,本書は本当に素晴らしい.読書中に思わず嘆息を漏らしたのも一度や二度ではなかった.著者の学識と調査能力が申し分ないばかりでなく,その「迫真の筆致」[2]は読者を魅了せずにおかない.本書全体として,世界的にも最先端の研究成果と議論を我が国の言葉で読めるというのは僥倖以外の何ものでもない.

 本書はまず17世紀のジャンセニスムに関する,最新の,かつ大胆な研究書である.著者は前著[3]に引き続き,「反ジャンセニスム」を起点として「ジャンセニスム」を把捉しようとする.「ジャンセニスム」の発生をとりあえず,その名称の由来となった当時のスペイン領フランドルの司教ジャンセニウスの遺著『アウグスティヌス』の刊行年(1640年)とすると(これは作業上の想定である),以後4世紀近く論争や研究が蓄積されてきた.前世紀半ばにジャンセニスム研究の泰斗ジャン・オルシバルが疑問を呈して以来,「ジャンセニスム」という語をめぐる定義の問題は隘路にはまり込むわけだが,著者は定義を諦めるどころか,ジャンセニストの敵である「反ジャンセニスト」の側から照射し,ジャンセニスムを炙り出そうとする.この発想の転換と方法自体はベルギーの教会史家セイッサンスに由来するとして,それを実際の歴史記述に適応し,「ジャンセニスム」についての一冊の書物にまとめた研究はこれまで存在しなかった.

 これだけでも十分に大胆なのであるが,さらに著者による「あとがき」を一読すれば,その大胆さは疑いようもない.曰く,「本書のジャンセニスムは,カトリック改革の一翼でも,アウグスティヌス主義の表明でも,道徳的厳格主義でも,ましてやジャンセニウスの思想そのものでもない.」(本書「あとがき」,p.333)裏を返せば,従来の概説書,研究書,事典の項目には,これらいずれかの定義がなされているということである.そのどれでもないと言い切るのであるから,これに勝る大胆さもなかろう.

 さらに今年刊行されたばかりだから最新のというのは自明なのだが,ここでは何も闇雲に新しさを強調したいわけではない.ジャンセニスムに関する従来の研究を網羅し消化しているという意味でも,第一に参照すべき最先端の学術的成果となっているからである.本書では,17世紀中葉から後半にかけてのジャンセニスムをめぐる主要な出来事が,かなりの割合で網羅・説明されている.確かにこれまでにも,同時期を対象とし類似したテーマを扱った,本書でも数多参照されている歴史家國府田武先生の一連の論考が存在した.しかし専門家に知識と議論を提供することを目的とした大学紀要を含む専門的な論文の数々と,一般の読者に差し出された書物とはその機能が異なる.唯そうは言っても,本書の議論は決して一般向けでもないし易しくもない.本書の功績に言及しつつ,幾つか例を挙げて説明しよう.

 まず本書では,従来のジャンセニスムの定義の中心をなす「恩寵と自由意志」について,論点の概要を示すにとどまらず,中世,主にトマス・アクィナスの神学の伝統の解説から始めて争点を明らかにしている.「恩寵」に関した神学書や事典の項目以外では,ジャンセニスムや17世紀の思想史の書物として,神学上の議論にまで踏み込んで説明している書は稀であり,その詳細なまとめは殊の外有益である.また,そのような定義と系譜を引きずる語と概念が17世紀の文脈でどのように理解され受容されていたのか,その同時代における受容を意識した記述も貴重である.イエズス会とドミニコ会による,この問題をめぐる16世紀後半の論争は,教皇クレメンス八世により開催された「恩寵の助力に関する会議」を経て一旦下火となるが,それが再燃する形でジャンセニスム論争に引き継がれた.本書ではこうした経緯を踏まえて,争点となる各会派の教理をトマスの教義に沿って説明する.この作業により,後にジャンセニスムの首領とみなされるアントワーヌ・アルノーの「トマス主義的な恩寵解釈」がよりよく理解ができるようになる.さらに,主に1650年代のジャンセニスム論争におけるイエズス会/ドミニコ会/ジャンセニストという鼎立の構図を理解するのに大いに役立つ.こうして,実体のないジャンセニスムに正統からの逸脱としての「ジャンセニスムの教理」を是が非でも見ようとする反ジャンセニストの主張=捏造が浮き彫りにされる(本書第一章).実際,トマスの解釈に基づく当時の党派間の構成とそれぞれの論理は,フランス語文学史上の聖典の一つであるパスカルの『プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)』を理解する前提条件をなしている点も付言しておこう.

1630年にパリで結成され,後に政治的に危険視されるようになる「聖体会」とジャンセニスム,そして両者を前にした王権,この三者の複雑な関係にメスを入れたのも,本書の功績の一つである(但し本書のこの部分は既出論文を組み込んでいる).長らく謎に包まれていた聖体会については,前世紀初頭のアリエによる研究以来かなり研究が進んでおり,日本語で読める文献も複数ある.しかし,聖体会の活動がジャンセニスム運動と時期的に重なることを明確に意識し,王権が異質な両者(一方は秘密結社,他方は形のない運動)を時に同一視し,ともに危険視したことを踏まえ,「政治」をよりどころに,それぞれの関係性にまで踏み込んで分析したのは,本書著者の独創に属する(本書第二章).

 ところで従来のジャンセニスム研究のほとんどが,「五命題の断罪」を中心に記述されていた.1649年にソルボンヌ(パリ大学神学部)にて,学部月例会議の議長であったニコラ・コルネが七つの命題を問題視した議題を提出した.後に二つ削られ五命題問題として,ジャンセニスム断罪の発端となる事件である.この五命題は異端か,ジャンセニウスの遺著『アウグスティヌス』にこれらの命題が含まれているのか,五命題を著者ジャンセニウスの教えとみなせるのか,これら諸点をめぐり熾烈な論争が展開される.1653年,教皇の大勅書「クム・オカジオーネ」が発布され,五命題自体は異端思想として断罪される.これを受けジャンセニストは,五命題自体の異端は認めるが,それがジャンセニウスの著書に含まれるかどうか明示されていないし,そもそも大勅書はジャンセニウスを対象としていないと,議論の方向性を変えた.ここで提出されたのが有名な「権利問題」(法問題とも訳せる),すなわち教皇には異端を裁く権利があるということ,そして「事実問題」,実際に五命題が『アウグスティヌス』に含まれているのかどうか知ること,以上の区分である.この操作により,反ジャンセニストとジャンセニストの対立はさらに長引くことになった.王権と反ジャンセニストは,聖職者会議(と臨時の「高位聖職者会議」)を利用して,ジャンセニスムを撲滅するために,まずはそれに実体を与えジャンセニストを炙り出そうとする.具体的には,フランスでの大勅書の受け入れに際して「信仰宣誓書」と呼ばれる踏み絵を設定し,決定に服さない反乱分子をジャンセニストとして処罰しようとしたわけである.追い討ちをかけるように反ジャンセニストは教皇から小勅書「エクス・リテリス」を引き出し,三度にわたり「信仰宣誓書」を改訂して署名を迫る.この間王権と反ジャンセニストは,水面下で教権(教皇庁)と折衝を続けている.

 この経緯に関しては日本語版『メナール版 パスカル全集』(白水社,未完)や,塩川徹也先生の『パスカル考』所収の諸論考でも説明がなされている.にもかかわらず,特に聖職者会議の『審議報告』の読解については,本書著者の独壇場の様相を呈している.1662年の「信仰宣誓書」の最終版に至るまで,その作成過程を追い,緻密な文言の分析を通じて細部の意義まで明るみに出したのは,紛れもなく著者の功績である.実際この箇所の分析は他の追随を許さず,世界的にも最先端レベルの成果であり,本書の白眉とも言えよう.その微に入り細を穿った分析と整理は読む者の知的興奮を呼び覚まさずにはおかない(本書第三,四章).とはいうものの,一般の読者,あるいは専門家であったとしても,この時期の王権,教権,そしてミクロな政治政策に関心の薄い向きには,理解を拒むような詳細さではあるのだが.

 さらにもう一つ,本書の独創と功績に触れておこう.上記「信仰宣誓書」は,王権がジャンセニスムに実体を与えるための踏み絵であった.合意の印である「署名」をするかしないかが,その指標とされた.署名は聖職者のみならず,修道女や教師にまで強制される.宣誓書の詳しい内容については本書をみていただくとして,問題を突き詰めれば,五命題がジャンセニウスの『アウグスティヌス』に含まれていると仮定して,それを認めるかどうかということに尽きる.パスカルら「ジャンセニスト」は『プロヴァンシアル』の中で,当然否定の立場から,そんなに大部ではないから簡単に確認できると書いてはいるが,当該書は当時の学術言語であるラテン語で書かれた,かなり浩瀚な神学書である.実際に読みかつ判断できた神学者,聖職者は限られていたはずである.つまり大方の人は読んでもいないのに,五命題が「ジャンセニウスの教理」であることを認め,「心でも口でも拒絶」するよう求められたわけである.ここで否定派,そして読んでいない者の間で良心の葛藤が生じるのは想像に難くない(本書第五章).これに対しアルノーは,「神的信」と「人間的信」の区別をたて,一貫して署名強制に抵抗する.本書の著者はこの署名強制の過程に「信の観念史」を読み込んだ.この「信」をめぐるテーマについては,すでに塩川徹也先生が『虹と秘蹟』の第三部で先鞭をつけておられるが,著者はこれを反ジャンセニストとジャンセニストによる論争史の文脈に置き直し,聖体論争を含む複数の論争の過程で「信じること」が単に教義を信じる(受け入れる)ことから,信をめぐる確実な認識の原理の探究へと変化した,あるいは理論上の洗練がなされた点に着目した.つまり,神と教会を背景とした無条件の権威への信仰から個人が持つ信の根拠へ,議論の変遷に伴い信仰分析が認識論へ,さらには17世期末の寛容論へと流れ込むという,観念の歴史を見事に浮き彫りにした.この精緻な作業により,信をめぐる観念史あるいは近世ヨーロッパの思想史への,ジャンセニスム論争の大きな寄与が明らかとなった(本書第六章).

 かように幾つかの論点を抜粋するだけでも,本書の賞賛すべき功績とその大胆さを理解していただけるだろう.確かに「[ジャンセニスム]運動がより政治化した18世紀」の記述は,ベールやフェヌロンといった数人の思想の断片を除くとほとんどないし,「ポール=ロワイヤルの扱いが手薄」であるのも選評にあるとおりであるが[4],歴史記述の実践が選択とその物語化(プロット化)にあるとするなら[5],全てを網羅する(かもしれない)クロニクルから一歩踏み出す際の,テーマや主題,題材や記述すべき事象の取捨選択は当然であろう.著者の関心がそもそも17世紀のジャンセニスム,そして反ジャンセニストとジャンセニストの対立にある以上,18世紀のジャンセニスムや修道実践の場としてのポール=ロワイヤルが考察の対象外とされても,それほどの瑕疵とはならないと筆者は考えている.

***

 さて,本書の論理を咀嚼し,その独創的な仕事と学への貢献を認めた上で,それでも筆者は二,三の点で物足りなさを感じている.以下,書評という枠組みからはやや逸れるが,簡単に私見を述べておきたい.

一)文芸者の形象

 ジャンセニスムに思想の独自性を求め,固有の教義やその構成員を記述することに腐心してきた伝統的なジャンセニスム研究に対して,本書ではその実体どころか構成員も明確には定め難いジャンセニスム運動が反ジャンセニストにより「異端」として囲い込まれ実体が与えられてゆく過程が描かれている.繰り返しになるが,その方法論の発想はベルギーの教会史家セイッサンスに淵源が求められるにしても,論争や信仰宣誓書に着目し,反ジャンセニスム経由でジャンセニスムを分析したのは限りなく著者の独創に近い.本書がジャンセニスム研究に一石を投じたことは強調してもしすぎることはない.唯筆者が気になるのは,その時脚光を浴びるのが反ジャンセニストの「密使」と呼ばれるレオナール・ド・マランデである点である.この人物の「活動の解明」について,渋沢・クローデル賞の選評では「独創的成果」とされている.本論ではこの点に若干の留保をつけておきたい.

 まず本書においてマランデの活動については,著者自身十分に意識して,かなり限定的な記述となっている.それはある意味当然で,著者の前著がすでにこの人物に関するモノグラフィーであったためである.つまり,マランデの思想と著作,活動については既に前著で詳述されているため[6],少なくとも(前著ではなく)本書においては,反ジャンセニスム運動,あるいはジャンセニスム運動の中でのマランデの役割こそが記述対象とされているのである.それならば,反ジャンセニストとしてのマランデという人物は,当時どの程度重要視されていたのか.

 ジャンセニスム論争の中でのマランデの重要性を測るために,当時におけるこの人物の位置,そして当時の文芸者の進出という現象,この2点について考えてみたい.

 まず,著者の前著に触れていない読者のために,レオナール・ド・マランデという人物について簡単に紹介する.この人物の生没年は不明であり,1600年頃に生まれ,1670年代後半に没したとされる.多産な作家で,処女作『人間の行為を裁く』(1624年)ではモンテーニュ風の懐疑論を展開し,『キリスト教哲学者』(1639年)では護教論者として健筆をふるい,『フランスの神学者』(1641-43年)では諸学の通俗化を試みる.その後1650年代は本書で詳述されているように,反ジャンセニストとして活動し,またトマスに関する著作などを出版している.一見してわかるように,扱う主題やジャンルに一貫性がないため,フランス文学史でいうところの,複数の主題について執筆する「ポリグラフ」の典型ともいえる作家である.だからというのではないが,本書で焦点の当てられた,この人物による反ジャンセニスムとしての神学領域での活動,そして彼が出版した著作の影響力について,その扱いと解釈には注意を要する.

 本書において,反ジャンセニスムの論者として焦点を当てられているのは主にこの人物である.しかしこの人物が,当時の神学者,特にジャンセニスム側の論争家からは無視されていたという事実は知っておいてよい.この点,前著においても本書でも,著者自身が確認している.例えば,本書では「ポール=ロワイヤルがマランデを神学の素人と見なし,論争を利用して社会的栄達を望む野心的な作家として痛烈に批判していた」(p.198)とされている[7].アルノーやララーヌといったソルボンヌに所属する神学者は,この人物の著作と主張を端から相手にしなかった.おそらく反ジャンセニスト陣営でも,こうした見方は共有されていた.理論上はマランデの味方である反ジャンセニスト論者にしても,ジャンセニスムを攻撃するに際して,この人物による著作を公式に引用したり,理論として採用した人物は限られていたように思われる[8].用語や概念が洗練され,学問として高度に制度化されていた当時の神学論争では,この人物はまったくの「素人」として軽蔑されていた.当時の論争を理解し歴史に位置づけようとするとき,この事実は存外に重い.それは現代の視点から,この人物の射程や先見性を再評価するのとはまったく異なる作業とならざるを得ないからである.つまり当時の論争文脈の復元を試みる上で,この人物が反ジャンセニスムの一翼を担った事実は否定できないにせよ,この人物を反ジャンセニスムの代表とみなすのは躊躇されるところである.

 アルノーやララーヌが専門機関で専門教育を受けた神学者であるとすれば,反ジャンセニスト側にも当然,同じ意味で正当な出自の神学者,論争家がいた.著者自身,「イエズス会士パントローの『ジャンセニスムの誕生』(1654年)及び『ジャンセニスムの発展』(1655年),1650年代に三版を重ねたドシャンの『ジャンセニスムの秘密』」(p.38)を列挙している.さらには,主に『アウグスティヌス』やアルノーの『頻繁なる聖体拝領について』(1643年)に対して,かなりの量の神学書を執筆したイエズス会士ドニ・ペトー[9],ソルボンヌの神学博士フランソワ・ヴェロン[10]など,両陣営合わせた専門家のリストを作成すれば,それなりの長さになるはずである.本書の核となる反ジャンセニスム運動,そしてそのジャンセニスムとの関係に焦点を合わせるのなら,ここであらかじめ「素人神学者」の刻印を押され,論争で重要視されない人物のテクストと動向に,反ジャンセニスムの主流をみるにはやや無理がある.今日から俯瞰した思想史上の重要性と,当時の文脈の復元を目指す歴史記述の実践の違いに留意する必要があろう.

 但し,以上のような理由からマランデという人物の重要性が否定されるわけではない.たとえ当時の神学論争の文脈からは排除される人物であるとしても,むしろ神学の素人であったがゆえに注目に値する理由が存在する.それは当時の文芸者の進出という現象である.

 初期のジャンセニスム論争,すなわち『アウグスティヌス』の刊行された1640年代から1650年代初頭にかけての後半の時期は,フロンドの時期にほぼ重なる.フロンドとはルイ十四世の幼少期に生じた,いわば内戦を指す.1648年4月以降,財政危機に瀕した政府による政策に対して,パリ高等法院を含む最高諸院が結託し,王国改革のための施策を提案する.その後王権がパリ高等法院評定官ブルセルを逮捕したことから,パリで蜂起が起こる.フロンドの嚆矢に位置づけられる出来事である.王権と最高諸院の対立が解消されてからは,紆余曲折を経て,フロンドはマザラン,血統親王であるコンデ,その弟コンチ,王弟オルレアン公,ロングヴィルら大貴族,そしてパリ大司教補レ枢機卿などの覇権争いとなる.最終的に1653年,ボルドーが王軍に降伏し,主導者であったコンデ親王が亡命したことで内戦は終結する.

 しかしフロンドは,単なる政治事件ではなかった.20世紀後半のユベール・キャリエとクリスチアン・ジュオーの研究を通じて,フロンドが文芸者を巻き込んだ筆の戦争でもあったことが,今ではよく知られている.1648年から1653年のわずか6年の間に,王権を含む複数の党派の間で大小合わせて5000種類以上もの文書が飛び交い,論戦が繰り広げられた.これが後にマザリナードと名付けられた文書群である.詳細は別に参照を促すとして[11],この時期,専門性を前提としない,物書きとしての文芸者が大量に社会進出を果たす.作家はマザリナードにその好機をみた.当時において著作権は未だ存在していない.したがって文芸者には収入の保証がなく,一部の例外を除けば,筆のみで生計を立てるのは実質不可能であった.そこで文芸者はパトロンとなる大貴族のもとに身を寄せ,その指示に従い執筆活動を展開した.これを「保護−被保護関係〔クリアンテリスム〕」という.事情はやや異なるとはいえ,神学のような専門分野でさえ個人が自由に執筆していたというよりは,何らかの後ろ盾があったはずとまずは想定してみる必要がある.神学の論争書が何らかの党派や聖職者会議,パリ大学など,それぞれの社団の公式見解とは全くいえないにしても[12]

 以上のような当時の文芸者が置かれた状況を踏まえた上で,マランデという事例が興味深いのは,次の点からである.すなわち,専門教育を受けず専門家として認知もされていない文芸者が,神学論争においてアルノーやララーヌと対等に渡り合えるものと[自己]表象し論争に参戦してきたこと,そして執筆の条件であったはずのパトロンの存在が知られていないこと,この2点である.もちろん非専門家としての文芸者の進出は反ジャンセニスム側に限らない.本書で「ジャンセニウス擁護派の神学者」(本書p.282-283,下線は引用者による)として扱われているアマーブル・ブルゼイスという人物はジャンセニスト側の論客である.この人物は五命題問題に際して矢継ぎ早に3本の論考をフランス語で出版し,その後もジャンセニスム側から幾つかの浩瀚な,それも現代から見れば専門のと形容しうる書を出版している[13].しかしこの人物もマランデと同様に,神学の専門教育は受けておらず,神学者の肩書きとなるような機関にも所属していないポリグラフである.但し,この人物の方は自陣営のアルノーやララーヌ,そして一時は反ジャンセニストからも「ジャンセニスムの太祖」と形容され認知されていた[14].この評価の違いが,どのような事情に由来するかはわからない.しかし,門外漢の文芸者(ポリグラフ)が神学論争に進出してきたという事実は確認できる.さらにいえば,ブルゼイスには保護者がいた.この人物の場合,時期によりパトロンを変えていた形跡がある.ここに「保護−被保護関係」の相対的な自由度が窺えよう.こうした文脈に照らしてみる時,マランデという形象は反ジャンセニスムの主要な論客としてよりも,その文芸者としてのキャリアがいかにも興味深く,また,反ジャンセニスムにおけるクリアンテリズムの可能性を垣間見せる格好の事例であると考えられる.これについては後述する.

 非神学者にしてポリグラフ.さらにもう一人,この時期のジャンセニスム論争に関与したことで知られる文芸者がいる.文学史上燦然と煌く作家ブレーズ・パスカルである.神学の教育を受けず,一時期は研究者の間でその素養さえ疑われていたこの人物は,ジャンセニスム側が繰り出した論争書の中でも最大のヒット作となった『プロヴァンシアル』の執筆に携わった.実際にはアルノーやニコルとの共作ではあるものの,パスカルが協力したこの論争書を,その著者の素性や神学の素養に疑問を呈しつつも,反ジャンセニストの論客たちは無視できなかった.

 本書に戻ろう.1650年代にマランデが論争書を量産しながら,特にジャンセニストの論争家からは一顧だにされなかった事実,それでもこの人物が怯むことなく執筆を継続できた経済的社会的条件,さらにマランデによる小勅書「エクス・リテリス」の翻訳が聖職者会議で採用された可能性(しかしこれはあくまで仮説にとどまる.本書p.101-106),以上のような事実を通してこの人物による執筆行為を捉え直すなら,反ジャンセニストによる(あるいは当時における)文芸者の利用の一側面が明らかにできるだろう.マザリナードがそうであったように,ジャンセニスム論争は文芸者に執筆と社会進出の機会を提供した.マランデ,ブルゼイス,そしておそらくはパスカルも,この好機を利用できた一流の文芸者であったのだ.

 マランデと呼ばれる文芸者の形象,その機能と役割の記述は,反ジャンセニスム運動の注意深い観察から抽出できた,著者による貴重な学術的成果である.それでも,マランデを中心に反ジャンセニスム全体を記述しようとすれば,表面上は明らかに主流をなす,当時の神学論争との関わりがぼやけてしまい,一定の偏りは避けられない.これが筆者の感じている違和感の一つである.

二)1640年代のジャンセニスム論争

 さて本書における特筆すべき個々の論点に関してはすでに本稿前半で記した.対して,やや粗雑ながら全体を要約するなら,本書は1)ジャンセニスムを実体として捉えないよう,反ジャンセニスムからジャンセニスムを照射すること,2)信をめぐる考察から,ジャンセニスムがより広く西洋近代における信の観念史に合流すること,それゆえ「ジャンセニスム」が今現在でも検討に値するテーマであること,以上のようにまとめられよう.1)の方法にまつわる問題点については,反ジャンセニスム運動におけるマランデの位置と役割に触れながら指摘したので,ここでは2)に関連した疑問に触れておきたい.

 まず,ジャンセニスム研究の意義の一つとして「信」をめぐるテーマが浮上してきたことについて,著者の説明には間然するところがない.1650〜1660年代の反ジャンセニストとジャンセニストの攻防から,大小の勅書,信仰宣誓書というテクストが生みだされ,それらが改訂される過程で,次第にジャンセニスムに輪郭が与えられ,殲滅すべき対象として実体化される.論争の進行に伴い両陣営から繰り出されるテクストにおいて信をめぐる考察が洗練され,最終的に,信じることの制度性と個人が何を信じるべきかという良心の問題,そして寛容論にまで合流する.見取り図は明瞭で,本研究によって,ジャンセニスムの果たした役割が「信の観念史」に見事に位置づけられたといえるだろう.

 だが,ここで少し立ち止まろう.本書ではジャンセニスム研究の存在意義と,「信の観念史」に占めるその意義については十分に説明されている.だが,「信」のテーマ自体はジャンセニスムの歴史における一コマにすぎないのではないだろうか.

 ところで現代の歴史家ヘイドン・ホワイトは歴史の「語り」について,次のように指摘している.

歴史的ナラティヴというのは言葉からなるフィクションなのであって,それらの内容は見いだされるのと同じ程度につくりだされるのであり,それらの形式は科学における対応物とよりも文学における対応物と共通するものを多くもっているのである[15]

 ホワイトにとって歴史とはまずもって記述であり語りである.要するにそれは「言葉からなるフィクション」であって,歴史家が研究対象について語る時,その研究対象がさも現実にそうであったかのように記述する.もちろん,悪意があるのでなければ,それは歴史家の信じた真実であり,歴史家はそれを見いだしたと信じているはずだ.しかしホワイトの断言によれば,歴史とはあくまでつくりだされるのであり,文学的製作物と「共通するものを多くもっている」.つまり歴史家がどのテーマに着目し,どの要素を使用して歴史を記述するかによって,歴史の物語はその意味も様相も変化する.

 さて,ここでホワイトを想い出したのは,歴史記述が歴史家の関心と筆により変化せざるを得ず,それにより現実も不断に姿を変えてしまうという,不安な事実に思いを馳せているからである.反ジャンセニスムからジャンセニスムへと視点を転じた際に,その焦点となるのが論争という事象であるのは言うまでもない.論争を通じた批判と差異化がなければ,-ismeの境界自体が発生しないからである.ジャンセニスムを外部から眺めた場合,人はジャンセニスムなるもの,あるいはジャンセニストと呼ばれることになる人々に,自分とは異なるもの,これまでとは異なる現象を感じとり,何らかの違和感を覚えた.そうでなければ迫害や排除の対象にはなり得ない.対象が明瞭でないからこそ,反ジャンセニストは炙り出しと実体化の作業に勤しんだわけである.本書では大小勅書や信仰宣誓書に囲い込みの過程と時期を示す,証言としての価値を見いだしたわけだが,ふと立ち止まってみれば,他の資料,他の事象からもジャンセニスムがつくりだされるのではないだろうか.このような周りくどい言い方をするのは,本書の特徴である反ジャンセニスムからジャンセニスムへという方法論の射程を考えば,その中核であるはずの,ジャンセニストの弁別に特別の効力を発揮した論争文書への言及が限定的であるためである.

 人がジャンセニスムに違和感を感じたり敵愾心を抱いたのなら,そのジャンセニスムはどのような媒体を通じて,そのように感じられたのだろうか.告解や説教など複数の経路が考えられるが,17世紀中葉,それも極めて高い専門性に鑑みて,文書に表明手段を見るのは自然であろう.そもそもジャンセニスムの端緒は『アウグスティヌス』という論争書であった.念のため,ジャンセニウスの著書そのものが,他の説への批判を念頭においた論争の書であったかどうかは議論の分かれるところである.しかしその本をルーヴァンで出版すること,そしてその翌年にフランスで再版することは論敵を想定した明白な攻撃であり,論争行為であった[16].結果として事後的に,『アウグスティヌス』は論争書であると言える.この出版に攻撃をみた敵方(後の反ジャンセニスト)は警戒を深める.未だ「ジャンセニスム,ジャンセニスト」の呼称が生み出される前の話である.パリでは説教台上で批判と中傷が繰り出され,それに反論すべく,本書においてジャンセニスムの理論的支柱として扱われるアントワヌ・アルノーが大部の処女作『頻繁なる聖体拝領について』(1643年)を出版する.これは成立の経緯からして,紛れもなく論争書である.アルノーの書は出版年とその翌年に限定しても,両陣営合わせて優に40を超える論争書を誘発した.ここに最初の,特筆すべきジャンセニスム論争が口火を切る.

 論争はその特徴として複数の参戦者を巻き込む.またその論理,論点も常に揺らぎを含み,ズレを生じながら増幅される[17].一つの主題や一つの論点がストレートにやり取りされることはない.ここにこそ,論争の[歴史]記述の困難が存する.『アウグスティヌス』,そして後の歴史家が「サン−シランのポール=ロワイヤルの最初のマニフェスト」と呼んだアルノーの『頻繁なる・・・』をめぐる論争も,もちろん例外ではない.前者が『アウグスティヌス』という書,アウグスティヌスの教えとその解釈,著者であるジャンセニウス,この書に関連して出された教皇勅書「イン・エミネンチ」,その勅書の真偽等々・・・を論争の主題として提供したとするなら,後者の『頻繁なる・・・』はさらに多くの逸脱と暴力を生み出すことになる.論争はその展開に伴い,題名にある聖体拝領の教義から,アルノーを含む「サン−シラン一派」(« partisans de Saint-Cyran »)への攻撃を経て,『アウグスティヌス』への批判に舞い戻り,アルノーの書の序文で展開された「教会の二首長説」へ移り,故サン−シランの人格攻撃にまで発展する.多彩な論点を生み出しつつ,論争は常に横滑りする.

 本書に戻ろう.上は論争の一例にすぎない.しかし,ジャンセニスム論争の極めて重要な一コマであることは論をまたない.確かに「ジャンセニスム論争」から数多ある主題の一つとして信をめぐる認識論を取り出すことはできるだろう.だが,信の主題にジャンセニスム論争を還元すれば,必然的にその歴史記述には制約が内包されるよう,構造化されてしまう.

 本書では『アウグスティヌス』や「恩寵と自由意志」をめぐる理論的争点への目配せはあり,その行き届いた分析については既に本稿前半で触れた.だが,信仰宣誓書問題に直接つながる五命題問題と1650年代以降のジャンセニスムを中心に記述を構造化した結果,「ジャンセニスム,ジャンセニスト」という呼称が誕生し,大方の歴史家がジャンセニスムの嚆矢と位置づける,1640年代の反ジャンセニスム−ジャンセニスム論争の記述は希薄になってしまった.もちろんこれは,歴史記述上の選択と要請であり,欠落自体は非難に値しない.しかし,「ジャンセニスム」とその「生成」に焦点を当てるなら,ジャンセニスム発生の契機となった最初期の論争への言及があまりにも少ないのではないだろうか.1640年代の論争こそがこの語を生み出したのだし,五命題告発(1649年)に至るまでのほぼ10年の期間を通じて,敵方が想像した「ジャンセニスム」という思想と語を生成,定着させていったのだから.

三)論争記述の作法〔プロトコル〕

 論争の歴史記述をする際には,主題の増殖と逸脱の他,その社会的側面にも注意する必要がある.本稿において,17世紀の作家の事情については,すでに説明をした.つまり作品収入がないか,極めて乏しい作家の出版には,個人の虚栄心には還元し尽くせない執筆動機を想定せねばならない.とはいえ,そこに関係するのは,作家とその保護者だけではない.彼らの所属する組織と,その内外の力関係に注目することも有効であろう.

 伝統的なジャンセニスム研究は,パスカルやアルノーといった作家個人だけではなく,彼らの所属にも配慮してきた.ジャンセニスムの作家と呼ばれる人々としては,神学者=論争家(アルノー,ララーヌ,エルマンなど),「小さな学校」の教師(ニコル,ランスロなど),修道女(アニェス,アンジェリクなど)などが考えられるが,その他に「ポール=ロワイヤルの隠士」(« solitaires du Port-Royal »)と呼ばれた,修道院外で共同生活を行なった人々(アルノー・ダンディイ,パスカルなど)もいる.これらの人々がポール=ロワイヤルの二つの修道院(パリと「デ・シャン」(« Port-Royal des champs »))に直接・間接に関わっていたため,二つの修道院は「ジャンセニスムの牙城」として,これまでにも主要な研究対象とされてきた.本書において,作家の所属機関としてのポール=ロワイヤルへの言及が希薄なのは,「方法論の代償」として意図的な選択である(本書「あとがき」).但し,反ジャンセニスム−ジャンセニスムという対立の図式の上では,ポール=ロワイヤルは紛れもなくジャンセニスム側に分類される.反対にイエズス会はほぼ反ジャンセニスムの牙城と考えて差し支えない.「新トマス主義者」を体現するドミニコ会士は,『プロヴァンシアル』の時期には両者の間に位置して独自の立場を形成しており,両陣営の争奪戦の対象となっていた(本書第一章,特に注10).

 修道会ならば,会として統一見解を有していたかもしれない.時期を限定しさえすれば,ほぼ両陣営のどちらかに分類できるだろう.王権,教権ともにそれぞれの内部では意見の不一致が見られるとして,ジャンセニスム論争を通して王権はほぼ反ジャンセニスム側,教権はフランス王権に近い立場をとる.それでは聖職者会議はどうか.あるいはソルボンヌ(パリ大学神学部)はどうか.この二団体については,やや注意が必要である.本書でも触れられているように,聖職者会議,あるいは高位聖職者会議を構成する司教の中にはアルノーらを擁護する者もいた.アルノーが所属していたソルボンヌでは両陣営の勢力関係は時期により変化する.これを例に,所属団体内部での勢力関係について見ておきたい.

 ところで論争は一般に,結果をどのようにみるかによって勝敗の見方が変わる.論争は必ず平行線を辿る.論争を主題や作家間の対立として見る限り,勝敗の決着がつくのは稀である.流行の衰退,作者の死,出版の条件などを要因として,論争は概ね決着のつかないまま放り出されてしまう.また裁定を行うのは当事者ではなく,何らかの権威を有する機関か,後世の歴史家に他ならない.論争で展開される論理や見た目の正しさよりも,権威を行使し決定を認めさせる裁定機関との関係が勝敗を定めることが多い.注意せねばならないのは,歴史家が一方を正しいと判断した瞬間,その歴史家は論争に参戦すると同時に,裁定機関の役割を演ずることになってしまう点である.

 以上の論争の性質を踏まえた上で,ジャンセニスム論争と聖職者会議,ソルボンヌの関係に戻ろう.概して,ジャンセニスム論争においてジャンセニスト側の完全勝利と言えるのは,1643年のアルノーによる『頻繁なる・・・』をめぐる論争だけであろう.この論争だけは,例外的に可視的な形で決着がついた.アルノーの書を口頭の説教で批判したイエズス会士ヌエ神父が聖職者会議で謝罪を求められ,この人物を断罪した文が回状として全国に送付されたからである[18].とはいえ,『頻繁なる・・・』の論争が,アルノーの主張の勝利であるとは言い難い.だがともかくも,この勝利から,少なくとも論争終結時の神学部や聖職者会議は,アルノーの味方,すなわち後の「ジャンセニスト」が多数派を占めていたことが推測できる.ところが,十数年後の1656年,やはりソルボンヌにおいてアルノーの譴責処分が決定した時には,勢力関係が逆転していた.譴責賛成派が過半数を占めたため,アルノーはソルボンヌ除籍の憂き目に遭う.さらにこの時期の王権の手先と化した聖職者会議(臨時)の構成については,本書をみられたい.

 社団国家と言われるアンシアン・レジーム期のフランスにおいて,団体の性質と構成を考える上で,ジャンセニスム論争は一事例を提供している.すなわち,どの団体,社団も決して一枚岩ではない.かように,ある程度時期を限定しなければ,所属団体内部での力関係を測ることができないのである.

 ジャンセニスムをさらに別の社団との関係から眺めることもできる.次に論争を文書化する書籍商・印刷業者の役割をみてみよう.

 マランデに対するジャンセニストの無関心と,反ジャンセニストの無反応については既に触れた.それゆえに,1656年に小勅書のマランデ訳が聖職者会議で採用された可能性があるというのは興味深い.公的機関による剽窃とも言える事態であるが,論争裁定の権威を有する聖職者会議と一文芸者の間に,明確なつながりはほぼ見当たらない.しかし両者を結ぶ線がもう一つある.

 まず,1640年代後半から1650年代のマランデの出版物を並べ,眺めてみよう.

『聖トマス「大全」の鍵または解説』(1649年,書肆ソリ)

『教会の遺産』(1652年,寡婦ビュオン[19]

『著名なジャンセニストによる,公衆を面前にした悔悛』(1653年,クラモワジ)

『ジャンセニスムの問題点』(1653年,クラモワジ)

『ジャンセニスムの政治問題』(1654年,クラモワジ)

『ジャンセニスムの起源と原因』(1654年,クラモワジ)

『インノケンティウス十世の最新の教皇令の正確な翻訳』(1655年,クラモワジ)

1660年初頭までにさらに4冊あり,その全てがクラモワジから出版されているが,その後は書籍商・印刷業者を変えている.これら一連の反ジャンセニスムの出版物から何が見えてくるだろうか.まずソリは『アウグスティヌス』を共同出版した業者であったが,それは1640年のことであり,また『聖トマス「大全」の鍵または解説』は反ジャンセニスムの色彩には乏しい.1630〜43年の出版業界再編をめぐる騒動,そしてフロンド期の業界の混乱には立ち入らず,ジャンセニスム論争との関係を念頭にリストを読み解くなら,ソリの次に出版を引き受けた寡婦ビュオンは,義理の息子ソンニウスと同様に,1650年代に反ジャンセニストの書を多く出版している書籍商である.そしてクラモワジ.クラモワジはヴィトレ(後述)と並んで当時最大手の出版業者であり,ジャンセニストの対抗勢力であるイエズス会の出版物を一手に引き受け,さらに反ジャンセニストの出版も手掛けている[20].反ジャンセニスト−ジャンセニストの対立に,書籍商の対立の構図を重ね合わせて,より網羅的なリストを作成することもできるだろう.唯ここで,マランデの出版を支える書籍商を列挙しただけでも,この作家の位置が透けてみえる.知識人の論争家としては受け入れられなかったマランデであるが,ジャンセニスム論争の期間,それもほぼこの期間に限り,反ジャンセニストの出版を支えていたクラモワジから立て続けに著書を上梓している.そして1660年代に入り,論争の終結とともにマランデは反ジャンセニストとしての執筆をやめ,同時にクラモワジからも離れる.一人の作家において,その論争上の立場と書籍商の関係性が,これほど明瞭に表れている事例は稀というほかない.

 表面上は作家間の対立のようにみえる論争も,その実,媒体としての論争書を出版する書籍商に支えられている.また本稿では触れないが,書籍商間の対立と勢力関係も論争と無関係ではない.聖職者会議が[神学論争を扱う]一般書に対して,どの程度の重要性を見出していたかは定かではないが,論争の文脈でいえば,クラモワジからの出版物が無視されるようなことはなかったはずである.

 最後にもう一度,1640年代のジャンセニスム側の勝利に戻るなら,アルノーによる『頻繁なる・・・』を印刷したのはアントワヌ・ヴィトレという書籍商であった.当時ヴィトレは聖職者会議,神学部,さらには[後の]ジャンセニスト側の出版をほぼ排他的に請け負っていた.つまり,「王の書籍商」,「聖職者会議公認書籍商」の肩書を持つヴィトレが発行した文書であれば,自ずからある種の公式の装いを呈したであろうことは想像に難くない.このような事情を考慮するなら,アルノーの勝利宣言を意味するイエズス会士ヌエ神父の謝罪文を印刷したのがやはりヴィトレであったという事実は興味深い.果たしてそれが書籍商による通常業務の一環であったのか.ソルボンヌや聖職者会議で主流を占めていたと推測される,[後の]ジャンセニストとの関係をそこに透かしてみることはできないだろうか.

 ジャンセニスムと書籍商・印刷業者という社団の関係は,論争の「網の目」を構成する.論争記述が,個人や作家の対立に還元されない網の目の再構成に成功すれば,当該社会が別の様相を帯びて立ち現れてくるだろう.筆者はそんな記述の可能性を夢見ている.

四)ジャンセニスム 記述の伝統

 最後にジャンセニスムの歴史記述の伝統について,素朴な疑問を呈して本稿を締め括りたい.

 御園氏による,この重厚な書を紐解いた読者は,ジャンセニスムが異端として生成されてゆく様子,あるいは生成した結果,「囲い込まれ」たジャンセニスムが異端として立ち現われる様子を,数々の貴重な資料と精緻な分析で理解したであろう.筆者は著者がこれまで発表した論考のほとんどに目を通しているが,それでも二度,三度と本書を読み直し,驚きと発見の連続に知的興奮を覚えた.にもかかわらず,一つの疑問が頭をよぎる.一体どれほどの人が読後に「ジャンセニスム」とは〜であるという,読書のカタルシスともいうべき理解と解釈にたどり着いたであろうか.

 一方で著者は,ジャン・オルシバル以来の「ジャンセニスム」の「定義不可能性」に言及している.他方で,「実体はどうあれ,ジャンセニスムが歴史的事象として,たしかに存在したこと」ともいう.そして「架空の異端としてこの言葉を放棄する代わりに,当時のフランス人がその存在を信じた『ジャンセニスム』とは何であったのかを問うことで,歴史を再考する余地があるのではないか」と自問している(本書「あとがき」, p.332-333).要するに,ジャンセニスムとは何かという問いを,「当時」の人々が「その存在を信じた『ジャンセニスム』」とは何かという問いに置き換えているわけだが,それでは「当時」,ジャンセニスムはどのように理解されていたのか.この点が筆者には霧に包まれたままなのだ.精緻な分析を見てきた後だけに,これはどうしたことだろう.

 もう少し著者の説明につきあおう.著者は「ジャンセニスムを生成の観点から捉えなおそうとする本書の方法論」を採用し,「教会と国家が正式に断罪した一つの異端として,すなわち引き受け手を欠いた政治的な所産としてジャンセニスムを記述する」過程で,「そこに結びつけられた様々な要素を取り去った」.こうして「本書のジャンセニスム」は,「カトリック改革の一翼でも,アウグスティヌス主義の表明でも,道徳的厳格主義でも,ましてジャンセニウスの思想そのものでもない」と否定が繰り返され,続いてその理由が述べられている.「断罪された異端がジャンセニウスの教理なのかということ自体が論争の的になっていた」からなのだという(本書「あとがき」,同上).ここを筆者なりに整理をして敷衍すると,教会と国家はジャンセニスムを異端として断罪したが,その断罪された「ジャンセニスム」は名称こそジャンセニウスの名に由来するが,ジャンセニウスとは無関係である(またはその関係の有無こそが問題となっている).また,いわゆる「ジャンセニスト」もその異端宣告は受け入れているから,その名称がジャンセニウスあるいはジャンセニスムに由来するとしても,「ジャンセニスト」と断罪された「ジャンセニスム」はやはり無関係である.つまり,ジャンセニウスもジャンセニストも,断罪された「ジャンセニスム」とは無関係なのだから,断罪された「ジャンセニスム」は「引き受け手」を欠いた,内容空疎な語にすぎない.だからこそジャンセニスムとは何で,ジャンセニストとは誰を指すのか問うのは無意味であるはずなのに,それでも反ジャンセニストは現に目の前に「存在」するジャンセニスムやジャンセニストに苛立ち,いわば内容空疎なその器に,何らかの内容を盛ることで実体化しようとした.以後,その定義を試みる過程で,「そこに」「様々な要素」が結びつけられてきたわけで,著者としてはそれを「取り去った」というのである.

 説明は理解できる(と思う).しかし筆者の中でモヤモヤが霧散することがない.なぜなのだろう.繰り返しになるが,ジャンセニスム研究が伝統的に,ジャンセニスムの性質や特徴の付与に腐心してきたのは,本書において強調されているところである.ジャンセニスムとは〜であると断定するや否や,それをすり抜ける事例や要素が提出され,定義に異議が唱えられる.それゆえオルシバルは器に盛る内容ではなくその「機能」に目を向けるよう提唱した.しかしそれでも,「当時」の人々が認識していた「ジャンセニスム」があるのだから,そのように認識したはずの反ジャンセニストの言説からジャンセニスムを捉え直したい.これが本書の主張と方法論である.このような本書の射程と伝統的記述を突き合わせた時,それでも釈然としないのは,そこにある種の違和感を感じるからである.それは何か.思うに研究の伝統として,二つの区別すべき事柄が入り組んでいるからではないだろうか.それは歴史記述をめぐる視点である.

 まずマランデのような,当時を経験として生きていた反ジャンセニストが発する「ジャンセニスムとは何か」と,ジャンセニスムを後世から捉えなおそうとする歴史家による「ジャンセニスムとは何か」は果たして同じ問いだろうか.もちろん得体の知れない未知の対象を前に「これは何か」と自問し,知識と判断を基に「これは〜である」という定義を与えるという意味では,両者は区別し難い.また,歴史を生きる当事者も歴史家であり,歴史家もその定義を生きようとするという意味で当事者に違いないという意味でも,二つの問いはやはり重なり合う.しかし単純なことではあるが,両者の間にはまずもって経験と情報量の違いがある.歴史記述が文学的製作物であるとすれば,この違いは,対象となる事象をつなぎ合わせて物語化する上で,決定的な差異となって立ち現われる.マランデのような当事者は1653年の五命題とともにジャンセニスムが断罪され異端宣告を受けたことを経験として実感している.だが当たり前のことだが,その後ルイ十四世がジャンセニスムの拠点とみなしたポール=ロワイヤル・デ・シャンの建物を破壊したことは知り得ない.また,信仰宣誓書の署名強制や修道女の移送,それに教会の和平で決着がついたはずのジャンセニスムが,それ以降政治化し100年以上にもわたって存続した経緯などは知る由もない.これに対して現代の歴史家ならばこれらの事象全てを俯瞰して記述する.戦争が終結し条約が結ばれた後でなら,「三十年戦争」という名称を与え,物語として記述することもできよう.「ジャンセニスム論争」という呼称も,論争の渦中に身を投じた論争家ではなく,後世から論争を俯瞰した歴史家による命名に違いない.実のところ「ジャンセニスムとは何か」という現代から発せられる問いは,「ジャンセニスム」という(たとえそれが悪口・中傷であったとしても)当時の認定名と,「とは何か」という歴史記述から発せられる疑問(それが同時代であっても)の合成物なのである.

 本書の著者は,この伝統的な混同を意識しているはずである.再度引用すると「当時のフランス人がその存在を信じた『ジャンセニスム』」への関心とは,現代の,既に物語化された問いを避けつつ,歴史上のある時点で断罪された「ジャンセニスム」ではなく,「当時」の,同時代の産物として認識されていた「ジャンセニスム」を捉えようとする画期的な試みであるはずだ.それゆえに現代の俯瞰の視点から,ジャンセニスムそのものは何かと問うのではなく,反ジャンセニストが遭遇し反ジャンセニストが実体化しようとした「ジャンセニスム」を探るという本書の射程は十分に評価できる.さらに,これまでの歴史家が陥ってきた実体化の弊を逃れるために,ジャンセニスムとは〜であるという断定を避け,「生成」される過程に着目したのも一貫している.にもかかわらず,筆者が釈然としないのは,次のような理由による.すなわち,「生成」の過程には段階が想定されるわけだが,その共時的な,時期に応じた「ジャンセニスム」の表象がほとんど提示されないからである.それは,本書がジャンセニスムの記述を目指しながら,反ジャンセニストとジャンセニストの対立という設定から想像される論争事象よりも,ジャンセニスムの一側面としての「信の観念史」(とその中での論争)に記述の重心を移したことに由来するのではないだろうか.

 本書では反ジャンセニストがジャンセニスムを「囲い込む」過程として,1653年の大勅書から始まり,漸次的に作成された3つの信仰宣誓書の逐語的な読解が試みられている.次第にジャンセニスムの枠組みが形成され,ジャンセニストが追い込まれてゆく.対するジャンセニストは理論武装し,議論の土俵を設定し,逆説的ながら議論の主導権を握る.スリリングな過程だ.これは反ジャンセニスムから逆照射したがゆえに可能となった貴重な考察である.ところが,それにしても,追い詰められてゆくジャンセニストとジャンセニスムに関して,「当時のフランス人が信じた」はずの「存在」を記述することは可能ではなかろうか.

 反ジャンセニストからジャンセニストへという方法論は維持したまま,論争を記述の核としたらどうなるだろう.まず既に指摘したように1640年代,最初期のジャンセニスム論争には当然目配せがなされたことだろう.唯それ以上に重要なのは,まさにこの時期の論争を通じて,「ジャンセニスム,ジャンセニスト」なる語が生み出されたという事実である.ジャンセニスムという語は第一義的には,「ジャンセニウス[のような輩]の思想」や「ジャンセニウス主義」を意味する.これに付随して,ジャンセニストとは「ジャンセニウスの擁護者」,「ジャンセニウスに追随する人」,「ジャンセニウス[のような輩]の徒」「ジャンセニスム[のような邪説]を信じる[奉じる]人」,ジャンセニスム主義者となろうか.これら想定される訳語の全てが,1640年代の論争の過程で「ジャンセニスム」,「ジャンセニスト」なる語に込められた内容であり,ほぼ間違いなく,全面的に否定的なニュアンスである.それゆえに論争の展開に従い,反ジャンセニストによる使用例と使用方法を,時期に応じて段階的に記述することは不可能ではない.そうすれば,「当時」の論争家たちが「信じた」ジャンセニスムの姿と定義を描くこともできたはずである.もちろん論争の言語である以上,作家個人の理解と運用の違いには注意せねばならない.それにしても,いわばレッテルの機能を語(シニフィアン)とそれが指示する内容(シニフィエ)の,横滑りを内包した生成過程として捉えるという作業がここで想定できるだろう.

 余談ながら「ジャンセニスム,ジャンセニスト」の呼称が普及する前に,この時期の論争では「サン−シランとその一味」,「サン−シランの弟子たち」[21]などの呼称も用いられていた.語の形成からすれば「ジャン・デュヴェルジエ・ド・オーランヌ(故サン−シラン修道院長)の支持者,擁護者」の意味であり,具体的には特に『頻繁なる・・・』(1643年刊)を上梓したばかりのアルノーや,サン−シランの書簡集(1645年刊)を編集したアルノー・ダンディイに対して敵方が投げつけた言葉である.だが,当時の文脈においてこれらの語は,次第に「ジャンセニスト」という語に収斂されてゆく.それゆえ,当時の論争状況を分析する上で,これらの表現を敢えてジャンセニスム,ジャンセニストと厳密に区別しても実りある成果は望めまい.

 1640年代後半にはジャンセニスムの呼称が定着し始める.だが続く数年間でこの語には新たな意味が付与されることになろう.1649年の五命題断罪から1653年の大勅書の発布までの期間は既に指摘したようにフロンドと重なる時期であるが,この間に第2次ジャンセニスム論争とでも呼ぶべき激越な論争が展開されている.

 1653年の大勅書「クム・オカジオーネ」の発布に伴い,それまで五命題の異端を認めなかったジャンセニストが,五命題の異端性は受け入れつつ,五命題とジャンセニウスの教理を切り離す戦略に切り替えたことは従来から指摘されてきた.反ジャンセニストは,このあざとい戦略にジャンセニストの強弁と変節をみて揶揄した.1653年以降は大勅書に「『イーペル司教コルネリウス・ジャンセニウスによるアウグスティヌス』と題された本の出版を機に,彼の他の見解のうち,その五つについて,特にフランスで論争が起きたため」(本書p.89に引用されている)という文言が採用されたことで,ジャンセニウスと「異端」が正式に結び付けられた.つまり,ジャンセニスムという語が喚起する表象がここで転機を迎える.勅書の文言の曖昧さと,それが誘発した議論については本書で論は尽くされている.しかし文書のやり取りの中で,正式な異端と結びついたレッテルとしてジャンセニスムの語が機能し始めるのは,この時期のことである[22].以降この語を引き受けるどころか,擁護あるいは留保する必要さえなくなってしまう.少なくとも1640年代から引き継がれた反ジャンセニストによるイメージ戦略の一つの成果がここに表れている.するとこの時期の反ジャンセニストにしてみれば,誰がジャンセニストで,ジャンセニスムとは何かという議論よりも,誰に,どのようにこのレッテルを当てはめて断罪するかが重要な課題となったはずである.

 1655年のリアンクール事件に際して,それまで断続的にしか執筆活動をしていなかったアルノーは再び公に筆をとった[23].本書でも触れられている「アルノー譴責事件」へと連なる事件であるが(本書第三章),これがジャンセニストによる攻撃の再開と解釈され,論争に発展する.アルノーはこの時,まずは後に『第一の手紙』と呼ばれることになるテクストを執筆してリアンクールを擁護した.これに多くの反論が寄せられ,アルノーはさらに『第二の手紙』を公刊して反論する.もちろんここでも反ジャンセニスト−ジャンセニストの構図が現れるわけだが,この論争の過程でもジャンセニストの他,「アルノー派」(« arnaldiens »)のような呼称が現れている.この造語の使用についてはさらなる調査が必要だが,この語はおそらく,故サン−シランを攻撃するという流行が廃った,五命題をめぐる第2次ジャンセニスム論争の頃から用いられ始め,リアンクール事件を発端とする論争で頻繁に現れるようになったと推測される.いずれにせよ,この語も「ジャンセニスム」の生成過程で生み出された造語の一つとして記憶すべきである.

 単なる見通しとなるが,ジャンセニスム分析の核にレッテルとしての呼称と表象を据えるなら,ジャンセニスム論争(『アウグスティヌス』の再版から教会の和平まで)以降,その第一世代が死んだ後に政治化したジャンセニスムにも(アルノーは1694年に客死,ニコルは1695年に死去),シニフィエの異なる呼称として一貫した分析方法を適用できるのではないか.

 読後に手前勝手ながら,本書を下敷きとし,ジャンセニスムの「生成」に着目して,その生成の各過程を論争のリズムに合わせて切り取りつつ,各段階における反ジャンセニストによる表象を記述対象とすることで,当時の反ジャンセニストの論争家が理解した意味での「ジャンセニスム,ジャンセニスト」が提示できるかもしれないと考えるようになった.本書では「生成」を問題としながらも,「ジャンセニスム」という空の器よりも,反ジャンセニストという,器の盛り手による実体化の作業に記述の重心が置かれている.漸次的形成における漸次性よりも,形成が重視されていると言い換えられよう.そのような操作により,逆説的ながら,本書では否定したはずの伝統的なジャンセニスム研究の混同を引き継いでしまったのではないか.

 著者が「当時のフランス人がその存在を信じた『ジャンセニスム』とは何であったのか」と書いていたことを想起されたい(下線は引用者による).筆者にはこの「当時の」という語が,本書の革新的な問いを伝統的なジャンセニスム研究に引き戻したように思えてならない.著者は「生成」発展する(させられる)はずのジャンセニスムの時期をあえて分節することなく,「当時の」と一括りにしている.だが,これはいつの「当時」を指すのか.すでに繰り返し述べてきたように,ジャンセニスムという器には内容が盛られては取り去られてきた.その過程とやり取りを,現代の眼差しから俯瞰して記述しようとした姿勢が,この語に表れているように思われるのである.

 ジャンセニスム研究の伝統が隘路に入り込んでいるとすれば,それは時期により変化する内容が盛られた器を,語りの場から俯瞰して同じ一つの語で結び付けつつ定義しようとしてきたからではないだろうか.本書は,実体化に無批判でかつ生成への視点に欠けていた従来の研究に対して,対抗勢力から捉える方法論上の視座を提唱し,生成発展へと目を転じた画期的な研究である.にもかかわらず,言葉のやり取りから漸次形成される表象よりも,「信」をめぐるジャンセニスムの思想史における貢献に視線を転じ,俯瞰の視点を内在させたために,伝統的な研究を温存させることになったように思われる.筆者のような者には望むべくもない学識と「迫真の筆致」を羨みながらも,本書へのごくわずかな不満を滲ませ,本稿を閉じることにしたい.


[1]公益財団法人・日仏会館.https://www.mfjtokyo.or.jp/shibukuro.html [2]選者の一人川出良枝氏による表現. https://www.mfjtokyo.or.jp/images/prixshibusawaclaudel/2020/senpyo_misono.pdf [3]Keisuke Misono, Écrire contre le jansénisme. Léonard de Marandé polémiste vulgarisateur, Paris, Honoré Champion, 2012. 以下に筆者による書評が掲載されている. http://www.sjllf.org/cahier/?action=common_download_main&upload_id=720 [4]注2の選評で引用された言葉. [5]ヘイドン・ホワイト(上村忠男編訳)『歴史の喩法』(岩波書店,2017年)所収の論考「文学的製作物としての歴史的テクスト」を念頭においている. [6]著者自身「あとがき」で記しているように,本書の直接の端緒は一橋大学に提出された日本語の博士論文(2010年提出)と,これまでに発表してきた論考の数々であるが(「以上の内容を大幅に組み替え,多くの論述を書き加えて一つにまとめたのが本書である」(p.332)),さらに「着想源」としてその前年にクレルモン=フェラン大学に提出されたフランス語の博士論文があるされている.本論でいう前著とは,書物として公刊されたフランス語の博士論文を指す(注3).マランデについてのモノグラフィーと,反ジャンセニスムの一端を担ったマランデの役割を論じた本書とは性質が異なるのは言うまでもない. [7]あるいは前著で引用された,ジャンセニストであるサン−タンヌのマランデ評には,この人物への蔑視が端的に表れている.「マランデを,とるに足らない『群小作家』の一人とみなしていたアルノーはここで,群小作家に共通した特徴をあげつらっている.この点,彼の兄弟への手紙では単に仄めかされていただけであった.要するに,『名をあげるため』に『学者の論争に首を突っ込み』たくてうずうずしている,あるいは栄光を求めて論争に参戦したいという,『虚栄心』に満ちた『野心』を抱いている,というのである.こうした批評から,『教会の遺産』への返答を書いたサン−タンヌによる批評が想い浮かぶ.サン−タンヌはマランデの筆致には『ただ書きたいという欲求』,あるいは素人神学者の『認められたいという傲慢な欲求』があると喝破した.こうしてサン−タンヌは王の説教師にして「二流の作家」どころではないクロード・モレルには反論しても,マランデには用心して関わらないようにしたし,アルノーにしてもモレルには筆を控えることもなかった.ポール=ロワイヤルの人々のこうした態度は終始変わることがなかった.彼らによる,マランデに関するコメントは,極めて辛辣な評を伴っているのである.」(Écrire contre le jansénisme, pp.267-268) [8]反ジャンセニストとマランデを結ぶ線もか細い.イエズス会士フェリエからマランデへの手紙は両者の関係を示すものではあるが,論争も終わりかけの時期の証言である.「キリスト教における最も重要な真理の一つを擁護するためにも,あれらの人たち[ポール=ロワイヤルの人々]に対して反論を書き続けてください.(・・・)」(1662年7月5日付の手紙.Écrire contre le jansénisme, p.269). [9]このイエズス会士について本書における言及は2ヶ所でマランデの反ジャンセニストしての活動とは関連づけられていない. [10]François Véron(1575-1649) [11]クリスチアン・ジュオー(嶋中博章・野呂康訳)『マザリナード 言葉のフロンド』水声社,2012;同(共編訳)『歴史「と」エクリチュール 過去「の」記述』水声社,2011など. [12]パスカルらが『プロヴァンシアル』において,イエズス会の組織性と出版に際しての上長者の許可に敢えて言及しているところから,イエズス会は当時にあって,会としての統一見解と出版統制を重視した,顕著な例外だったのかもしれない. [13]この人物については以下の拙書を参照されたい.Yasushi Noro, Une Vie à la trace. Amable Bourzeis, écrivain(1606-1672), Paris, Classiques Garnier, 2018. [14]1640年前後に説教師として叙階されていたし,「修道院長」(« abbé »)ではあったが,いずれも神学の専門知識の取得有無とはほぼ無関係の肩書きである. [15]ヘイドン・ホワイト前掲論文,p.49.下線部分は,著者が英語版原文で斜字体としている. [16]この辺の事情は以下の拙論で詳述した.野呂 康「サン−シランの残像 −論争における操作と,その展開」岡山大学言語教育センター他編『大学教育研究』,No.10,2014,pp.1-14. [17]クリスチアン・ジュオーがマザリナードの分析で「連鎖状況」と呼んだ論争の特徴である.「テクストからテクストへやり取りがなされるうちに,主題,議論,名前が流通し,歪められ,変形する.こうして全く新たな問題が開かれる.」(クリスチアン・ジュオー『マザリナード』(水声社,p.233))「[論争の]網の目とは,単に主題の共通した複数のテクストを並置したり,数々の返答を接合したりすることではない.網の目の効果とは,一つの力学である.テクストとテクストを結ぶ,か細くもつれた紐であり,跳ね返ったかとおもうと,跳ね返るたびに議論や告発が増幅される.もはや二者間の決闘ではなく,論争の連鎖状況こそが問題となる.攻撃は反撃を喚起する.反撃により先行するテクストの議論は粉砕されるが,同時に氾濫がもたらされる.ここにおいてこそ,連鎖状況が始動する.」(同,p.237.下線による強調は著者による) [18]この事件については以下の発表及びそれを基にした拙論で触れた.« " Injure pour injure " : une polémique presque invisible autour de De la Fréquente communion d'Antoine Arnauld »(colloque organisé à l'Université Sorbonne Nouvelle  Paris III  les 4-6 juin 2018 ); « " Injure pour injure " ‑ Une polémique quasiment invisible autour de De la fréquente communion d’Antoine Arnauld »Études Episteme, revue en ligne(à paraître). https://journals.openedition.org/episteme/ [19]前著,本書ともマランデの書誌にはN.Buonと記されている.但しニコラ・ビュオンは1628年に亡くなっており,その後寡婦が経営を引き継いでいることから,ここでも業者は寡婦ビュオンであろう.Jean-Dominique Mellot et al. éd., Répertoire d'imprimeurs/libraires(vers 1470-vers 1830), (Nouvelle édition), Paris, BnF Éditions, 2019. [20]ジャンセニスムと出版の関係については以下の拙論で詳述している.「1640年代の出版業界とジャンセニスム論争(その一)」,国際センター, 岡山大学教育開発センター, 岡山大学言語教育センター, 岡山大学キャリア開発センター『大学教育研究』(大学紀要),No.11,2015, pp.33-42;「1640年代の出版業界とジャンセニスム論争(その二)」 岡山大学ヨーロッパ言語文化研究会『ヨーロッパ言語文化研究』(大学紀要),no.35, 2016年3月15日,pp.1-15 [21] 前掲拙論「サン−シランの残像」に幾つかの使用例が見られる. [22]「異端」という語の使用と変遷にも注意すべきかもしれない.「異端」とは本来的には「謬説」という意味の一般名詞であるとしても,それは教皇や公会議の決定をへて認定される,制度的に認定された語である.しかし論争においては,頻繁に敵方へ投げつけられる悪口であり中傷である.最初期のジャンセニスム論争においては,「改革派」(« Réformateur »)という語とほぼ同義で用いられる「異端」という語が投げつけられても,それは根拠のない中傷であると一笑にふすこともできた.しかし1653年以降は,大勅書で「異端」と認定された思想という意味が込められてしまうため,ジャンセニストはこの語とジャンセニウスを切り離す,いわば火消し作業に追われることになる.実質的な異端として実体化されることは,どうしても避けねばならなかったからである. [23]事件の経緯やアルノーの喚起した論争については以下の拙論で詳述している.「テクスト,その行為と作用-1655年,リアンクール公をめぐる出来事について」 ,2005,東京都立大学仏文研究室編『佛文論叢』,第17号,pp.21-44;« Une écriture pour deux actions―La Stratégie janséniste dans le Mémoire de Liancourt » Université Sophia, Revue d'études francaises, no.42, 2008, 67-88.(上智大学フランス文学科『仏語・仏文学論集』)

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