『ルソーと方法』(淵田仁、法政大学出版局、2019年)/ 菅原百合絵

 「渋沢・クローデル賞」奨励賞を昨年受賞した本書において、著者である淵田氏は「ルソーの方法」ではなく「ルソーと方法」こそが主題なのだと幾度か強調している。一見戸惑うような助詞の選択だが、著者の問題意識が丹念に記述されている序論を読むうちにその意味は感得されてくる。評者なりの言葉で言い換えるならば、両者の差異は以下のようになるだろう。つまり、本書で問題になっているのは、「ルソーがどのような方法を用いて自らの哲学体系を構築するか」という方法論的な問いというよりは、むしろ「ルソーが方法それ自体をどのようなものとして捉え、それといかなる距離を保つか」という、方法そのものへのメタな問いにある。この問いの上流には、統一的な体系を希求し、読者にも確たる一貫性を自らの作品のうちに読み取ることを要求しつづけた哲学者たるルソーが、時には方法に対して懐疑的な姿勢を示し、テクストの内部に数多くの矛盾を内包させているのはなぜか、というさらに大きな問いが控えている。著者も幾度か注意を促しているように、従来こうした問いはルソーに感情主義者=ロマン主義の先駆者を見て取るマッソン以来の伝統と、彼の合理主義的側面をより押し出す、あるいはルソーのうちにある感情主義と合理主義の調停をめざす(ドラテに代表されるような)伝統という枠組みで解釈されることが多かった。こうしたクラシックな読解に「方法」という補助線を引きつつ、彼のテクストに見られる矛盾をルソー個人の問題に帰するのではなく、同時代の思想潮流、とりわけ経験論と彼の思想が切り結んでいた緊張した関係の表出として捉えるところに本書の特色があると言えるだろう。そして興味深いことに、きわめて鳥瞰的な視座から出発しながらも、従来(少なくとも日本のルソー研究では)ほとんど注目されてこなかった、「あまりにも些細で、たわいもない彼のテクスト群」にフォーカスをあてて読み解いてゆくところも、本書の独創的な点である。

 ルソーが方法そのものとどう付き合うか、という大きな問いに対して、本書はシンプルな構成でアプローチする。すなわち、「認識」と「歴史」という二つの軸を中心に論が展開され、第一部が「認識」に、第二部が「歴史」に割り当てられている。以下では、章構成に沿う形で簡単に本書の内容をたどり、そのあとに読者に手渡された課題を振り返ってみたい。

 序論で問題意識が確認されたあと、第一章はルソーではなくコンディヤックの解説にあてられている。章タイトル「コンディヤックの分析的方法」が示すように、ここで目指されているのは彼の「分析的方法」に十八世紀の典型的な「世界の眼差し方」を代表させ、ルソーがいかなる知的状況のなかで思考し反応を繰り出していったかを確認することであり、その意味で経験論者コンディヤックはいわばデコイとして呼び出されている。

 ここで著者は、デカルトらに代表される演繹的方法とニュートンらに代表される分析的方法が対立し、十七世紀から十八世紀にかけて後者が次第に前者を凌駕して覇権を握る、というクリシェ的な図式にとどまることなく、コンディヤックの強調する「分析的方法」の内実を丹念にたどりながら、同時にそこに垣間見える破綻の萌芽を捉える。その萌芽は、分析に不可欠な「推論」、そして分析の基礎をなす「自同性」に見いだされる。推論のプロセスは、観念や命題どうしを結びつける鎖を「分解」しつつ「再構成」するという連続的な往還的運動にある。そしてこの往還を可能にする鎖としてはたらくのが、デリダもコンディヤック論のなかで着目した「自同性原理」である。しかし既知の命題から未知のそれへと漸進するのを可能にする推論を「A=A’」という自同性原理が保証するということには、どこか危うさがないだろうか。未知と既知の間の断絶を、果たしてこの原理が架橋しうるのか。

 著者によれば、この疑問を同時代の哲学に差し向けていたのがほかならぬルソーである。こうして第二章、第三章では、ルソーが「分析」とどのように対峙するのかが説明される。第二章では、「構成と分解を共に内包する」コンディヤック流の「分析的方法」へのルソーの懐疑が説明される。ルソーは人間の能力の限界ゆえにこの方法に信をおかないのだが、ここにはコンディヤックとルソーの「理性」観の違いが反映されている。すなわち理性を感覚由来で事後的に産出されるものと見た経験論者に反して、彼は理性を単なる感覚の帰結とは考えず、諸能力によって構成されていると同時に諸能力を秩序づける「能力の能力」いう面も併せ持つという、より複雑な様相のもとに捉えている。この見方は、『人間不平等起源論(第二論文)』中の鍵概念「自己改善能力」と、人間の理性の発展を感覚の発展に後続させる『エミール』の能力観に反映されている。同時に著者は感覚論的一元論者ルソーとデカルト的二元論者ルソーという「矛盾」をどう解消するかという古くからある議論に注意を向けながら、メタ能力たる「自己改善能力」という理論装置のうちに感覚論の逆説的な乗り越えを見ている。簡潔に言えば、著者はここで推論を途切れることなく編み上げる「鎖」の綻びを指摘せずにはいられないルソーの姿を浮き彫りにしていると言えよう。

 第三章では、ルソーがドゥドト夫人に書き送った『道徳書簡』に見られる「分析」への批判が解説される。じっさい『エミール』中の有名なテクスト「サヴォワの助任司祭の信仰告白」を準備するこの書簡では「推論」が厳しく批判されていた。それは既知の事実を結びつけてゆくことしかできず、連鎖の最上流に位置する「原初的真理」を導出できない。そこでルソーがこの原初的真理の導き手として持ち出すのが「内的感覚」である。著者は「内的感覚」が「自然の感覚」と言い換えられていることに注目し、この「内的感覚」が感覚論ではなくモラリストの語彙であると述べ、この語を「知的伝統に依拠する非論理的な論理性を持つ戦略的概念」だとしている。自同性原理によって進められる「推論」の不備を解消するものとして登場するのが「内的感覚」なのである。

 第二部で扱われるのは、この内的感覚によって保証される真理を「いかにして他者に納得させるか」という問いであり、そのために選ばれたのが「歴史」というテーマである。この「歴史」はフランス語のhistoireと同様広義に用いられており、「語り」と言い換えてもよいだろう。第四章では、『エミール』の歴史論を通じて見えてくる、彼にとってのあるべき伝達方法が示される。ここで著者は「目」というモチーフに注意を向ける。理想の歴史家とは、露骨に主観的な価値判断を差し挟むのではなく、事実だけを提示して読者の「目」の代わりをする存在である。だがそれは権威や主観性の不在を意味するのではない。『エミール』の家庭教師と同様、権威が透明化するということであり、歴史というモチーフを通じて語りと権威の問題とが分離しがたく絡み合った様相が本書の読者には差し出される。

 続く第五章が取り上げるのは、歴史の外部にある歴史とも言える「起源」である。第二論文の読解を通じて、著者は再び「断絶」の問題へと立ち戻り、作中の自然状態と社会状態の間にある埋めがたい深淵を提示する。従来理論上の弱点として指摘されてきたこの深淵に、著者は積極的な意味を付与し直した。自然状態は「原初的真理」の相似形として、内なる感覚にその根拠が求められる。著者はここでスタロバンスキーが第二論文に与えた「系譜的/発生論的方法」という解釈を、テクスト中に見られるビュフォンの痕跡を手がかりにして覆し、因果律的な分析的方法に基づく読解とは異なる「内的感覚」による自然状態の措定という構図を提示している。

 この「内的感覚」は、自らのうちにあるものという意味で、当然自己という観念と密接に関わっている。最終章で検討されるのは、この自己、あるいは「自己の歴史」を読者に差し出してみせるルソーの身振り、とりわけ自伝的テクストにおける戦略の問題である。「マルゼルブへの手紙」『ボーモンへの手紙』『告白』といったテクストにおける「方法」の変遷が検討されるなかで明らかになってゆくのは、ルソーが自己の真実を伝えようとする際の「証言」と「権威」の問題をめぐる苦闘の軌跡である。最終的には「すべてを語る」という『告白』の方法が――自身があれほど批判してきたはずの――「分析的方法」によって彼のテクストを読み解けという読者への命令へと転ずる、という一種の倒錯が示されたうえで、その苦闘の「挫折」が確認される。

 かくして読者は、「方法」という語を道標としてルソーのテクストを旅してきた本書が、同時代の哲学的思潮という広い問題から出発し、そこから決して目を逸らすことなく、いつの間にか自分自身の歴史の語りに向けられる眼差しという極限にまでフォーカスが絞られた個の問題へと到達していることに気づくであろう。そしてその旅のなかで「分析的方法(への批判)」「内的感覚」「原初的真理」「透明な権威」といったルソーの「語り=方法」をさまざまな形で支える概念が選び取られ、星座のようにひとつの論理の線で結ばれてゆく。

 構造の堅固さもさることながら、ルソー研究の最新の動向や時勢に棹さしているという点でも本書は読者の目を惹く。「方法」という語が選択され、形而上学にかなりの紙幅が割かれながらも、(アンリ・グイエに代表されるような)『方法序説』のデカルトからの影響という伝統的な議論ではなく、コンディヤックを始めとする感覚論者との対話に注意がそそがれているという特色も、あるいはドン・デシャン宛て書簡や「化学教程」といった日本ではほとんど注目されてこなかったテクストに焦点が当てられているという特色も、もとをたどればアンドレ・シャラクやブリュノ・ベルナルディらの仕事の成果を踏まえてのものであるし、大著からごく短い論文まで、本書ではルソー研究にとどまらず十八世紀研究の最新の動向が細かく押さえられ確認されている。さらに著者はつねにルソー研究史のうちに自らを位置づける配慮も怠っていない。その意味で、とりわけ序論は手際よくルソー研究史を概観する絶好のガイドにもなっていると言えるだろう。また、ルソーのテクストのなかでもよく引かれるいわば「王道」のテクストではなく、ときには読書ノートへの書き込みなどの細部に耳を澄ませ、ともすれば読み落とされがちな文章や語彙を目敏く拾って分析にかける本書の繊細なテクスト読解も、同書の視野の広いダイナミックな研究史の扱い方と対照させたときにいっそうの魅力を帯びて見えてくる。

 ここまで本書の道筋をたどったうえで、その長所を示してきた。そのうえで、本書を読んだ読者に残されたと思われる課題をひとつ書き添えて稿を閉じたい。それは鍵概念「内的感覚」をめぐる問題である。

 評者の個人的な意見を述べることが許されるならば、第三章第二節で「内的感覚」の系譜がパスカルをはじめとするモラリストから辿られていることは、やや不思議な印象を受ける。著者は「内的感覚」が「自然の感覚」と同一視されることに注目し、この「自然の感覚」という語からパスカルやシュヴァリエ・ド・メレの議論を呼び出してくるのだが、この「内的感覚sentiment intérieur」というそのままの語が「意識conscience」という語とあわせて、ポスト・カルテジアンであるマルブランシュによって主著『真理の探究』で用いられており、そしてエミール・ブレイエも主張するように、マルブランシュはルソーの思想体系のなかで決して些末な位置しか占めていないわけではないからである。さらに、「内的感覚=意識」の概念は「自己」の概念の生成とも切り離すことのできない関係を持っている。素直に読むならば、『道徳書簡』の「内的感覚」は、パスカルらモラリストの議論という長い迂回路を通らずとも、直接マルブランシュと接続できるように思われる[1]し、また「自然の感覚」からジャンセニスムを呼び出してくるよりは、むしろ内的感覚をカルヴァンの「精霊の内なる証言témoignage intérieur du Saint-Esprit」という語と接続させて、プロテスタンティスムの影響を探るほうがより自然であるように思われる[2]。この点に関する本書の読解は興味深いものではあったが、モラリストの文脈を経由させる必然性をうまく読み取ることができなかった。

 最後に、こうした語彙的系譜の問題をひとまず措いて改めて考えた時、ルソーの「方法」においてもうひとつ興味深い点は、ルソーがつねに彼の「方法」から自分を除外し、己の経験から「方法」を乖離させる点にもあると言えるのではないか。たとえばかなり大きくなるまで子どもに読書を禁じた『エミール』とは裏腹に、『告白』第一巻において彼は自身の「原初的記憶」と呼べるものを読書に結びつけ、自我の誕生と読書の開始を重ね合わせている。彼はこの点について自分の早熟さを理由に弁明し、やすやすと自分を例外的存在のポジションに置くのだが、こうした身振りのうちにわたしたちは〈自己の真理と普遍真理の間にあるもうひとつの深淵〉を見て取ることができるだろう。『透明と障害』においてスタロバンスキーは、ルソーの自伝作品のなかで「真理la vérité」が「彼の真理sa vérité」へと移り変わる過程を剔出してみせていた。彼のいわゆる自伝三部作は、この「真理」と「彼の真理」をなんとか等号記号で結ぼうとする挑戦を写し取ったものであるとも言える。その意味で、『告白』は「すべてを言う」以外にも豊かな複数の「方法」を持っており、また続く『対話』や『夢想』にもコミュニケーションをめぐる彼の「方法」上の工夫を読み取ることができる。こうした自伝の「方法」をめぐる諸問題については、著者から読者に手渡された課題だと言うことができるだろう。


[1]この点については以前軽く言及したことがある。興味のある向きは以下の拙論を参照されたい。菅原百合絵「結節点としての内的感覚」、『ルソー論集 ルソーから知る』(永見文雄・小野潮・鳴子博子編)、中央大学出版部、2021年、133-160頁。

[2]「内的感覚」という語そのものについての研究は決して多くはなく、あまり論じられてきていないが、おそらく「内的感覚」の語彙の系譜をたどったときに源泉のひとつと言うことができるのは、アウグスティヌスの「心ノ内ナル声verbum in corde」という表現である。その意味では、アウグスティヌスを思想や信仰上の源泉としたジャンセニストたちと「内的感覚」を結びつけるという理がないわけではないと言えるかもしれない。ただし繰り返せば、本書では「内的感覚」を「自然の感覚」と結びつけたうえで、この「自然の感覚」がパスカルとメレのオネットムをめぐる論争などを参照するかたちでジャンセニスムに接続されているのであり、まったく異なる経路が辿られている。

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