セーヌの岸辺から、しわがれた声のリトゥルネロが聞こえてくる。
──性関係はない
と。いや、それが響いてくるのはむしろパンテオンのほう、だから聖ジュヌヴィエーヴの丘のほうからだ。声はさらにこう続ける。
──女なるものは存在しない……!
フランスの精神分析家ジャック・ラカンが半世紀ほど前に掲げたこれらのテーゼが、本書のモティーフである。
いや、より正確には、本書がめざすのは、前者の命題から出発して、その彼岸を構成する後者の定式に肉迫すること、それを私なりに咀嚼し、展開し、さらには炸裂させることだと言うべきかもしれない。
性関係はない。なぜなら──いかに逆説的にみえようとも、ラカンにしたがえば──ファルスがそれを妨げるからだ。私たちの身体にはロゴスが、つまり言語が乗り入れている。ロゴスは、生命体としての私たちの身体をいわば植民地化するとともに、そこに欲望を、いいかえれば、欲望するものとしての「話す主体」を、不可避的に到来させる。この欲望の到来を印づけるシニフィアンこそが、ファルスにほかならない。
ところが、厄介なことに、ロゴスはまた、それが存在しなかったとしたら他の性とのコンタクトによって生じたかもしれない享楽を、身体の外にいわば追放し、その代わりに、自らの手で希釈された享楽、つまりロゴスの構造と論理によって制御されうる享楽を、身体の隅々にまで、だからひとつひとつの器官にまで、行きわたらせようとする。そのようなロゴス的享楽体制に君臨するのもまた、ファルスである。
欲望のシンボルとしてのファルス──これは、一九五〇年代のラカンの関心事だった。それにたいして、非ロゴス的享楽を追放し、ロゴスによって合法化された享楽を私たちに押しつけるファルスは、一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけてのラカンの宿敵になる。冒頭に挙げた二つのテーゼにかかわるのが、この後者のファルスであることはいうまでもない。
そのファルスを、ラカンは「関数」と呼んだ。つまり、「ファルス関数」と。それは、ひとりひとりの主体xが「男」または「女」としていかに振る舞えばよいか、いかなる語らいや装いや嗜好を選ぶべきかを教える関数であり、私たちが住まうロゴスの世界にはそうした任務をもつf (x)、いや──もともとはギリシャ語である「ファルスφαλλός」の頭文字をとって──Φ(x)が存在しているのだと、ひとまず考えてよい。といっても、Φ(x)はけっして単一の式から成るのではなく、「男とは……」もしくは「女とは……」と告げる無数の言説によって構成される。いいかえれば、それは、ジャックやシルヴィアを、あるいは太郎や花子を、社会的に「男」もしくは「女」として規定し、支え、さらには演出する言説の総体にほかならない。お好みなら、ファルス関数とはいわゆるジェンダーの装置であるといいかえてもよい。一九七〇年代のラカンは、精神分析家の立場から、その装置のヘゲモニーを蹴散らし、突破することに挑んだのである。
重要なのは、この「精神分析の立場から」という点だ。ラカンにとって、それは何よりも、男とは何か、女とは何かを定義する世の言論の総体であるファルス関数が、まさに「ロゴス」とともに私たちの身体に浸透し、それをいわば内側から支配すると考えることを意味する。ラカン以前の精神分析は、それを身体のリビドー化として描いてきた。性欲動のエネルギーである「リビドー」は、はじめは口唇領域に、次いで肛門領域に、そして男女それぞれの性器にと、その主要な陣地を広げていく。ラカンにおいて、それはそのままファルス関数が身体に入植していくプロセスに等しい。もっとも、通常の意味での性差がそこに入り込むには、おそらくエディプスコンプレクスが成り立つとされる時期、すなわち、フロイトが男根期と呼び、英国の分析家たちが(早期の)性器期とみなす三歳から五歳頃の時期を俟たねばならないだろう。だが、いや、だからこそ、ファルス関数はそれだけ深く身体に根を下ろす。というのも、子どもの身体が、まだ男女の差異もあやふやなままに、フロイトによればもっぱら快/不快という唯一の指標にしたがって、性的なものに開かれていく、その過程の延長線上に、「男」と「女」の性の分化が到来することを、これらの理論的連関は示唆するからだ。
いずれにせよ、話存在(はなそんざい:parlêtre)たる人間の困難は、こうしてひとつの身体を領土化したファルス関数が、おのれに見合う享楽、すなわちファルス享楽(jouissance phallique)のみをこの身体に供与し、けっしてこの身体が別の身体、とりわけ別の性をもつ身体によって享楽することを可能にしてはくれないことに存する。なぜなら、「別の性をもつ身体によって享楽する」というのは、けっして異性の相手の身体を使って(その身体に触れたり、触れられたり、挿入したり、されたりして)自分が快楽を覚えることではなく、その身体が享楽するとおりに自らも享楽すること、すなわち、あたかもその身体のなかに潜り込んだかのように、その身体のうちに宿る享楽を自らも共にすることを意味するはずだからだ。残念ながら、ファルス関数はそれを可能にしてはくれない。それどころか、自らが身体にもたらす一定の満足(ファルス享楽)によって、むしろそれを積極的に妨げる。だから、「性関係はない」。つまり、ファルス的満足(フロイトの言葉でいえば、これはすなわちリビドー的満足になる)のゆえに、性関係は──享楽の関係としては──存立しえないのである。
だが、ラカンの教えはここで終わらない。というのも、この性関係の不在(非存在)は、それを埋め合わせる享楽、それを補填する享楽を、伴わずにはおかないからだ。正確には、二つの享楽が存在する。その第一は、いかに逆説的に見えようとも、ファルス享楽そのものだ。ラカンによれば、性関係の不在(非存在)にたいするファルス享楽の関係は、奇妙な二重性によって印づけられる。つまり、身体にひとつの満足を提供することで、性関係(異性の身体による享楽)を阻止するファルス享楽は、まさにその同じ満足によって、事実上、その結果引き起こされる性関係の不在を埋め合わせてもいる、というのである。このあからさまな論理的循環が、ファルス享楽をどこまでも自己充足的な「出口なき楽園」に陥らせることはいうまでもない。私たちの多くが甘んじている享楽とは、まさにこのファルス的ぬるま湯なのである。
ところが、幸いなことに、性関係の不在を補填する享楽には、もうひとつ別の種類がある。こちらの享楽は、ファルス享楽と異なり、性関係を阻碍するという裏面をもたない。したがって、ファルス享楽が自己充足的に囚われる論理的循環は、この享楽には無縁である。このもうひとつの享楽(〈他なる〉享楽、Autre jouissance)、性関係の不在の責めを負うことなく実現されるいわば純粋な補填、無償の補填となるこの享楽を、ラカンは「女の享楽(jouissance féminine)」と呼んだ。女の享楽とは、だから、性関係の不在を補填する、ファルス享楽とは異なる享楽である、ということになる。とすれば、それはいかなる内容、いかなる経験を伴うのだろうか。それが「女の享楽」であるというのは、どのような意味においてだろうか。
いま一度「ファルス関数」に戻ろう。ファルス関数とは、私たち話存在のひとりひとりを男もしくは女として規定する諸言説(ジェンダー的諸言説)の総体であると述べた。だが、ファルス関数そのものによるこのような男性/女性の区別は、いわば一次的な規定、たんにこれらの言説に従うことによって得られる規定にすぎない。それにたいして、ファルス関数をめぐってラカンが行う男性/女性の切断は、Φ(x)を含む論理式をそれぞれ二つずつ組み合わせた形式的定義にもとづいてなされる。一見すると相補的な、しかしラカンがそこに仕掛ける独特な論理(学)的操作によって絶妙に非対称な、これらの式の読解については、本文に譲るとして、そこから得られる男性(的ポジション)および女性(的ポジション)は、一口でいえば、ファルス関数Φ(x)が──それを成り立たせる一個の例外者を除いて──すべての個体(より正確には、いっさいの個体)について成り立つようなグループに身を置くかどうか、より縮めていえば、ファルス関数によってひとつにまとまる集団に帰属するかどうかによって決まる。ラカンにおいて、そのような帰属に同意する主体が「男」と定義されることは見えやすい。通俗的な意味での「男社会」のマッチョな凝集力は、まさにそのファルス的性格に宿ることはいうまでもない。これにたいして、ファルス的集団への帰属に同意しない主体、それどころか、こうした帰属を明確に拒み、それに背を向けてはばからない主体、それこそがラカンの定義する「女」にほかならない。
これらの主体にとって、ファルス関数はけっして「すべてのx」について成り立つわけではない。ファルス関数が「すべてのx」について成り立つと考えるのが男だとすれば、女たちは「すべてならずのxについて」(のみ)それが成り立つと申し立てる。この申し立てがすなわち、ファルス的男性的全体主義を拒絶する女たちの言表なのだ。ラカンがこの「すべてならず」を、あたかも「女」たちの代名詞のごとく扱う所以である。そして、この「すべてならず」の論理は、その本性上それじたいを、だから女たち自身を、貫く。ファルス関数にたいして「すべてならず」と申し立てる女たちは、けっしてこの「すべてならず」のポジションのもとに単一のグループを形成することはない。ファルス的集団への帰属を拒絶する「すべてならず」の論理は、ファルス的集団を越えて、いっさいの集団、均質なかたまりとして形成されるいっさいの集合に適用されねばならない。これは、いいかえれば、「すべての男たち」と述べることはできても、「すべての女たち」と言表することは金輪際できなくなる、いや、してはならない、ということだ。単一の普遍的概念に服するような「女」たちの集合は、まさにこの理由で、つまり「すべてならず」の論理のゆえに、不可能になる。それゆえ、「女なるもの(la femme)」は存在しない。すなわち、すべての女たちに当てはまる「女性性(女であること)」のようなものは存在しない。ラカンはこれを、Laに斜線をつけた「La femme」(「なるもの」の部分に斜線を付された「女なるもの」)と表記することも忘れなかった。
このように、「女なるものは存在しない」は、何よりも「女」をひとつの完結した「概念」として捉えること、そのような概念から出発して女の「存在」──個々の女たちの存在──をつかもうとすることへの、深いアンチテーゼだった。これは明確に哲学的、いや、この時代のラカン自身の造語にしたがえば反哲学的なバトル、すなわち「概念」とのバトルだ。少なくとも──当時を代表するテクスト「うっかり言ったり(エトゥルディ:L’étourdit)」に刻まれているとおり──ラカンにはそのような意識があった。一九六〇年代には、むしろ精神分析が生み出し、培ってきた諸概念の精度を高めることに腐心してきたラカンにすれば、これはきわめてラディカルな思想的転回だ(にもかかわらず、これまで世に問われたラカン論でこの点に触れた著作は少ない)。そのような転回へとラカンを誘ったのがまさに「女」たちについての思索だったという事実を、私たちはいくら強調してもしすぎることはない。ようするにラカンは、女たちとともに、あるいは女たちのために、哲学を捨てたのである。
だが、本書にとって肝腎なのは、「全体」を構成しないこれらの主体たち、すなわち(つねに不特定の)女たちの論理学的(かつ社会的)ポジションが、個々の「女」の主体的ポジション、とりわけ享楽の水準でのそれに直結することだ。ファルス関数にたいして「すべてならず」と申し立てることは、とりもなおさず、この関数に固有の享楽、すなわちファルス享楽にたいしてもやはり「すべてならず(全ならず)」と主張することである。いや、主張するだけではない。身をもってそれを実践すること、経験としてそれを生きることだ。ファルス享楽を享楽の「すべて(全体)」としないこと。仮にファルス享楽で完全に満たされたとしても、その上でなお、享楽の余白を自らのうちに、とりわけ身体のうちに、確保すること。そうすることによってはじめて、ファルス享楽ではない享楽、ファルス享楽を越え出る享楽を、受け容れる余地が生まれる。この享楽、ファルス享楽の彼岸に到来する享楽を、ラカンは「上乗せ享楽(jouissance supplémentaire)」と呼んだ。それは「すべてならず」という女のポジションのみが可能にする「上乗せ」である以上、まさに斜線を付された「女なるもの」に固有の享楽、すなわち「女の享楽」以外の何ものでもない。性関係の不在を補填する(性関係を阻碍する要因となることなく補填する)「もうひとつの享楽」は、こうしてあらためて「上乗せ享楽」という──記述的な──名を獲得したのだといえる。
もっとも、ファルス享楽にたいする「上乗せ」という位置づけは、女の享楽のいわば形式的な定義であって、「女たちはそれをまざまざと感じているが、それについて何も知らない」とラカンが繰りかえすこの享楽の具体的な中身については何も教えない。実際、この中身について証言するようにと分析家たち、とりわけ女性の分析家たちに呼びかけることを忘れなかったラカンは、しかし自らそこに踏み込むことがほとんどできなかった。それゆえ、ここから先の道のりを、私たちは自分自身の足で歩まなくてはならない。本書の後半の数章は、まさにこの歩みのパイロットケースである。そして、ベルニーニ作の美しくもエロティックな彫像で知られるアビラの聖テレサの告白を辿りながら、私が思いきって取り出してみたのが、本書のタイトルでもある「女なるもの〔「なるもの」に斜線〕は不死である」というテーゼだ。上乗せは「上乗せ」である以上、つねに次の上乗せを招来しうる、しかも果てしなく招来しうるのでなくてはならない──ただし、やはり「上乗せ」である以上、同じものの反復であってはならないのだが。これが妥当な定式であるか否か、説得力をもつ命題であるか否かについては、しかし、本書を最後まで辿ってくれる読者諸氏の判断に委ねなくてはなるまい。
だが、このテーゼそのものはあくまで本書の尖端あるいは切っ先にすぎない。本書の切れ味はむしろ、私が本書に課したミッション、すなわち、「性関係はない」と「女なるものは存在しない」という二つのテーゼを歴史の光のなかで捉え直すというミッションのほうで試されなくてはならない。というのも、このテーゼはラカン自身の教えのなかに長い前史をもち、しかもその前史はフロイト以来の精神分析史、とりわけ女性のエディプスコンプレクスと女性のセクシュアリティをめぐって分析家たちのあいだに巻き起こった白熱した論争の歴史的な流れに、棹さしているからだ。そのような歴史的コンテクストを視野に収めないかぎり、ラカンが女性について紡ぎ続けた言説の意義や価値を評価することはできないし、できるはずがない。
それゆえ、本書は二つのパートから成る。前半の「総論」は、いまも述べたとおり、性関係の不在と女の享楽についてのラカンの教えを、精神分析史の遠近法のなかに措きなおす試みである。それにたいして、後半の「各論」では、総論で概観されたラカン理論の陰影や襞を、その「前史」の部分も含めて、ラカン(その人とテクスト)に所縁の深い幾人かの女性たちの形象によってパラフレーズし、例証し、さらにそのポテンシャルを──冒頭に用いた語をここでも繰りかえすなら──炸裂させることがめざされる。それぞれの存在様式も出自も著しく不揃いなこれらのヒロインは、しかし私にとって、女たちについてラカンが教えたこと、教えようとしたことを、まるで高性能のプリズムのように、その身をもって、いや言をもって、色鮮やかに眼前に映し出してくれるという共通の強みをもつ。いや、プリズムというより、彼女たちは精神分析の領界のシビラであり、言説の世界のシャーマンなのだ。おそらく、誇張なしにこう言ってよい。この本を私に書かせたのは、結局のところ、このシビラたちへの私の愛とオマージュであるにちがいない、と。この本はだから、まぎれもない愛の書なのだ。
【このテクストは立木康介氏の近刊『女は不死である──ラカンと女たちの反哲学』(河出書房新社、2020年11月)のために書かれた「(幻の)序文」である(管理者註)】