知と欲望──バルザック『絶対の探求』を読むフーコー / 森本淳生

【『フーコー文学講義──大いなる異邦のもの』(柵瀬宏平訳、ちくま学芸文庫、2021年)書評会(2022年3月26日)の記録】


 1970年3月、フーコーはニューヨーク州立大学バッファロー校にていくつかの講演を行った。昨年10月に柵瀬宏平による優れた翻訳が刊行された『フーコー文学講義──大いなる異邦のもの』(ちくま学芸文庫)に収められた「サドに関する講演」、2019年に刊行された『狂気、言語、文学』(Folie, langage, littérature, Vrin)に収められた「『ブヴァールとペキュシェ』──ふたつの誘惑」、そして同書所収の「『絶対の探求』」の少なくとも三つの講演テクストないしメモが現在のところ知られている。初めのふたつについては『フーコー研究』(小泉義之・立木康介編、岩波書店、2021年)に寄せた論攷「フーコー「文学論」の射程──1970年のサド/フローベール講演をめぐって」で論じたが、フーコーにしてはきわめて珍しいこのバルザック論については紙幅の制約もあって取りあげることが叶わなかったので、ここで概略を紹介したい。

 まず念のために、このバルザックの長篇小説『絶対の探求』のあら筋を簡単に確認しておこう。物語はバルタザール・クラエス=モリナというフランドルの名門貴族が化学者ラヴォワジエなどの影響を受けて、万物の構成原理、すなわち「絶対」を明らかにしようと、家族の貧窮をも顧みず全財産を実験に注ぎ込むことから始まる。妻のジョゼフィーヌは心労がたたり命を落とすが、娘マルグリットは毅然と父を一家から遠ざけ、失われた一族の財産を見事に再興する。バルタザールは結局「絶対」を発見することはできずに、かろうじて臨終のおりに「ユーレカ!」と叫んで息を引き取った。一般にはこの作品は、学者や芸術家がその探求と実生活の間で引き裂かれてしまう悲劇として読まれてきたと言えるだろう。

 フーコーは考察を始めるにあたり、まずこの作品が狂気の徴のもとにあることを指摘する。1964年のテクスト「狂気、作品の不在」を思わせる表現「不在の作品〔l’œuvre absente : すなわち「作品や事業に結実する有為な活動の欠如」〕によって冒頭では『絶対の探求』とともにバルザックの『知られざる傑作』、『ガンバラ』、『ルイ・ランベール』といった作品が挙げられているが、これらはいずれも、才能豊かな画家、音楽家、思索家が作品の完成にはいたらずに狂気に陥ったり困窮したりする物語である。ただし、ここで「作品の不在」と言われるのは、創られた作品を悪魔的に破壊する作業ではなく、作る作業がそのまま破壊の作業であるようなプロセスであり、狂気とはそうした「創造=無化création annulation」(p. 288)の身振りだとフーコーは考える。酩酊のまま天才的だが錯乱した音楽を奏でるガンバラ、探求のあまり乱雑に色を塗りたくりただ一隅に女性の足らしきものだけが見える絵を描いたフレンホーファーは、そうした「創造=無化」の狂気の具体例である。バルタザールはこうした主題を受け継いでいるが、じつはそこには変形も加えられている、とフーコーは言う。というのも、実験室は家族には立ち入り禁止なので、彼の探求の具体的な様子はほとんど分からないからである。バルタザールが破壊するのは、自分の探求というよりは──あるいはそれだけではなく──むしろ彼の周囲に存在する──家族(親子、夫婦)や財産に関わる、あるいは、様々な人々との──諸々の「関係」である。

 では、バルタザールがそこまで情熱を傾けて探求する「絶対」とは何か。フーコーはそれを「生ある自然の統一原理〔unité〕。〔その原理からの個々の個体の〕多様性の産出」(p. 291)とまとめ、その意味でバルタザールは「神」の位置に身を置こうとしているのだという。こうした究極的な創造原理は単一なものだから、それは他者=女性との性的関係を排除するものであり、その意味で知はホモセクシャルな含意を持つ(フーコーは古代ギリシアの哲学者と少年同性愛の問題を喚起している)。実際、バルタザールは従僕にして実験助手であるルミュルキニエに対して貴族の行動規範からすれば「悪しき親密さ」(p. 294)の関係にあり、マルグリットが恋人のエマニュエル・ド・ソリスと初めて使って心をときめかした「私たち〔nous〕」という主語を、自分とこの従僕を指すために用いてもいる(p. 294)。要するに、西洋における知の欲望とは──少なくとも女性という他者との関係を排除した──「関係なき欲望への欲望」(p. 292)なのである。以上のような考察を経て、フーコーは『絶対の探求』の要諦を次のようにまとめている。


バルザックのこの小説の偉大さは、したがって、次の点に由来することになろう。  ──社会、家族、富、財産、交換、要するに他者と他者への欲望のみが問題となる小説的言説の中に、この関係なき欲望への欲望を位置づけたこと。  ──小説全体においては実際、目に見えるものとしては以上のような諸関係しか問題にならず、排除されたものとして窪み〔en creux〕に描かれることになるのが、この〔他者への〕欲望の裏面、他者を排除する欲望なのである。(p. 293)


 実際、バルタザールは実験に没頭するとき、妻をうち捨てて顧みることがない(逆にジョゼフィーヌは、夫を探求から取り戻すべく性的誘惑を試みもする)。また、バルタザールの実験は財産を蕩尽し一家の世間づきあいを破綻させるから、家族は周囲の人々からうち捨てられ「関係なき」状態を甘受せざるをえない。最後に、「絶対」が「関係なき欲望」によってのみ到達できるものなのだとすれば、それは生きている者には知ることができないものであるから、バルタザールはせいぜい臨終のときになってはじめて「ユーレカ!」と叫ぶことができるだけである。結局、『絶対の探求』を密かに支える言説とは次のようなものだとフーコーは言う。


「もしおまえが知りたいのなら、関係の外部に身をおくように。他であるものは何も欲望しないように、あるいは、関係なき欲望に到達することだけをおまえの唯一の欲望とするように。女性より男性を好むように。何故ならいずれにせよ彼らの方が彼女たちよりもいくらかは他者ではないから。だが何よりも、あらゆる人間の不在をより好むように。おまえが自分の欲望をあらゆる対象の外部に留めることができるなら、おまえは発見することだろう、欲望の法則とは、他者ではなく、それ固有の運動、それ固有の分割、欲望をたえず増殖させ自己自身から欲望を生まれさせる分裂、みずから生じさせる自己自身との差異である、ということを。おまえは自分の欲望を性の限界と対立から解放することだろう。おまえの欲望とおまえの知はもはや同じひとつのものであることだろう。」(p. 299)


 「絶対〔l’absolu〕」とは「関係を絶たれていること」を意味するが、フーコーの読解は以上のように、「絶対」を探求するバルタザールの狂気の営みをこの語義に忠実に「関係なき欲望への欲望」と捉えるものである。だが、読解はこれだけでは終わらない。あら筋でも確認したように、バルタザールが実験で散逸させた一家の財産を娘のマルグリットが再興するという件がまだあるからである。フーコーはこれを次のように分析する。妻ジョゼフィーヌは実験に没頭する夫を様々な関係(家族関係、世間づきあい、財産管理など)の中に連れもどすことを試みていたが、彼女が亡くなった後、いわば父から父権を奪うかたちで一家を取り仕切ることになったマルグリットは、父を──関係の中に連れもどすのではなく──ブルターニュの収税官として家から追放するのである。そのようにする一方で、彼女はソリスとの結婚を延期してパリに赴き、数年をかけて一家の財産を見事に再建する。フーコーはこれを踏まえて「性の断念」(p. 301)と述べているが[1]、この試練を経てマルグリットやその弟妹たちは結婚することができたのだった。ここにいたって「絶対」はまったく異なる意味を帯びる、とフーコーは考える。つまり、「絶対」とはバルタザールが臨終のおりに見出したかもしれない秘密などではなく、彼がブルターニュに隠棲を強いられていた間に──彼とは「関係のない」ところで──生じた一家の財産の再興だ、というのである(この読みは個人的にはかなりオリジナルなものであるように見える)。

 じつは、ブルターニュに隠棲している間にバルタザールが家に放置していたダイヤ生成実験があったのだが、バルタザールが帰還してみると、そこにはダイヤが実際に見つかったのだった。これが実験の成功を本当に意味するのかは分からないが、フーコーはこのダイヤがバルタザール不在中にできたことの象徴的な意味を読み解こうとしている。第一の解釈は、絶対とは自然の単一的原理である以上、それは人間の関与なしに生成する、というもの。第二の解釈は社会的な次元を見据え、マルグリットが財産を再興する最中にダイヤができたことを踏まえて、ダイヤとはこの財産の再興こそが「本当の絶対」であることを示す象徴である、と考えるものである。父はこのダイヤを娘に贈るのだが、それは「関係なき欲望」(バルタザール)と「欲望なき関係」(マルグリット──彼女が性を断念したことを想起しよう)との近親相姦的関係のイメージになっているともいう。

 以上がフーコーによる『絶対の探求』の読解の概略である。そのねらいはどのあたりにあったのだろうか。フーコー自身が試みとして素描しただけで、その後十分に展開することなく放置した構想から、彼の思想的営為全体に関わる意義をきちんと引き出すだけの知見は私にはない。ここでは簡単に二点だけ記しておきたい。

 ひとつは狂気と排除の問題系である。「作品の不在」と「創造=無化」によって特徴づけられる「関係なき欲望」の人バルタザールは、あらゆる関係から孤絶したところで「絶対」を探求する。マルグリットが一家の財産を再興するのも、バルタザールをあらゆる関係から排除することによってであった。フーコーがこの人物に興味をもった理由の一端が、そうした社会から排除される狂気の問題を示す一例としてであったことは見やすい。小説を詳しく読解することを通じて、フーコーは『狂気の歴史』以来積み重ねてきた思索に新たな問題系をつけ加えられないかと模索してみたのかもしれない。

 もうひとつは知と欲望の関係である。『フーコー研究』所載の論攷で概略を示したとおり、ニューヨーク州立大学バッファロー校で行われたサド講演とフローベール講演は煎じ詰めればいずれも知(真理、言説)と欲望の関係をめぐるものだった。サド講演では、精神分析のように欲望を知に従属させるのでもなく、またマルクーゼのように知を欲望に従属させるのでもなく、両者が「同じリボンの両面」として互いに分節化されるようなあり方が模索されていた(『フーコー文学講義──大いなる異邦のもの』、p. 242以下)。フローベール講演でも『聖アントワーヌの誘惑』と『ブヴァールとペキュシェ』を題材に、知と欲望がさまざまな形で分離と錯綜を蒙る様子が分析されていた。『絶対の探求』については、ファウストとサドのジュリエットとの比較で、次のようなまとめが見られる。


 ──ファウストはメフィストに、自分の知の欲望が性における欲望となるように求める〔p. 296では性的欲望のみならず、「遍き関係」、「権力」と記されているので、『ファウスト』第二部の国家経営的な欲望も念頭にあるようである〕。

 ──ジュリエットは、自分の性的欲望は自分の知を増幅させ、自分の知は自分の性的欲望を無限にすると断言する。

 ──バルタザール・クラエスは、自分の知が彼にとって絶対的な知──他者なき欲望、性的ならざる欲望──の支配を開始することを求める。(p. 299)


つまり、ゲーテ、フローベール、サド、バルザックといった作家たちの作品を読み解くことで、フーコーは知と欲望のさまざまな関係がおりなす布置を描きだそうとし、そのことで私たちの知と欲望のあり方を他のものへと開くことを試みていたと言えるのだろう。バルタザールが体現する「関係なき欲望」としての知は、おそらくそうした布置のなかに位置づけられるべきひとつの形象なのである。

 とともに、このように考えてきて明瞭になるのは、こうした文学論における権力論の不在である。『フーコー文学講義』の最初に収められたラジオ番組「狂気の言語」が取りあげるような『ラモーの甥』などの作品が示す狂人像は、それでも抑圧や監禁、排除の問題系を含んでいたが、1970年の文学講演では権力の問題は少なくとも前景化していない。60年代の濃密な文学考察の掉尾をかざるこの三つの講演に権力論が欠落していることは、権力を主要なテーマとした70年代のフーコーが文学を論じなくなっていくことと密接に関わっているだろう。



[1]個人的な連想で言えば、愛を断念して実業家として蓄財に奔走するマルグリットの姿は、ブレヒトが『ゼチュアンの善人』で描いた貧しいが善良な娼婦シェン・テが冷酷なビジネスマンであるシュイ・タにならざるをえなかった現実を思わせる。

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