ジャン=リュック・ナンシー『モーリス・ブランショ——政治的パッション』(安原伸一朗訳、水声社、2020年)/ 上田和彦

更新日:2021年2月1日

 本書は、Jean-Luc Nancy, Maurice Blanchot— Passion politique, Galilée, 2011を、ブランショのとくに両次大戦間期に詳しい安原伸一朗が全訳し、詳細な註と解説を付したものである。原書は、モーリス・ブランショがロジェ・ラポルトに宛てた1984年12月22日の書簡、ディオニス・マスコロがフィリップ・ラクー=ラバルトに宛てた1984年7月27日の書簡、およびこの二つの書簡に関するジャン=リュック・ナンシーの解説からなる。ブランショの書簡の内容は、両次大戦間期の自身の活動についてである。そんな書簡をなぜブランショは1984年に書いているのか。なぜラポルト宛なのか。なぜラクー=ラバルト宛のマスコロの書簡が付けられているのか。目次を目にした読者は訝ることだろう。

 これらについてはナンシーが解説で詳しく説明しているが、要点はこうだ。1984年、ナンシーはラクー=ラバルトとともに『カイエ・ド・レルヌ』誌のブランショ特集号を編集しようとしていた。彼らが編集の方針にしたのは、単なる学術論文の寄せ集めにはせず、名を成している作家からオマージュを引き出すこと、そして、1930年代のブランショの政治的見解をめぐる「糾弾と弁護の粗野な対立」を乗り越えることであった。当時、ジェファリー・メールマンの論攷「『コンバ』時代のブランショ」に端を発し、1930年代ブランショの活動——とりわけ反ユダヤ主義的な言辞——について、けたたましい論争が起こっていた。この論争に見られる「糾弾と弁護の粗野な対立」を乗り越えるべく、ラクー=ラバルトがブランショと何通かの往復書簡を交わす。ブランショはそれらの書簡に散りばめた考察をひとつの資料としてまとめようと思ったらしく、それをラポルト宛に——ラクー=ラバルトに渡してもよいと断ったうえで——送る。ブランショがこの書簡をラクー=ラバルトにではなく、ラポルトに送ったのは、ラポルトがブランショとの長年の友情をもとに、戦前から戦中、戦後のブランショの「転向」と見える振る舞いについて忌憚なく本人に説明を求めるのを引き受けてくれていたからだ。この書簡は特集号のなかでひとつの資料として公開されるはずであった。ところが、特集号への寄稿を依頼した人びとから断りの返事を相次いで受け取り、特集号の企画は頓挫してしまう。ナンシー、ラクー=ラバルト、ラポルトは、特集号によって環境が整わない以上、この書簡を単独で公開すべきではないと判断する。その書簡が、2011年になって公開されているのである。

 なぜナンシーはこの書簡を公開しようと思ったのか。ひとつは、ブランショの戦前の活動を客観的に検討できる環境が整ってきたからであろう。ナンシー自身が触れているように、1990年代後半頃から、戦前の活動を視野に入れてブランショを考察しようとする研究者が現れてくるようになり、この書簡の一部がラポルトとブランショ自身の了解を得たうえで研究書で公にされ、詳細を尋ねてくる他の研究者も出てくる。1998年にはクリストフ・ビダンによる大部のブランショ伝(邦訳は『モーリス・ブランショ——不可視のパートナー』水声社、2014年)も刊行され、戦前のブランショについて詳細に知ることができるようになった。もうひとつの理由は、この書簡が書かれた背景を知る生き証人が自分一人だけになったしまったからだとナンシーは言う。なぜ当時、戦前のブランショの活動を検討しようとする自分たちの企画が頓挫したのか。すべてを説明しつくすことができるとは思わなかったにせよ、頓挫の理由を考察するうえで必要な情報についてナンシーは是非とも証言しておかねばならないと思ったのだろう。

 ナンシーが回顧するには、当時、戦前のいくつかの「右派」に関して問うことが、いわばタブーとなっていた。ファシズム的と見なされる運動を考察していくと、民主主義が孕む問題に突き当たる。しかるに、数々のファシズムを招来した原因がそもそも民主主義そのものにあったのではないかと問うことには抵抗感がある。ファシズムを断罪すること以上に、ファシズムについて知ろうとすれば、そしてさらに民主主義の問題点を指摘しようとすれば、ファシズムと共犯関係にあると見なされる。そんな風潮が戦前にあったのだが、とりわけ戦後は、民主主義を擁護しなければならないという考えが広く共有されるがゆえに、ますます強くなったと考えられる。戦前のブランショを検討しようとする企画が挫折した一因は、1980年代にいたってもそうした風潮が続いていたことにある。ナンシーは、同様の風潮は現在でも残り続けていると見ている。そうした訳で、ブランショの書簡を公開するにあたってナンシーは、民主主義自体の問題から両次大戦間期の数々のファシズムとコミュニズムの運動を検討する必要性を説いたうえで、この書簡を解説しようとする。

 それでは公開されたブランショの書簡では何が語れているのか。そこには戦前のブランショが記事や論攷を執筆していた新聞や雑誌を運営していた人々、その雰囲気、そしてブランショがどのように関わっていたかについて、貴重な証言を読むことができる。ただし、これはあくまでも回想によって書かれたものであり、ブランショが語る内容はひとつひとつ検証する必要がある(その意味で、安原伸一朗が付けた詳細な註と解説はこのうえなく重要である)。とりわけ、ブランショ自身が口にしている「転向」については、この書簡を読むだけではいかなる「転向」なのか判然としない。ブランショの「転向」についての研究はすでにいくつかあるが、この問題を不偏不党の立場で論じるのは難しい。その時代の思潮や論者の政治的信条によって断罪すべきところと評価すべきところが前もってほぼ決まっており、「転向」の行程があらかじめ思い描かれていることがある。特集号を企画していた当時のナンシーとラクー=ラバルトにも、そのきらいがあった。公開されたマスコロの書簡を読むと、ラクー=ラバルトがブランショに「ファシズムからある種のコミュニズムへの「転向」」の「典型的な道程」を見ようとしており、そのような想定にマスコロは異を唱えて特集号への寄稿を断ったことが分かる。ナンシーとラクー=ラバルトは当時、「政治的なものをめぐる研究センター」を主宰しており、数々のファシズムの起源を民主主義の脆弱さから考察する一方で、コミュニズムのしかるべきありかたについても主張したい考え方があったらしい。特集号を準備するにあたって「粗野な対立」を乗り越える意図があっても、ナンシーとラクー=ラバルトは、ファシズムについて、コミュニズムについて、そしてファシズムからコミュニズムへの「転向」について、ブランショが共有しないかもしれない考え方を打ち出しかねなかったのである。ブランショがくだんの書簡を、直接ラクー=ラバルトにではなく、ラポルトに送っているのは、ナンシー、ラクー=ラバルトに対して一定の距離を保ちたかったからだとも考えられる。

 では、20年以上の月日を経て、ナンシーはブランショの「転向」をどのように考えるようになったのか。ブランショの「転向」の前後には一貫性と断絶がある、とナンシーは考える。断絶については分かりやすい。青年右派のグループのなかにあって、ある種のナショナリズムを顕揚しながら当時の体制を激烈な調子で批判すること——そこには反ユダヤ的な言辞が含まれる——を止め、戦後は、ある種のコミュニズムのかたちを、ある種のユダヤ性を顕揚しながら模索していったのはたやすく見て取れる。読みどころは、ナンシーがいかなる一貫性をブランショに見て取るかである。ナンシーは、ブランショ自身が書簡で「いつも抱いていた」と回顧する「政治的パッション」から一貫性を説明しようとする。ブランショはいかなる「政治的パッション」を抱いていたのか。同様のパッションは、ブランショだけでなく、両次大戦間期に「政治的なものの危機」を感じ取った多くの作家や思想家たちが共有していたものだとナンシーは説明する。国民主権が謳われてから100年以上経つにもかかわらず、主権者たる国民を前面に打ち出すことがいまだにできていない。そんな民主主義をめぐる居心地の悪さにたいする応答としてファシズムとコミュニズムを考察するナンシーは、両次大戦間期のフランスで「政治的なものの危機」により意識的であった「右派」の青年たちのなかにいたブランショもまた、この危機的情況にいかに応答するかに熱情を抱いた一人だったと考える。ブランショのいう「政治的パッション」とは、当時の「右派」の政治的主張に覚える熱情というよりも、あくまでも「政治的なものの危機」へ応答しようとする熱情だった、と。それゆえ戦後のコミュニズムとユダイズムへのブランショの傾斜も、一貫したパッションに由来するものとして考察しなければならない、とナンシーは言いたいようだ。

 そのうえでナンシーがさらに踏み込むのは、戦後もブランショが抱き続けたと見なされる同じパッションに由来する考え方についてである。問題となるのは、通常政治と言われるものよりも「深層」にあるとされる「共同体」——「共同の存在」——についてだ。「共同体」に関してナンシーは、自らの論攷(「無為の共同体」1983年)をきっかけとして書かれたブランショの共同体論(『明かしえぬ共同体』1983年)に、共同性とコミュニズムについて自分が打ち出していこうとした考察の方向——それはまさしくブランショの「無為」という考え方から出発する方向なのだが——から離れた方向、「(エロス的、キリスト的、文学的といった)多面的なコミュニオンを出現させる方向」(35-36頁)を見て取っていた。ナンシーは本書で、この方向がブランショの「政治的パッション」に関わると言い、これからの仕事で扱うことにするとしているが、実際、2014年に出版された『否認された共同体』(未邦訳)で詳細に論じることになる。そこには次のような指摘がなされている。「ブランショには二つの政治があったのだろう。ひとつは民主主義的なもので、諸々の法律よりも上にある正義の法の名の下に不服従を要請する政治。もうひとつは貴族主義的で無政府主義的なもので、法なきパッションと分有されぬ孤独の分有からなる秘密の共同体に結びついた政治である」(La Communauté désavouée, Galilée, 2014, p. 131)。ナンシーが戦後のブランショのうちに見て取った、自分の考察の方向から離れた方向(コミュニオンを出現させる方向)——それをナンシーは、ブランショの一貫した「政治的パッション」から導き出された方向のひとつと考えるのだが——、その方向が詳細な検討を経た後に、もう一方に「民主主義的」な方向があるとされながらも、「貴族主義的」と形容されていることは、きわめて重大である。ナンシーはブランショの共同体論に「貴族主義的」なところがあることをあえて指摘し、自身の考え方——準超越論的共存在論とでも言えようか——との隔たりを示すことによって、「共同体」について、「共に在ること」について、改めて問い直すように促している。もし政治よりも「深い」ところに「共に在ること」という層があり、私たちのあらゆる関係の鍵になるのなら、そのしかるべき在りかたを形成するには政治だけで片が付くのか。もし文学や芸術がその形成を担うことができるのなら、それは「貴族主義的」でしかありえないのか、それとも「民主主義的」になりえるのか。そういった問いが切迫してくるだろう。

 本書の翻訳の部分の内容は難解であるが、安原伸一朗の註と解説のおかげで、ナンシーの解説だけでは分かりにくい、ブランショを巡る80年代の「糾弾と弁護の粗野な対立」の詳細を知ることができ、馴染みのない固有名が散りばめられたブランショの書簡も理解しやすくなる。それだけでなく、両次大戦間期の非順応的な青年たちがどのような「右派」の主張に惹かれ何を拒否しようとしたか、またブランショがどのような政治的言説を展開していたかを知ることができ、ナンシーの言う「政治的なものの危機」への応答によって、当時の「右派」の青年たちの言動を説明し尽くすことができるかどうかをさらに検討したくなる。ナンシーはまったく触れていないが、ブランショはシャルル・モーラスに傾倒していた時期があった。この点を重視すれば、両次大戦間期の非順応主義的知識人がいかなる情況に向き合おうとしたのかについて、また、1980年代の知識人がなぜファシズムと民主主義の問題を検討することに困難を覚えたかについても、考察をさらに深められるだろう。

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