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ベルトラン・マルシャル『サロメ 詩と散文のはざまに――ボードレール・マラルメ・フローベール・ユイスマンス』(大鐘敦子・原大地訳、水声社、2023年)/ 松村悠子

 本書は、2005年に出版されたベルトラン・マルシャル氏の著作Salomé.Entre vers et prose. Baudelaire, Mallarmé, Flaubert, Huysmans(ジョゼ・コルティ社)の翻訳であり、2023年3月20日に水声社より刊行された。訳者は大鐘敦子氏と原大地氏である。大鐘氏は『サロメのダンスの起源――フローベール・モロー・マラルメ・ワイルド』(慶應義塾大学出版会、2008年)等の著者であり、かたや原氏は『ステファヌ・マラルメの〈世紀〉』(水声社、2019年)等、数々のマラルメ研究書を世に送り出している。つまり、本邦随一のサロメ専門家と、気鋭のマラルメ研究者の協働作業による渾身の訳本である。大鐘氏はまた、2023年9月に初来日を果たされた、マルシャル氏の日本招聘グループの中心人物である。かくして、9月19日から30日の間に、マルシャル教授の講演会が、東京、横浜、京都、神戸において全5回に渡り行われた。この記念すべき時と同じくして、本書の書評を執筆する機会をいただいたことを、大変光栄に思う。

 福音書のエピソードを起源とする踊り子サロメと、19世紀後半から20世紀初めのヨーロッパ文芸・美術におけるサロメの流行、サロメ研究史の概要と、本研究書の革新性については、大鐘氏による解説を参照されたい(「訳者あとがき」)。あとがきには本書の秀逸な概要も含まれるが、これに関しては重複を恐れずに、私なりにまとめてみたい。

 本書は、1880年代半ばから特に隆盛を迎えたサロメ流行の基になった3作品、すなわちマラルメの『エロディアード』、フローベール『ヘロディアス』、ユイスマンスの『さかしま』と、これらの先駆となるボードレール作品を扱っている。著者は、マリオ・プラーツの名とその後継的研究を挙げ、従来のテーマ批評、神話批評、精神史、精神分析的アプローチとは一線を画す自らの立場を、まず明確にする(p.12-17)。そして、間テクスト性、つまり他のサロメ作品との関連性と、テクスト生成論を軸に作品を論じていく。そのために用いられるのは、論述対象となるテクスト自体の緻密な読解(テクスト内部理論の分析、聖書や神話の知識や語源学の援用、音韻分析)と、テクストと伝記的事実、関連テクスト、書簡、前テクスト(読書ノート、粗筋、覚書、草稿)との照合・解析である。また、これらの方法により、著者は、上記3作品におけるサロメの象徴的意味、テクスト自体の象徴的意味をも明らかにする。まず驚かされるのは、それぞれの作品で、サロメがいかに本質的な役割を担っているかということだ。そこで彼女はそれぞれ、各作家の文学マニフェストの表象となるのだ。それはまた、19世紀後半に生じた文学・詩の変容、つまり韻文と同義であった詩(ポエジー)と散文の区分と、叙事詩、劇詩、抒情詩という韻文内の伝統的な区分が疑問に付されていく時代背景の中で、副題の通り「詩(韻文)と散文のはざま」にある垣根を乗り越える詩(ポエジー)の表象となることでもある。サロメが持つこれらの重要性は、もう一つの間テクスト性、すなわち、同一作家の他作品との関連についての考察も意義深いものにする。実際、この踊り子が、各作家の作品全体においても重要な役割を果たしていることが明らかにされる。以下、各作家に捧げられた章が一貫して辿るこの論証プロセスを簡単になぞってみたい。

 

ボードレール的序文として

 著者は、マラルメとユイスマンスの手になるいくつかのテクストが、ボードレールの「香水瓶」の書き換えであると論じた上で、この詩編を中心に『悪の華』全体を読解しながら――この詩集にサロメは登場しないが――、詩集に潜在する古代オリエントの踊り子の姿を浮かび上がらせる。そしてこの「蛇」のような踊り子は、また散文詩集『パリの憂愁』において、とりわけ「ティルス」において、散文詩の詩法を象徴する。踊り子はボードレールの韻文詩と散文詩を媒介する詩(ポエジー)の表象となる。このことにより、ボードレールは、次章以降で取り上げられる3作家の先駆けと位置づけられる。


『エロディアード』あるいは現代の美

 1864年、マラルメが演劇作品として構想した『エロディアード』が詩編と規定し直され、精神的「危機」の時代を経て、1880年代と1890年代の神秘劇「結婚」へと辿り着く経緯を押さえた上で、著者は、マラルメの手稿やメモをも用いて『エロディアードの結婚』の構造を再現して見せる。そして、この作品が虚構の婚姻を表し、エロディアードが現代的な人間美と詩(ポエジー)の表象であることを指摘する。著者はまた以下のように指摘する。マラルメのエロディアードは、ソロモンの雅歌からオーバネルまで数多く用いられてきた、ざくろという紋切り型の表象に還元されるが、マラルメの革新性は、エロディアードという語の意味論的、音韻的側面を中心に作品を構想している点にあること。花もまたエロディアードに与えられた特権的な隠喩であり「舞台」の詩句は花を軸に展開すること。しかし彼女は「終曲」で開いたざくろへと変貌を遂げること。そして、少女のこの変貌は、語の詩的自律性の実現という詩学上の象徴を有していることである。つまりこの作品は、「語こそが常に第一の地位を占めるような、まったく新しい現代性」(p.64)を体現しているのだ。『エロディアード』はまた、マラルメ作品全体で中心的位置を占めることを、「贈る詩」や「聖女」を読み解きながら、著者は論じる。さらに本章からは、『エロディアード』がマラルメの後年のダンス論と接続され、詩人の詩的・美学的考察を深化させることが分かる。『エロディアードの結婚』が表す理念的結婚のコンセプトも、マラルメの全作品に通底するものであると指摘しつつ、著者は、この点については、とりわけ「書物」に注意を促している。マルシャル氏は本書の論証のために多くの資料を用いているが、本章の終わり近くで、「書物」に関する草稿を解読し直し、先行校訂者たちの判読に対する修正を挟みつつ、『エロディアードの結婚』と「書物」における結婚コンセプトの相同性を明らかにしていく箇所は特に圧巻である。


『ヘロディアス』

 フローベールにとってサロメは、伝統的な叙事詩から英雄性を捨象し、ブルジョワ化した長い散文に付与するべき詩(ポエジー)の表象であると著者は考える。著者は、小説『ヘロディアス』の構想の初出資料(1876年の書簡)、作家の歴史的理解を形成したルナン『イエスの生涯』、物語の着想源に関する先行研究を挙げた上で、作家が1850年から51年に書いた、エジプト旅行関係の前テクストと、マクシム・デュ・カンの覚書(1853年出版)を用いながら次のことを示している。まず、作家はサロメのダンスを詳しく描写しているが、その源泉の一つに、彼が若い頃旅で出会い、情交を結んだエジプトの踊り子クチウク=ハーネムのダンスがあること。次に、サロメのダンス場面には、他の多くの作品と同様、作家が15歳の時にポムルー侯爵邸で体験した舞踏会の場面が潜在していること。そして、サロメの出現場面は、作家の手になる他の女性登場人物たちの場合と同様、クチウク=ハーネムとの出会いの場面を下敷きにしていること。ヒロイン達の像はユゴー『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダをもモデルにしていること。しかしまた、作家のクチウク=ハーネム像自体が、斬首と結びついた聖書の踊り子と、それを表したルーアン大聖堂のレリーフに重ね合された心像であることだ。このようにクチウク=ハーネムとサロメは相互に源泉となりつつ一体化し、他の女性登場人物の造形に結び付く。そして最後に、ダンスの後サロメに聖ヨハネの首を与え、物語開始直後と同じメランコリーに再び捉われるヘロデ王の静思が、ポムルー侯爵邸の舞踏会後の場面から派生しており、かつアンティパス自身の(象徴的な)斬首を示唆していることを、著者は上記資料に基づき論じている。著者はまた、太陽神話と重ね合わされた斬首や、サロメのヴェールの象徴的意味を考察し、テクストの象徴的意味を示す。それはテクスト自体が唯一の神性として存在しているということだ。そして、クチウク=ハーネム/サロメが様々な統合の末に、文学の伝統的ジャンル区分を乗り越える詩(ポエジー)、「現代の美のフィギュール」(p. 177)になると結論する。それは、サロメと同様クチウク=ハーネムから造形された女性登場人物たちを通して、作家の小説作品全てに潜在するフィギュールでもある。


『さかしま』

 著者は本章導入部分で、『さかしま』(1884年出版)が文学的・美学的宣言であると言明し、ユイスマンスを巡る1880年代半ばの文壇情勢を概観しつつ、本作品におけるボードレールの影響、メタ小説的な構造、作品の文学史上の意義に言及している。作品中のサロメ像にはこれらの属性が集約している。本作品では、まず第5章でモローの『ヘロデの前で踊るサロメ』と『出現』の、文章による描写(エクフラシス)が展開されることによりサロメが喚起される。このエクフラシスを分析しながら、マルシャル氏は、文章が元の絵画を超越して自律性を獲得していると指摘する。この指摘は『さかしま』の草稿と最終稿の比較にも依拠している。彼によれば、この絵画から文学への転換は、第14章で2枚の絵にマラルメの『エロディアード』が加えられる場面で完遂するのであり、そこでは3枚のサロメ像を通して、彼女の衣服が漸次的に剥ぎ取られると同時にその身体性が捨象され、彼女は純粋に文学的な存在(声)に変容する。また、大花に喩えられ性病を表象するサロメは、主人公が抱く梅毒への恐怖を介して、小説全編に遍在するのだが、この病すなわち悪を、ボートレールを経て文学により昇華させた到達点がマラルメの『エロディアード』だというのが著者の見解である。ここでいう文学は、踊り子から、花、香りと進む精製行程の最終段階であり、また語の凝縮という技法により成立している。主人公が夢見るのは、この技法を小説に応用した「散文詩の詞華集」(p.191)ということだが、それは小説と詩(ポエジー)の従来的区分の超越を意味する。さらに、ユイスマンスの目的は、フローベール『アントワーヌの誘惑』を「洗練された」(p.195)作品に書き換えることであり、洗練こそがユイスマンスの現代性の特徴である。著者はこのことを、テクスト分析の他に、作家の美術評や、モロー、ドガに関する論考の比較検討に基づき論じている。著者によれば、『さかしま』は『ヘロディアス』の書き換えでもあり、件のエクフラシスが行われるのもサロメのより優れた現代的な喚起のためなのだ。ボードレールもまたより現代的な詩人に凌駕されるが、本小説の虚構性や、結末の象徴的意味はなおもボードレール作品との間テクスト性によって導かれるようだ。そして、本章最後の数頁で、著者は『さかしま』が以降のユイスマンス小説の基本となる作品であり、サロメが作家のカトリック的小説においても、文学的理想の形象であることを示している。



 3人の作家にとって、サロメはそれぞれ新たな美を備えた文学の形象であり、そのダンスを通して理想の書物への移行を可能とする。しかしこの現代性の体現者は、3作家の共通項である大聖堂を通して、『ノートル=ダム・ド・パリ』のエスメラルダに結び付けられ、ロマン派的な大聖堂の夢を思い起こさせる。そして著者は、それを両義的に踏襲するラフォルグのサロメに言及し、また新たなサロメ像を示唆して本書を終えている。

 本書は、19世紀後半のサロメ流行の深層で進行していた文学の変容が、つまり詩(韻文)と散文の垣根を越え至上の文学を目指す試みが、サロメ像に託され展開する様を、鮮やかな手つきで表出させている。そして、それを可能にしたのは、著者の鋭敏なセンスや洞察力、力強い総合力だけでなく、気の遠くなるほど精密で忍耐強い調査と考察の積み重ねなのだ。実証的な論証方法が、ある作品の細部の意味や、ある伝記的事実の解明という、ミクロの次元の成果を得るに留まらず――それも大変重要ではあるが――、また個々の作家の意図に終着することなく、より大きな次元にある集合的な事実や、時には作家の無意識に属するプロセスの究明に寄与するということは、文学研究の大きな可能性を示しているのではないだろうか。いまだ構造主義的研究方法が隆盛を誇っていた時代に、自身の研究方法を確立した著者の傑作と言える。

 ところで、本書はサロメの「神話mythe」を扱った書であるが、「神話」の類義語に「伝説légende」がある。これらの語の正確な定義はともかくとして、日本でもカタカナの「レジェンド」が、常ならざる偉業を達成した人物、特にスポーツ選手を指すために使われるようになってからしばらく経つ。読者は本書を通して、また著者と交流のある大鐘氏があとがきに付したいくつかの伝説的なエピソードを通して、文学研究の世界にも「レジェンド」が存在し得ることを感得するだろうか。

 マルシャル氏が再び日本の地に降り立ち、知的で鮮烈な風を直に届けてくれることを切に願いつつ、氏のもう一つの傑作『マラルメの宗教』の訳書を――水声社より近々刊行予定という――楽しみに待とう。

 本書はまた、訳者を通じて、日本におけるサロメ受容についても問いを投げかけてくる。大鐘氏はあとがきで、日本でのサロメ受容史とその現状の解説に一定の紙幅を割いており、大変興味深い。氏はそこでサロメと言えばほぼオスカー・ワイルド一色の日本の現状について問題提起を行っているのだが、本書はこの現状に変化をもたらすきっかけとなるだろう。それにより本書が日本の西欧文化理解にも貢献することを思う時、研究者のみならず一般の読者にも向けて文学の研究書を翻訳する意義についても考えさせられる。

 最後に翻訳に関してだが、原書のフランス語は、極めて知的で流麗な文体で書かれている。ただそれゆえに、和訳作業には一定の複雑さが伴ったと想像されるが、本書の訳文は晦渋に陥ることなく、読者が理解しやすいように工夫されている上に、原文に勝るとも劣らない格調を備えている。そしてそれ以上に印象的なのは、本文や補遺で引用されたテクストの翻訳である。特に、『エロディアード』はマラルメ作品の中でも難解な部類であり、しかも「舞台」以外には決定稿が存在しない。「終曲」に至っては、未完の草稿しか残っておらず、脚韻部分こそ全て埋められているが、詩句の他所ではところどころ語句が抜け落ち、いわゆる虫食い状態になっている。にも拘わらず、訳者は精密な解釈に基づき、美しい文体で訳出した上に、原文で詩句の終わりや始めにある語句を、日本語でもなるべく詩行の終わりや始めに置いたり、原文で読点や句またぎにより作られているリズムが、訳詩でも再現されるようにしたりと、工夫を凝らしている。その並々ならぬ労苦と成果に敬意を表したい。


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