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言語と時間の政治学:王寺賢太『消え去る立法者』を読む / 淵田仁

 大著である。本論は王寺賢太『消え去る立法者』(名古屋大学、2023年)の内容を簡便に紹介し、その学術的意義を見定めようとする書評を目指していないことをあらかじめ断っておきたい。というのも、すでにいくつかの書評が書かれており、本書の全体像を理解するにはそれらを読むのが有益である。ゆえに、本論は各章それぞれに対しコメントすることによって実直に『消え去る立法者』を紹介することでは満足せず、本書が実践しているような泥臭い手つきで『消え去る立法者』が提示した問題圏のいくつかに介入しようとするものである。

 「消え去る立法者」という魅惑的な表現から、読む以前に我々はこの書物のなかに〈現代思想〉的な気を衒った議論——もちろん本書は現代思想・現代哲学の議論を多分に前提としているのだが——を想起しがちである。かつ、「立法者」という概念を中心に18世紀の思想家たちの言説が引用されながら本書が編まれていると読者は思ってしまうだろう。しかし、本書をパラパラと捲ってみるだけでこうした偏見、先入観が誤謬であることに気づく。

 端的に言って、本書はモンテスキュー、ルソー、ディドロを読んで書かれた注釈本にすぎない。ただ驚くべきは、『消え去る立法者』が一貫しているのは読むことを諦めないということである。テクストから最適な箇所を引用し解釈するという手段を王寺は採用しない。すべてを説明しようとする衝動に突き動かされて進む。読解の障害になりそうな箇所を見過ごすことなく説明しようとしている。

 またモンテスキューやルソー、ディドロの思想をイズムとして語ることにも著者はあまり関心がないようである。この著者の振る舞いについては私も同意したい。例えばルソーを全体主義者としたり、リベラリズムの擁護者と規定するといった行為は、彼らのテクストの論理構造そのものの読解についてなんら寄与しない。ただ、書かれている文言を論理的に読み進め、通常の人間——私も含まれる——であれば「まぁいっか」と飛ばしてしまいそうな箇所あるいは解釈者の意図にそぐわないテクストの部分にも王寺は拘泥して読み抜いていく。本書の方法論とはこうしたものであり、そのためこれを読むには持続的な忍耐力が必要になる。分かりやすく理解することの無意味さと読むことのマゾヒスティックな快楽を本書は与えてくれる。

 さて、こうした賛辞で紙幅を費やしてもあまり意味はない。中身の話をしよう。『消え去る立法者』は二篇全五章(I-V)から成っている。第一篇(I、II)ではモンテスキュー『法の精神』が論じられ、第二篇(III-V)ではルソーの政治思想全般が取り扱われる。そして本書ラストでは後期ディドロの政治思想が取り上げられる(終章)。しかも『百科全書』の時代までを対象としたディドロの政治思想全体を読解の対象とする『消え去る立法者』の続編が予告され、本書は閉じられる。ゆえに、『消え去る立法者』は現時点では未完の書物でもある。

 以下では私の専門がルソーであることから、ルソー読解に充てられた本書第二篇を中心に『消え去る立法者』の核に迫っていきたい。また『消え去る立法者』の峰は、第二篇のルソー読解にあるといって良い。モンテスキューから受け取った「立法者の形象」とルソーがどのように格闘し、『社会契約論』における「立法者」へと結実したか、そこに何が賭けられていたのか、そしてこの賭金がどのようにディドロの思想へと接続した/しないのかが続刊の課題として最後に浮上する。こうしたルソーを頂点とした山のような構造に『消え去る立法者』はなっている。かつ、第二篇では、『学問芸術論』から始まり『人間不平等起源論』、『政治経済論』(『百科全書』の一項目)、そして『社会契約論』(およびその第一稿である『ジュネーブ草稿』)までのルソーの理論の深化を跡づけている。モンテスキューを扱う第一遍では『法の精神』第六部が読解の中心となっているが、第二篇では『人間不平等起源論』『政治経済論』および『社会契約論』のそれぞれ部分的読解ではなく、全体の読解、一頁ずつの注釈本とも言える内容構成になっている。ゆえに、本論ではルソーを論じた第二篇を主な分析の対象とする。

 第二篇での王寺の読解のポイントは以下の通りである。ルソーは自身の政治思想を深化させるなかでホッブズ、モンテスキューといった先行者たちのロジックに内在する「力の因果性」(『消え去る立法者』297頁、以下本書を引用する際は括弧書きにて頁数のみ示す)による権力正統化のモーメントを徹底的に排除しようとしていた。つまり、ホッブズであれモンテスキューであれ人間本性や歴史からの因果関係の連鎖によって正統な政治の可能性を把握しようとしていた。王寺はこうした彼らの手つきを「回顧的錯覚」(157頁)と呼び、ルソーの戦略がこの「回顧的錯覚」からの徹底的な離脱、つまり現実や自然(状態)に基づかない「権利上」の政治体制を構想しようと目論んでいた、というのが『消え去る立法者』でのルソー解釈の要点である。この自然との断絶というポイントについては私も拙著『ルソーと方法』(法政大学出版局、2019年)で重視した論点であった。

 しかし王寺の議論はここで立ち止まらず、そうした「回顧的錯覚」批判を展開する先でルソーが到達した独自の主権論、つまり人民主権論の特異な論理を発見する。それこそ、外部に依存することなく内在的に主権という超越性を生み出す二重体としての政治体を可能にするものであり、ルソーはこれを社会契約と呼ぶ。この内在的=超越的二重体としてのみ政治は自律した存在として起動し、持続しうる。だが同時にルソーはこの特異な論理を組み上げる際にはさまざまな困難と出会うことになる。その解決として論理的に要請されるのが「立法者」である。

 『社会契約論』第二篇第七章で登場する立法者はルソーを読む者を悩ませるものであった。というのも、ルソーは政治的自律を目指す政治体制を構想しているにもかかわらず、自律とは相反する法を立てる権威的存在がなぜ要請されるのか不明だからである。見せかけの自律にすぎないような記述を私たちはルソーのテクストからいくつも発見してしまう。ゆえに人はルソーを矛盾の人と捉えたり、『社会契約論』を人民主権が原理的に不可能なものであることを示したペシミスティックなテクストという仕方で理解してきた。あるいは見せかけの自律から彼の政治思想に漂う全体的主義的雰囲気を人は糾弾してきた。

 王寺はこうしたルソー解釈をすべて退ける。立法者も一般意志もすべては「回顧的錯覚」を断ち切り、政治的自律の生成にとって必要不可欠なものであると王寺は考えている。本書を読み、私は王寺のルソー解釈においては重要なポイントが言語(言語行為)と時間にあると考えた。よって、以下ではこの言語と時間という二つのポイントに焦点を当て、王寺の議論をより詳細に見ていこう。


政治的臨界点に位置する言語行為

 『消え去る立法者』における特徴的な読みのひとつが言語ないし言語行為への着目である。王寺はルソーの政治思想において散見されるさまざまな理論的アポリア(この内容については後述する)や論理の転換点に言語の問題を見出す。具体的に見ていこう。

 『人間不平等起源論』第二部冒頭は自然状態と社会状態を区切る有名な箇所である。「土地を囲い込んで「これは私のものだ」と言うことを思いつき、それを信じるほどに単純な人々を見出した最初の者こそ、政治社会の真の創設者であった」[1]。所有が始まる原初的スペクタクルである。ここから人間は不平等の世界に転落していく、というのがルソーの主張とされてきた。王寺はこの最初のシーンに着目し、「これは私のものだ」と叫ぶ者に王寺は立法者の形象を見出す。『社会契約論』第二篇の箇所のみならず、ルソーの政治的著作の至るところに立法者は顔を出す。王寺はこのさまざまな立法者をルソーの論理の特異的契機のなかに見出していく。

 さて、『人間不平等起源論』第二部冒頭で登場する立法者的人物は所有がない世界に所有を確立させる者である。しかもルソーはこの人物を「詐欺師」と呼ぶ(「同類たちに向かって「この詐欺師に耳を傾けてはならない(……)」と叫んだ者があったなら、どれほどの犯罪と(……)悲惨とおぞましさを人類に免れさせることができただろうか」[2])。王寺はこの詐欺師的立法者が「『不平等起源論』のなかで最初に話す主体」(173頁)であることを指摘している。確かに、『人間不平等起源論』第一部でルソーは言語の誕生の困難を殊更強調し、コンディヤックのような自然に言語が登場するという起源論を描くことはなかった。話さない者たちのなかから突如「これは私のものだ」と叫ぶ人間が現れ、同時に所有を宣言する。つまり、ルソーは所有のはじまりに言語行為を見ていた。

 『人間不平等起源論』の詐欺的立法者の形象はここだけではない。それは不平等な社会が成立するもう一つの重要な局面である悪しき社会契約である所有権と実定法の確立のシーンである。自然状態から遠く離れ、冶金と農業による分業を経て、人類は持つ者である富者と持たざる者の貧者のあいだの階級闘争状態へと至る。ただし注意すべきはここで富者は何の権利も権限も有していないただ持っているだけの存在であり、いつ何時団結した貧者たちに掠奪されるかわからない。こうした所有〈権〉と法の不在に恐怖する富者はとある宣言を思いつく。「われわれは団結して、弱者たちを圧制から守り、野心ある者たちを抑制し、各人に自分の属するものの占有を保証しよう」(186頁)。こうして富者と貧者の共同体が設立され、ただある不平等は所有権と法の下での不平等へと正統化される。これが人間の不平等の起源であり、それは自然状態からの必然的帰結ではない。

 王寺はここに富者の巧妙な言語行為を読み取る。それは先の宣言にある「われわれ」という発話である。そもそもこの発話以前に彼らのあいだに共同体は存在せず、少なくとも富者自身は貧者たちによって攻め立てられる状況にあった。しかし、富者は貧者たちを含め同じ構成員として「われわれ」を主語に語り出す。「自分自身の利害含みの提案を「われわれ」を騙ることによって偽装し、同時に貧者の対立のなかにある誰にとっても自身の利害が再認できるように言語的に組織してみせた」(188頁)富者はまさに詐欺師的立法者と呼ぶにふさわしい。

 二度にわたる詐欺師的立法者の言語行為を描くことで、ルソーはこれまでの社会契約説の詐欺性を露見させる。こうしてルソーは正統な共同体の成立要件を『政治経済論』、『ジュネーヴ草稿』を通じて模索し『社会契約論』にて完成することになる。そして、王寺はルソーが編み出した正統な社会契約のなかにも言語行為が鍵となっていることを指摘する。

 ルソーの『社会契約論』解釈史にはさまざまなモーメントが存在するが、その一つが1967年である。その年のパリ高等師範学校関係者たちが刊行していた研究雑誌『分析手帳Les cahiers pour l’Analyse』第二巻にアルチュセールは一本のルソー論を発表した。それが「〈社会契約〉について(齟齬)」であった[3]。高等師範学校にてアルチュセールがおこなっていたルソー講義の『社会契約論』の箇所をまとめたものが本論文であるのだが、そこでアルチュセールは有名なテーゼを発表した。それがルソーの社会契約論に潜む論理的アポリア(齟齬、ズレ)である。ルソーの社会契約は個人と共同体のあいだでなされるものとして記述されているが、その共同体自身は契約そのものによって産出される。ルソーの社会契約論は当のものを生み出すのが当のものである、という根源的齟齬を含んでいる。こうアルチュセールは主張し、その齟齬の意味を探究していった。こうしてルソー研究史に一つのモーメントを打ち立てた。このルソー解釈から、五月革命前夜のアルチュセールの思考のなかに「始まり」の問題があったことは容易に理解できる。

 さて、王寺のルソー解釈はアルチュセールが推し進めた場所から再開される。具体的に言えば、アルチュセールがルソー読解でこだわった『社会契約論』第一篇第六章の「全面的譲渡」の場面ではなく、その直後の「社会協約pacte social」の文言に王寺は着目する。


 したがって社会協約からその本質に属さないものを除くなら、以下の文言に集約されることが分かるだろう。「われわれ各人は共同で自分の人格とすべての力能を一般意志の至高の指揮下に置き、われわれは一体となって各構成員を全体の分割不可能な部分として受け取る」。[4]


 王寺は上記引用箇所で登場する二つの主語「われわれ各人Chacun de nous」と「われわれnous」に着目する。王寺はこの二語にアルチュセールが指摘した以上の齟齬を見出す。というのも、「われわれ」というアルチュセールが指摘した共同体の論点先取のみならず、「われわれ各人」という協約に参加する個々人そのものも「当の協約が創出すべきものとの関係によって規定されているからである」(292頁)。つまり、ルソーが共同体と個人がともに行為遂行的発話によって創出されることを目指していると王寺は解釈する。現代言語学の理論を援用しながらコミュニケーションの場面として「われわれ各人」の創発を王寺は説明しようとしているが、ここで押さえるべきポイントは、「私」が先行して存在することなく「われわれ各人」を創発する身振りがルソーのテクストにはあるということである。その理由は、ホッブズ、モンテスキューが政治の世界に導入していた「力の因果性の支配圏」(297頁)とは切り離された政治の創設をルソーが予々目指していたからである。

 だとすれば読者はこう思わざるをえない。「いつそんな奇蹟的発話があったのか?」と。王寺はこの疑問を先取る形で社会協約の条件について語るルソーの文言を引用する。


行為の本性によって規定されており、少しでも変更されれば無為で効力を失うので、おそらくはこれまで正式に言表されたことがなかったとしても、至るところで同一であり、至るところで暗黙のうちに認められ、承認されている。[5]


「言表énoncer」という表現に着目しよう。確かにルソーはこの協約を言葉の発話として考えている。しかも同時にこの発話がなされなくてもその協約が実行されたものとみなしうるということもこのテクストは意味している。この協約が潜在的に存在したという暗黙の了解が『社会契約論』の最大の要所であるとみなし、この潜在性のロジックを補完する者こそ立法者であると王寺は解釈する。アルチュセールが〈始まり〉の問題にこだわったとすれば、王寺の議論は〈始まっていたかのように考える〉という事後性の問題に焦点が移動している。

 ついで『社会契約論』第二篇にて展開される立法者論も一種の言語行為論として王寺は解釈する。王寺の読みの要点は、潜在的な社会契約を現勢化させる者として立法者を捉えるという点に存する。『社会契約論』で「人民の創設は二度繰り返す」(322頁)論構造になっている。一度目は潜在的な発話される社会契約としてであり、二度目は立法行為によってである。しかし、立法行為を人民に委ねるということは個別意志が衝突し合う「力の因果性の支配圏」のなかで法が立てられることを意味してしまい、ルソーの目論見は御破算と化す。ゆえに、個別意志と個別利害を超克した超人的存在である立法者が要請されるのである。

 ここでも王寺は、言語に着目する。つまり、立法者と人民のコミュニケーションである。立法者は「論破することなく納得させる」[6]仕方で、個別意志のみに拘泥する人民たちに語りかけ、主権者人民の一般意志を現勢化(=立法)させようとする。だとしても問題はどんなコミュニケーションを人民と取り持つのかという点へと至る。「「社会協約」が「われわれ各人」が一斉に「われわれ」と語り出す唱和の一場面として想定されていたのとパラレルに、立法者の発話は、知性的というより感性的で、ほとんど音楽的な言語によって人民に訴えかけ、人民の賛同を得るのだと考えることも許させるだろう」(326頁)と考え、王寺は歩みを進める。音楽的言語というアイデアを王寺はルソー『言語起源論』の一節(この一説に着目したのはルソー研究者の増田真)から着想を得て、論を進める。人民と共有する言語を持たない立法者がそれでも人民に語りかけ彼らを変化させる必要があるとき、そこで登場するのが音楽的的言語である。

 王寺がルソーの立法者のなかに「オルフェウスの神話的形象」(327頁)を見出すとき、本書では言及されていないが『エミール』第四巻に挟まれる物語内物語である「サヴォワ助任司祭の信仰告白」が想起される。自然教育を施され自然的世界しか知らないエミールに神や善といった抽象的概念ないし宗教世界の精神性を獲得させるという難問に突き当たったルソーは、青年に自然宗教を語る助任司祭のシーンをエミールの教化の方法として提示している。そこでの助任司祭の語りは「神に等しいオルフェウスがはじめて讃歌をうたい、人間に神を崇めることを教えるのを聴くかのようだった」[7]と形容されていた。つまり、ここで立法者と助任司祭は音楽的言語を話す人物として重なり合う。内実なきコミュニケーションによってのみコミュニケーションが成功するという破綻を含む理論に賭けるルソーの姿は滑稽だろうか。

 だが政治や教育に存するロマン的な側面を見て満足してはいけない。王寺が明らかにしたことは、語る/歌う者たちの形象から垣間見える詐欺師性である[8]。何かを発話し開始することそれ自体に内在するペテン的要素をルソーは『人間不平等起源論』に登場する富者の形象からずっと意識していた。しかし、ホッブズ-モンテスキュー的「力の因果性」とは別の仕方で政治を構想することを希求するルソーはこの言語の詐欺的行為性に依拠する形で議論を成立させるほかなかった。だとすればルソーが次にやらねばならないこととは、可能性の限界として要請される立法者を葬り去ることである。ゆえに、ルソーの共和国から立法者は消え去ることになるのである。そしてこの論理を準備するなかで、ついでルソーは政治と時間の問題へと歩みを進めることになる。この『社会契約論』に隠された時間の問題を浮上させることで王寺はアルチュセールとは別の仕方でルソーの革命性を見出すことになる。


時間と革命

 王寺のルソー読解のもう一つの功績は、ルソーの社会契約説が非時間的であり純粋に論理的な構造体ではないこと体系的に説明した点にある。ルソーの論理に従えば正統な政治体を構成できるというような解釈ではなく、徹底的に時間の流れそのもののなかにしか正統な共同体はあり得ないことを王寺は明晰に示した。例えば、立法者の「奇蹟」が奇蹟であるかは立法者によって設置された法律に人民が服従し、かつ主権としてみずからの立法権力を人民が行使し続けているかどうかにかかっているという読みである(この立法者解釈は、本書終章におけるレナルのパラグアイ布教区に対する評価基準につながる)。これはまさしくルソーが自身の理論を静的な構造体として構想していたのではなく、ある時間軸のなかで政治体が持続ないし消滅していくことの政治的意義を『社会契約論』のなかで示しているということを意味する。

 『社会契約論』の全四篇のうち社会契約、主権、一般意志について説明がなされる第一篇、第二篇が主に解釈されるのが常であった。しかし、近年では主権と統治の関係性の観点から第三篇、第四篇が重視される研究も多く出てきた(例えば、ブリュノ・ベルナルディの『ジャン=ジャック・ルソーの政治哲学』(2014年、勁草書房)や西川純子『統治のエコノミー』(2022年、勁草書房)を挙げることができよう)。『消え去る立法者』にとっても第三、四篇の分析は重要な位置を占めている。もっと言えば、この『社会契約論』後半の部分こそ、ルソーの政治思想におけるアーセナルといってよい。つまり、革命の問題である。ルソーの政治思想にとって革命の理論は時間の理論である、ということを王寺は示した。説明しよう。

 社会契約がなされ政治的共同体が成立したあと、政府が設立される。ホッブズらの統治契約説を採用せず、ルソーは政府の設立を契約と考えない。王寺はこの議論をまとめて以下のように言う。「政府の設立は、人民が主権者として法律によって政府の形態を定め、次いでその主権者人民が瞬時に民主政政府に転換して公職者の指名を行うことによって実現する」(359頁)。権利の移譲や信託という仕方で政府は設立されない。専ら、それは主権者の指名という行為にしか基づかない。ゆえにそこから、人民の政府に対する反乱の可能性は理論的にあり続ける。かといって王寺はルソーの統治論のなかに永続革命を見るわけではない。むしろ、ルソーが革命や紛争の潜在性を制度化している点に着目する。それが『社会契約論』第三篇末尾で展開される人民集会論である。ルソーの人民集会に関する議論から王寺は以下のように帰結する。「いかにも逆説的だが、〔人民集会による〕この法律の破棄、社会契約の破棄こそが、主権者人民による一般意志の正統な表明、立法権力の正統な行使なのだ」(361頁)。社会契約の破棄によって人民は政府を葬り去り、新たな社会契約=「われわれ」の発話を開始することができる。時間という審判から政治体は正統性を備給しているのである。

 『社会契約論』第四篇ラストの「市民宗教」論もこの政治体のなかに流れる時間のなかで社会契約を反復し、現勢化させるものとして王寺はテクストを読み込む。国制を強化する手段として古くからルソーの市民宗教論は解釈されてきた。王寺も基本的にはその方針に賛同しつつも、市民宗教を単なる統治の制度として捉えるのではなく、人民の絶えざる言語行為として見なしている。市民宗教とは社会契約と立法者による法の生成が過去にあったことを人民各人が「信じる」ことを信仰告白によって行為遂行的に反復するものであり、実践的な活動として『社会契約論』のなかに置かれている。つまり、「政治体の起源に「権利上」措定された社会契約を市民各人が更新し、現勢化する儀式に他ならない」(391頁)。ここでも王寺の視線はある時間軸上にある死にゆく政治体に向けられている。そして先の人民集会の議論同様、市民宗教論に内在する社会契約の破棄の問題に王寺が着目している点が重要である。ルソーが描く信仰告白は市民に対して政治体の正統性を認めさせるための装置ではなく、むしろ「社会契約の更新か破棄か」(392頁)の選択を迫るものである。ゆえに、市民宗教も人民集会同様、人民が社会契約を破棄し、新たな政治体の創設を可能にする理論的な装置となっている。『社会契約論』のなかに散りばめられた潜在的革命性を王寺は丹念に救い出し、政治が時間とともにあることを解明している。

 時間のなかにのみ政治体は存在し、終わりの後には始まりがある……。アルチュセールがある変転の「始まり」、より明確に言えば「始まりを起動すること」にこだわっていたのだとすれば、王寺の視線は「終わりの始まり」に向いているといってよい。何かを始めることではなく、つねにすでに始まっているものの終わりがただの始まりとして世界に来たることを王寺のルソー読解は私たちに示してくれているのだろう。

 以上、『消え去る立法者』第二篇を中心にその読解の要点となる言語と時間を中心に論じてきた。政治的に自律した主体の創設を理論的に基礎づけ、そしてその理論化の果てに生じる回避不能な空隙を補完するのが消え去る立法者であること。こうした徹頭徹尾ロジカルな思想家としてルソーを位置づけることに本書は成功している。『消え去る立法者』は人民主権という手垢がついた発想をその原型が留めないほどまでにラディカルに書き換えた。徹底的にテクストに寄り添いながら、ルソーの政治思想を一本の論理として再構成してみせる本書が世に出た今、私は王寺の読み以外にどうルソーを読めばいいのだろうかと少々困惑している。



参照作品略語(ルソーのテクストに関してはプレイヤード版全集[Œuvres complètes, 5 vols., publiées sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, Paris, Bibliothèque de la Pléiade, 1959–1995]の頁数を示した)

DI:『人間不平等起源論』

CS:『社会契約論』

E:『エミール』


[1] DI 164/172頁。ルソーの訳文は『消え去る立法者』のものを用いている。

[2] Ibid./同頁。

[3] Althusser, Louis, « Sur le ‘Contrat social’ (Les Décalages) », in Cahiers pour l’analyse, no 8, mai-juin 1967, p. 5–47. 〔ルイ・アルチュセール「「〈社会契約〉」について」『マキャベリの孤独』、福井和美訳、藤原書店、2001年、84–134頁。〕

[4] CS 361/291頁。

[5] Ibid./299頁。

[6] CS 383/326頁。

[7] EL 606.

[8] 青年に語りかけるサヴォワ助任司祭の詐欺的振る舞いについては、拙論で一部議論しているので参照してほしい。淵田仁「「信仰告白」が『エミール』に為そうとしたこと」『ルソー論集』、永見文雄他編著、中央大学出版部、2021年、67-90頁。

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