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森本淳生/ジル・フィリップ編『マルグリット・デュラス 〈声〉の幻前 小説・映画・戯曲』(水声社、2020年) / 郷原佳以

 「幻前」とは聞き慣れない日本語である。本書は小説、映画、戯曲を貫いてデュラスにおける独特な「声」を追究しようとする論集だが、その声は「幻前」するものであるという。もともと2018年にフランス語で行われたコロックを元にしているので、フランス語版(『Zinbun』第50号)を参照してみると、「〈声〉の幻前」の原語は « voix fantôme »である。素直に訳せば「幽霊のような声」「幻の声」といったところだろう。では、「幻前」とすることで加えられているのは何だろうか。本書のどこにも明記されてはいないが、「幻前」から同音異義語の「現前」を想起しないことは難しい。存在の明証性を表すはずの語が一字を「幻」に替えることで矛盾を孕んだ語になるという趣向だろう。そこから、本書で照明を宛てられているのは、幽霊のような声が有する逆説的な存在感(プレザンス)だろうと推測できる。事実、「序――〈声〉の幻前」では、デュラスにおけるオフの声がいったん脱身体化されたうえで身体的な声によって引き受けられることが指摘された後、次のように続く。「本書で「幻前する声」と呼ばれているのは、まさにこのようなものである。亡霊を見たと思ったとき、恐怖とは言わないにせよ強烈な印象を抱くことになるのは、それが純然たる幻覚などではなく、単なる日常性には還元できない何らかの現実性がそこに含まれているからであろう」(20頁)。幻なのだが「純然たる幻覚」ではなく、「何らかの現実性」を有する声、この逆説的な主題を念頭に置いて、収録論文を読むことにしよう。本書には7本の論文に加え、「序」(森本)と「跋」(フィリップ)が収められている。

 『かくも長き不在』(1961)を論ずる第一章「「夜明けの光」のセレナーデを歌うのは誰か?――『かくも長き不在』における〈声〉の幻前」(森本淳生)は、16年間夫が帰らないままカフェをやりくりするテレーズが、夫を再認できるわけではないにもかかわらず、オペラのアリアを口ずさむ記憶喪失の浮浪者に夫を重ね合わせてゆくメカニズムを、鏡に映る浮浪者の頭の傷跡を通して、欠如による三者関係と読み解き、『ロル・V・シュタインの歓喜』(以下『ロル』)など後の作品における三者関係との類似と差異を指摘する。浮浪者の規則的な行動や、その肉体に刻まれた記憶が、『ラホールの副領事』『愛』『ガンジスの女』の狂人「歩く男」に通じており、意味を奪われたゾンビ的な世界が現出しているという指摘は正当であり、デュラス作品の相互連関性があらためて確認される。

 ただ、浮浪者の頭の傷跡とアリアを「欠如を示す記号」(40頁)とみなすことで、〈テレーズ-浮浪者-夫〉にデュラス的三者関係を見る読解については、もう少しこの作品の独立性が考慮されてもよいのではないか、あるいはむしろ、デュラスが自身の経験を綴った『苦悩』(1985)と近づけられてもよいのではないか、と感じた。革命記念日の航空ショーから始まるこの作品は、1960年を舞台としながら、明らかに戦争を描いているからである。私たちはすでに『苦悩』から、デュラス自身が強制収容所に連行された夫の帰りを待っていたこと、別人のように痩せ細って帰った夫を必死に看病したこと、しかしすでに別の男と関係をもっており、快復を待って夫と別離したことを知っている。『かくも長き不在』がその20年以上前の作品であるにせよ、そのことを想起しないのは難しい。さらに、「戦争で消息を絶った者を待つ者」および戦地から戻った者の「記憶喪失」というのは、本作が三面記事に想を得ていることを別にしても、戦後に実際に見られた光景であり、ひとつのトポスでもあるだろう。たとえば、ブッツァーティの短篇「マント」では、戦争に行った息子を待つ母の前に息子が帰ってきて、母は歓喜するのだが、息子はどうも様子がおかしく、マントを脱ごうとしない。彼は母に別れを告げに来た幻なのである。

 『かくも長き不在』はこうした型をなぞった物語であり、そこに現れるのは、「夫に対して、つねに浮浪者を媒介することでしか愛を向けることができない」(42頁)といったロル的な倒錯愛とは微妙にずれるもののようにも思われる。浮浪者の頭の傷は戦争を通して夫と通じており、その身体は不在の夫と重なり合って、まさしく「幻前」する(浮浪者は幻として夫である)。『ロル』的三角形(タチアナとホールドに排除されるロル)に重ね合わせるなら、テレーズは、頭の傷=記憶の穴を通して結びつく浮浪者と夫(万に一つ、浮浪者が夫であったにせよ、その穴ゆえに彼は戻ってこない)から排除されるのであり、それゆえに、鏡のシーンで彼女は、浮浪者=夫の絶対的な到達不可能性を見せつけられて、はっとするのではないだろうか。

 第二章「声なき身体、静かなる犯罪――『イギリスの愛人』に寄せて」(立木康介)で取り上げられるのも、現実の事件に想を得た作品(1967)であり、その原型が書かれたのは1960年だというから、『かくも長き不在』と同時期である。著者は「〈声〉の幻前」というテーマに相応しく、パロールから「はみ出る」声に焦点を当てる。ある女が夫を殺害し、遺体を切り刻んで跨線橋下の貨物車に投げ入れた、という事件を作品化するにあたり、デュラスは被害者を、夫婦が家事を任せていた聾唖の従妹に置き換えた、なぜか、というのが著者の問いであり、この問いにラカン的アプローチで挑んでゆく本論はミステリーのようである。まず、パロールからはみ出る声は主体の還元不可能な核、対象aである。問題の女クレールは、ファルス化された言語装置を通らずに女性たちとコミュニケーションを取ることができた。ところが、聾唖の従妹は対象aとして彼女の前に現前することがない。食事を提供する彼女はただクレールの食人的な幻想に引き込まれ、「惨禍」が起こった、ということになるようだ。興味深いのは、著者が、「女の声」をめぐるデュラスの発言と作中のクレールの言葉を共に参照して症例分析を行っていることである。

 『かくも長き不在』はシナリオ提供にとどまったが、1967年以降、デュラスは自ら映画制作に乗り出す。第三章「デュラス、〈声〉をめぐるエクリチュールの試み――声の現前と不在の間で」(関未玲)はその変遷を辿り、「映画嫌い」のデュラスが映画制作の文法を変えてゆこうとするときに〈声〉がきわめて重要であったことを示す。本論がとりわけ注目するのは、デュラスに映画制作の失敗を確信させ、執筆に戻らせることになった『船舶ナイト号』(1979)である。一組の男女の電話のみの関係性を描くこの作品で声が重要なのは当然だが、実はこの作品も実話に基づいており、デュラスが知人の語る声に耳を傾けたところから制作が始まっているという。評者の理解が正しければ、そこから著者が導くのは、しかし、デュラス映画における声の現前性ではなく、語りが物語化される過程で消失を含むがゆえに、通常、声が有するとみなされる現前性が、デュラス映画においてはエクリチュール的なもの、消失を孕んだものになっているということである。本論は、したがって、フランス語の « voix fantôme » により忠実な結論となっている。『船舶ナイト号』は映画として可能な臨界点に達したということだろうか。『船舶ナイト号』の大過去の多用や、会話文の少なさが触れられているが、結論との関係でもっと詳細な分析が読みたかった。

 デュラスのみならず、音と映像を乖離させた四つの映画(デュラス『トラック』、ジャン=マリー・ストローブ/ダニエル・ユイレ『早すぎる、遅すぎる』、ジャン=ダニエル・ポレ『地中海』、足立正生『略称・連続射殺魔』)を比較考察するのは第四章「声とまぼろしの風景――デュラス、ストローブ=ユイレ、ポレ、足立における移動撮影」(橋本知子)である。四つの映画をめぐる技術的な指摘の数々は、音と映像の乖離によって観る者に何がもたらされ、あるいは何が促され、そこに何が賭けられているのかを明瞭に言語化しており、刺激の連続である。『トラック』(1977)を観る者は、非接合的な場面を交互に見ながら声に耳をそばだてるが、そこにあるのは単なる乖離ではない。言葉と映像の両面における連続性と乖離の組み合わせによって、観る者は自ら幽霊的な眼差しに同一化し、いま・ここに現れる何かを目撃する。観る者の視線が移動カメラと一体化する点は、他の映画でも同様である。物質でもありパロールでもある声の喚起力を十全に証す分析である。

 デュラスの登場人物をバルザックの登場人物と並べてみるというユニークな想像をさせてくれるのは、第五章「どのように呼びかける(呼ぶ)のか――マルグリット・デュラスにおける名前の力」(澤田直)である。著者の指摘は冒頭から頷けるものばかりだが、なるほど、同じ、または少しずつ変形した固有名が再帰するにもかかわらず、デュラスの登場人物たちはバルザックやゾラの登場人物たちのように血肉を具えてゆくことはなく、非現実感、あるいは幽霊性を保持し続ける。著者によればそれは、デュラスにおける命名が、可能性の世界の人物を召喚するものだからである。その考察のために取り上げられるのは、『インディア・ソング』の無人ヴァージョンとも言える『Son nom de Venise dans Calcutta désert』(1976、このタイトル自体が読解される)、そして後続の『セザレ』(1979)、『オーレリア・シュタイナー』三部作(1979)である。多様な「重ね合わせ」技法が認められるこれらの作品からは、著者の言うとおり、命名によって「召喚」する呪術的な声が聞こえる。

 名前の変形と言えば、ヤン・アンドレア(本名ヤン・ルメ)もそうである。以上の論考に年代的に繋がるように、ヤン・ルメとの関係を背景とした80-90年代の作品に焦点を当てるのは、第六章「声の宛て先――デュラスとヤン・アンドレア」(ジョエル・パジェス=パンドン)である。『アガタ』を始めとする作品でデュラスは、つねに傍らにいて口述筆記を行ったヤンを拉して虚構的な人物にすることで、「他者に宛てられた声〔voix adressée〕」を響かせていたことがわかる。

 〈デュラスにおける声の重要性〉という共通認識に対し、「事態はそれほど単純なのか」(192頁)と問うのは第七章「デュラスは本当に声の作家だったのか?」(ジル・フィリップ)である。とはいえ、以上に見たように、デュラスにおける〈声〉を単に現前的な、パロールとしての声と捉えている論者は誰もいないのだから、この問い自体がいささか場違いな印象を与える。著者は、デュラス作品における「声」という単語の頻度や出現様態を調べるという、あまり意味があるとは思えない作業から、デュラスにおける声の位置づけは不安定であると言い、また、デュラスにおいて声と身体は分断されていると言うが、それもまた、ここまで論集を読んできた読者には自明である。それよりも、著者が、ベケットらにおいて1950年代から見られるようになった「音声的文体」に、デュラスが1980年代になって参入した、と整理していることにやや違和感を覚えた(ベケットにおいては声と身体は一致しているのか?)。

 この違和感は、続く「跋」で、著者が1980年代を「文学がディスクールを目指す」「発話の時代」(217頁)と呼ぶときに高まった。著者は、60年代から80年代にかけてデュラスのテクストが三人称単純過去または非主観的現在から一人称主観的現在に変化したことをもって、「物語は、ディスクールになったのだ」(219頁)とし、かつ、それは「発話の時代」に呼応するものであったと言う(221頁)。この図式はデュラス研究において共有されているのかもしれないが、評者は、「こうして、いま私は[…]書いている」という『80年夏』の冒頭も、『死の病い』の呼びかけも、『愛人』の回想も、「ディスクール」と呼ぶことには躊躇を覚える。掉尾において、「デュラス晩年の作品において、登場人物は声となり」(226頁)と言うとき、著者が「声」を人称的なものと考えていることが明らかとなる。しかし、60年代の作品から始まる本書での考察によって明らかとなったのは、むしろ、「声」は非人称的なものでありうるということではないだろうか。

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