top of page

川野惠子『身体の言語——十八世紀フランスのバレエ・ダクシオン』(水声社、2024年)/ 寺尾佳子

 画面上の情報を目で追うことが日常化したいま、美しい装丁の本を手に取る喜びはたまらないものがある。本書もそう感じさせてくれる一冊である。軽やかに舞うダンサーが印象的なローマの壁画風の表紙は、あとがきによると、著者である川野惠子氏が長年のご友人にリクエストして誕生したらしい。本書のキーワードである「身体」、「言語」、「美学」はともすると難解な印象を与えるが、このような心温まるエピソードから垣間見える、川野氏の研究への特別な思い入れが、本書の随所に感じられた。

 以下、評者の関心に沿って本書を紹介できればと思う。なお、評者はディドロとも関わりのある18世紀フランスのイエズス会神父を研究対象としており、取り上げる内容に偏りがあるかもしれない。あらかじめお断りしておく。

 

 本書はタイトルにある通り、「バレエ・ダクシオン(ballet d’action)」という舞踊運動を主題にしている。これは18世紀のヨーロッパで流行した演劇的な筋立てを持ったバレエのことである。バレエはいまでこそ代表的な芸術ジャンルのひとつである。しかし、18世紀以前において、すでにプロフェッショナルが確立していた絵画や彫刻などの領域とは違い、舞踊は素人が楽しむものであった。また、オペラや演劇で上演された場合でも、幕間の曲芸的な位置づけにすぎなかった。その地位がこんにち的なものへと変化し始めたのが18世紀頃であり、その流れのなかで重要な位置づけにあるのが、本書の主題である「バレエ・ダクシオン」である。

 舞踊史の説明では、一般に、「バレエ・ダクシオン」は17世紀に流行した「オペラ=バレエ」において、オペラの幕間で演じられたバレエが独立したものとされる。こうした説明に対して川野氏は、広く美学の視点からこの主題を取り上げ、この動向を「テクストの身体化」と定義する見方を推し進めようとする。そして本書を通して、「なぜテクストを身体化する必要があったのか」という問いを考察する。

 「テクストの身体化」とはどういうことだろう。氏によれば、「身体を言語と捉え、演劇のテクストを身体に置き換えようとする意図」とされる。著者がこのような新鮮な見方を提案するのは、舞踊史という枠組みを超えて「バレエ・ダクシオン」を見直したとき、この運動には、西洋の芸術において特権的な地位をもっていた「『言葉/ロゴス』が、単なる機械とみなされてきた『身体』に代えられるという表象史上の重要な転換点」が認められるのではないか、と学問的重要性を認識しているからだ。さらに興味をそそられることには、この一連の動きは、近代的な芸術概念の誕生と関わってもいるようなのだ。

 ところで、そもそも、「言葉」と「身体」は西洋の伝統において、どのような関係を取り結んできたのか。知られているように、古代宗教において、舞踊は信仰と密接な関係にあった。しかし、キリスト教の普及以降西洋では、快楽による堕落などと結びつけられる身体と、それにともなう舞踏が忌避されるようになる。福音書にあるように、「ことば」こそが万物の源で、分節言語を話す人間を特徴づけるものである。こうした考えにより、西洋の伝統において身体は、次第に言語からかけ離れた存在として扱われるようになっていく。この見方に変化の兆しがあらわれるのが、ルネサンスの頃である。事情の変化はまず絵画や彫刻の領域にみられる。絵画や彫刻はもともと肉体的技術とされていたが、これらが遠近法という数学や、「模倣」に関わる技術として「格上げ」されることとなる。つまり、「言語芸術との近さ」が証明されたのである。絵画や彫刻よりもさらに身体性と密接に結びつく舞踊を言語と結びつけて考える試みが現れるのはさらに後のことで、この地殻変動と関わっているのが「バレエ・ダクシオン」というわけだ。

 「バレエ・ダクシオン」にみられる身体の言語とは、いったいどのようなものなのか。本書は3部構成でこの問いにていねいに答えようとする。第1部では、18世紀の言語論、第2部は17世紀におけるバレエ・ダクシオンの萌芽を、第3部では18世紀におけるバレエ・ダクシオンの本格化について論じる。各部の概略をみていこう。

 

十八世紀フランス言語論の動向——言語概念の拡大と芸術

 キリスト教文化において忌避されていた身体は、18世紀の言語論においていかに言語と接近することになるのか。著者は、本書第1部において、コンディヤックとディドロの言語論を取り上げ、言語論の動向を探ることでこの問いを考察する。

 第1章では、コンディヤックの『人間認識起源論』(1746)が取り上げられる。周知のとおり、フランスの感覚主義哲学は、ロックの経験論を踏まえ、「人間精神の身丈」に合わせて様々な哲学的主題を再定義しようとした。人間の認識活動そのものである言語はそのなかでも最重要課題であった。コンディヤックは、身振りが人間の喜びや悲しみといった原初的情念を語る言語として、身体を起源とする言語起源論を確立し、18世紀言語論の流れを決定づけることとなる。こうして、言語活動から切り離されてきた身体が一転、言語の起源に位置づけられるようになる。

 では、コンディヤックの描く、身体と結びついた言語概念にはどのような特徴が指摘されるのか。ここでは川野氏の分析のなかで、評者がとくに興味深く感じた言語と「独創性」との結びつきを紹介しておこう。身体にまでその意味が及ぶことから推測できるように、18世紀には「言語」と見なされる対象の範囲が拡大していった。その流れのなかで、正確な言語伝達を追求する伝統的な言語観とは異なる新しい言語のあり方が模索されていくことになるという。川野氏は、『人間認識起源論』において、学問・哲学に対置して、「詩」が頻繁に論じられていること、また、言語の「天才」について言及されていることに注目する。コンディヤックにとって、レトリックを用いて感性的イメージを喚起する「詩」は、制度的言語優位の「哲学」とは異なり、規則の少なさゆえに天才が独創的な言語表現を発揮しやすいジャンルである。つまり詩には哲学とは違った、しかし哲学に匹敵する言語的価値が与えられているのである。こうして、正確さを求める言語パラダイムとは別に、「芸術」をモデルに、言語表現の独創性を問う言語パラダイムが形成されていると指摘される。それにともない、自らの想像力を能動的に発揮させて言語理解に努める言語の受け手の問題の浮上が指摘され、ディドロの言語概念の考察に移る。

 

 ディドロは、1750年代に複数の演劇作品と理論を対にして発表している。川野氏は、ディドロの演劇論のなかの「パントマイム」と「台詞」の対比を読み解いた上で、それをディドロの言語論から検討する。

 ディドロの演劇作品では、パントマイムないし身振りという身体による演劇媒体が積極的に導入されている。当時演劇は台詞を主たる媒体とする強い言語性により、西洋諸芸術のなかでも第一級の地位を誇っていた。この観点から見れば、いわば格下の身体言語であるパントマイムがなぜ用いられるのか。川野氏によれば、ディドロは、理性に関わる言語を主な媒体としてきた演劇作品に、触覚に関わる言語媒体を導入することで改革を試みる。台詞という理性的な言語は、ある抽象的で普遍的な概念が正しい文法規則に則って、観客に正しく伝達されることを目指す。対して身振りという触覚的言語においては、役者の身体がもつ固有性により、役者がそれぞれ創造的に表現することが求められる。こうして、ディドロの演劇論はパントマイムを擁護し、身体言語に創造性という新たな言語価値を認める。

 このようなパントマイムの導入には、ディドロの言語論的背景が関わっているという。川野氏は、バトゥの倒置論を批判する目的で書かれた『聾唖者書簡』(1751)を取り上げこのことを明らかにする。ディドロの倒置概念によれば、倒置とは、精神の同時多発性に追いつかない、継起性に特徴づけられる言語の限界を乗り越えようとする作為的な文章術であり、倒置によりつくりだされる韻は諸観念を同時に喚起する。そしてこの倒置の特性は、言語の限界に挑む作者の詩的な能力と結びつけられる。こうしてディドロは正確な伝達に価値を置く理性的言語の段階の先に、理性と感性が協働する「言語の完成期」を描く。この完成期の言語活動において、パントマイムは重要な意味を持つ。俳優の身体を介し、作家と観客の思考が織りなすような言語活動が思い描かれているという。この章の分析について、評者の関心から言えば、聾唖者と「視覚クラヴサン」など、見方によっては些細な逸話も見逃さず、注意深く分析することで、面白みとともに、全体の主張にもより説得力が増しているように思われた。

 このように、第1部では、18世紀の言語論において、感性的表象が積極的に言語と見なされ、言語活動の創造性や発話者と受け手の相互作用といった新しい言語のあり方が追求されたと主張される。

 

十七世紀バレエ・ダクシオンの芽生え——舞踊の模倣芸術化

 第2部では、17世紀に模倣としてのバレエ概念を論じた、リヨンのイエズス会コレージュを中心として人文学研究に従事したクロード=フランソワ・メネトリエ(1631-1705)に焦点があてられる。メネトリエは、「像の哲学」という一連のバレエや音楽関連の作品を発表しており、そのバレエ論は18世紀バレエ・ダクシオンの理論家の主な参照先となる点で重要とされている。

 メネトリエのバレエ論は、舞踊が演劇的筋を物語る方法を示すことで、模倣としてのバレエ概念を確立したという。アリストテレス『詩学』に続く伝統において、演劇は台詞/言葉による特定の筋を模倣/再現が試みられるが、メネトリエは悲劇とバレエを比較し、前者の模倣媒体を「言葉」、後者を「像」と定義し、像が悲劇の言葉と同じように「筋」を模倣する方法を考案する。その試みのなかで、ギリシャ語の語源にさかのぼりつつ、模倣概念と「身振り」からなる舞踊との結びつきを主張し、舞踊芸術に詩を超える位置づけを与える。その上、舞踊には台詞とは異なる独自の言語活動があるとし、「技」という概念に着目する。人間は本性的に自らの像を求めて模像を作るという神人同形説の伝統を援用しつつ、像を作り出す「創意工夫に富んだ技」が重視されるにつれ、像の目的を、信仰よりその「技」を味わう精神の「気晴らし」とする微妙なずれも認められるようになったとする。

 興味深いのは、この「技」の概念は、原像と模像が同じであることよりも、「異なる」ことに重きを置くのではないか、との川野氏の指摘である。逆説的であるようだが、どういうことか。メネトリエの像理論の根本を成す重要な思想に、現世を神の隠れた「謎」と解釈する伝統的神学思想がある。そもそも、神や自然と像の間には絶対的なヒエラルキーが存在し、像は実体との関係において下位に置かれる。対して、メネトリエは「謎としての像」という別の新しい価値を与える。ここにおいて、模像は原像との類似を目指すというより、原像を判然としない方法で表して隠し、少数の理解を求めるという特異な性質をもつという。

 川野氏によれば、ここで重要なのは、この模像が対象をありのままに表す像とは異なり、「精神」の働きを必要とする点である。対象を神秘化する技と精神が像の価値を決定するため、その価値は原像を超えうる。では、この像はいかに「筋」を模倣しうるのか。

 

 続く第2章は、メネトリエがバレエに固有の規則を「構想の統一」と定義することに注目している。これは、メネトリエがアリストテレス『詩学』に準拠しつつも、アリストテレスが悲劇の統一規則とした「筋の統一」とは区別し、身体を再現媒体とするバレエの特性に基き定めたものである。悲劇は言葉で語る筋であるため、悲劇の運命の変化は突然には起こりえず、段階を追って準備し導いていく必要がある。つまり、「時間の特定の空間」が必要であり、「筋の統一」が求められる。対して、バレエは言葉を持たない「無言の演劇」であるため、情念の翻訳をする身体の動きで構成される。

 ちなみに、メネトリエはバレエの目的を「気晴らし」や「快」とし、現実から区別される人間による遊戯的模倣世界であるとして悲劇と差異化している。メネトリエにとって、精神に関わる言葉/ロゴスとは神であり、言葉を媒体とする場合、完全に遊戯的な世界の構築はあり得なかったのだろう、と川野氏は指摘する。このように、メネトリエは『詩学』で扱われる言語による模倣とは区別して、像の特性に基づいたバレエの目的を定義し、それに即した固有の統一規則を「構想の統一」とする。

 こうして、メネトリエのバレエ論において、作者の精神世界の反映でなく、あくまで模倣された世界である必要があるが、作者の構想がバレエ作品の統一原理とされ、いち早く人間の創造性に基づく作品概念が認められると指摘される。では、この理論は18世紀にいかに受け継がれるのだろうか。

 

十八世紀バレエ・ダクシオンの興隆——新しい言語の追求

 メネトリエの理論を受け継ぎ、バレエ・ダクシオンの動向を本格化させた、ルイ・ド・カユザック(1706-1759)とジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727-1810)のバレエ理論からこの動向を読み解こうとするのが最終部の試みである。

 カユザック『新旧の舞踊』(1754)は、デュボス『詩画論』(1719)で論じられる新旧舞踊の断絶を批判するために著された。デュボスは、言語機能の有無という点において、新旧の舞踊が断絶しているとする。一方、カユザックは、メネトリエを引き継ぎ、人間の原始にさかのぼり身体感覚を舞踊の起源に認め、バレエの模倣媒体をあらゆる制度に先立つ言語としての身振りと位置づける。メネトリエとの違いは、カユザックが舞踊を「普遍言語」と言い、舞踊の言語としての伝達能力をメネトリエよりもさらに際立たせようとする点が指摘される。

 カユザックにおける舞踊の言語概念を読み解くのに注目すべきなのが「ダンス・アン・アクシオン」である。カユザックは、実現される舞踊の未来を「ダンス・アン・アクシオン」と名付け、舞踊が「情念」を模倣し、かつ舞踊それ自体が「筋」を主導するという理想を掲げる。カユザックは「一つの動きは、数々の思考を描くこと」ができるとして、メネトリエ同様、舞踊に言葉以上の再現性を認めている。演劇では、一つの状況を再現するために多数の単語が必要であるが、舞踊は一つの動きで複数の思考を描くことができ、舞踊のみで筋を模倣することが可能であるとする。

 こうして情念という自然が身体により模倣されるが、カユザックにとって、自然は産出的で多様であるため、その自然を忠実に模倣する舞踊もまた創造的である必要があるという。ここにおいて、模倣と創造が共存することになる。加えて、この創造性に結びつく舞踊は観客の問題とも関わる。本書第1部で確認したように、当時の言語論では、言語表現の創造性と連動し、言語の発信者と受け手の相互関係もその主題のひとつであった。これと響き合うように、カユザックの舞踊理論ではダンサーの創造性だけでなく、それを判断する「観客」の概念が認められる。そして、最終章にみるように、「ダンス・アン・アクシオン」の構想はノヴェールにより実現することになるとされる。

 

 ジャン=ジョルジュ・ノヴェールは、「筋立てバレエ」と一般に訳される「バレエ・ダクシオン」の嚆矢として位置づけられ、18世紀の舞踊における最重要人物とされる。川野氏によれば、ノヴェールもメネトリエやカユザック同様に、舞踊を内面的なものの身体における視覚化と捉える。ダンサーは自らに役を宿して身体の外側に役の情念を表す。瞬間瞬間に身体のあらゆる部位が情念を語ることで情念の模倣が達成され、言葉による語りは無用になるとされる。

 このような身体の言語は、カユザック同様、普遍性に特徴づけられる。ノヴェールは舞踊を絵画になぞらえ、両者の言語においては、意味するものと意味されるものが自然に一致するため、国や民族を問わず普遍的に理解されるとする。したがって、特定の人しか理解できない言語に比べ、舞踊は自然・普遍的であるということができ、諸芸術よりも有利であるという。

 こうして、舞踊という自然言語により人間の情念が模倣されるが、その結果、ダンサーの身体そのものの個別性に関心が向けられることになる。ダンサーは盲従的な模倣を放棄し、生来の才能を発揮して独創的であることが求められる。この技巧に関連して、川野氏は、舞台構成の効果についても興味深い言及をしている。それによれば、観客の目をひく舞台構成は、舞台上に「イリュージョン」を構築することによって達成される。イリュージョンとは、自然を模範として構築されるもので、単純な模倣というより、自然の「美化」が求められる。自然の様々な特徴を捉えつつも、強すぎる部分はやわらげ、弱い部分には力を与える美化によって自然を模倣する。技を加えるので、観客の目を欺いていることにはなるが、あくまでも真実に肉迫し、自然に見えるという自然の美化による舞台構成である。こうして、ノヴェールの理論は古典的な模倣芸術論の範疇にはあるが、独創性の追求という点において、近代的芸術観が潜在していると指摘される。

 

 以上のように、本書において川野氏は、舞踊史、思想史、身体論といった多分野にまたがる膨大な情報の整理とテクストの緻密な分析を通して、身体がいかに言語として捉えられ、演劇のテクストが身体に置き換えられるようになっていくのかを丹念に追っている。本書の最初の問い「なぜテクストを身体化する必要があったのか」に立ち返ると、バレエ・ダクシオンはまさに18世紀の言語論者が着目した「独創性」と「相互性」を軸とする新しい言語パラダイムを実践する重要な動向であったことがわかる。この時代の言語としての舞踊は、正確で明瞭な伝達というより、独創的であるがゆえに、見方によっては「不明瞭」ともいえる伝達を意図していた。この言語の性質ゆえに、言語の受け手は、能動的に言語を理解するよう求められ、ここに相互的コミュニケーションという発想が立ち現れることになるという。

 このようにみてくると、本書の主題であるバレエ・ダクシオンの動向が、近代美学や芸術の重要な概念、感性や関心、観客概念を内包し、近代的芸術概念の誕生——芸術の歴史は18世紀を境に模倣から独創性を軸とする自律的世界の構築へと大きく転換する——と密接な関わりを持っていたことが明らかになる。こうした近代的芸術観がいち早く18世紀の舞踊論に顔を覗かせるのは、舞踊が何より「身体」を問題する芸術ジャンルであったから、との分析には説得力がある。


 以上、本書の内容を概観してきたが、このように文章にまとめてみると、本書の学問的射程の広さに改めて驚かされる。また、バレエの一ジャンルと見なされてきたバレエ・ダクシオンを「テクストの身体化」とみる川野氏の新鮮な着眼により、言語論とバレエをつなぐ視点を提供していること、もちろん、テクストの綿密かつ的確な読解、明晰な文章も本書の大きな魅力である。同じ18世紀を研究対象とする評者にとって、きわめて示唆に富み、間違いなく刺激的な書であったと同時に、すでに指摘している通り、本書は広く近代芸術に関わる事象を扱っているために、幅広い読者を魅了しうることだろう。

 最後に、評者がとくに印象に残り、より深く知りたいと思った点について述べ、本稿の結びとしたい。西洋のキリスト教文化のなかで、アリストテレスの模倣論が重要な地位を占め続け、様々な著述家たちによって脈々と受け継がれながらも、理論の解釈にはそれぞれ微妙な差異が加えられる。本書の様々なテクスト読解の場面でその様が指摘され、それを著者による分析とともに読み解いていく作業は何ともスリリングな体験であった。その作業のひとつに、17世紀のメネトリエの舞踊理論と18世紀のものとの比較がある。メネトリエにおいて、視覚を通して精神を楽しませる「像」の概念が現れ、これはカユザックら18世紀の舞踊理論家たちによって継承され、自然言語としてのバレエの身振りという考えにつながる。

 その一方で、このメネトリエの「像」は対象を神秘化する「謎としての像」でもあった。つまり、メネトリエにとって少数の者のみに明かされる精神性を要求するものであったが、18世紀の理論においては、言語としての伝達性を強調するものとなる。したがって、双方の理論はバレエ理論の系譜として密接な関わりをもちつつも、ある側面においては興味深い隔たりも認められるように感じられる。このテクストの複雑な絡み合いについて、バレエに関するものの他に、広く視覚と精神性に関わる同時代のテクストとともに考察すれば、近代的芸術概念が胎動する様をより鮮やかに浮かび上がらせることができるのではないか。また、それによりバレエ・ダクシオンの動向についても、違った角度から光をあてることができるのではないか、と今後の研究の発展を心待ちにしている。


身体の言語

十八世紀フランスのバレエ・ダクシオン

川野惠子(著)


判型:A5判上製

頁数:314頁

定価:5000円+税

ISBN:978-4-8010-0791-8 C0010

装幀:藤谷恭子


閲覧数:170回

最新記事

すべて表示

クロード・ピショワ/ミシェル・ブリックス『ネルヴァル伝』(田口亜紀/辻川慶子/畑浩一郎訳、水声社、2024年)/ 鹿島茂

日本と違って欧米では翻訳者の地位はかなり低く、本の表紙に訳者名が記されることすらない。そのせいか、フランスで翻訳者から詩人・小説家・劇作家に転じて名を成した人は極端に少ない。詩人のサン・ジョン・ペルス、小説家のヴァレリー・ラルボーくらいか。...

宇佐美斉『小窓の灯り——わたしの歩いた道』(編集工房ノア、2024年)/ 大出敦

個人的な話で恐縮なのだが、「宇佐美斉」という名前を初めて目にしたのは、大学三年の時だから、1989年のことだ。大学図書館の書架にあった『落日論』と題された本が目に留まり、私は何気なくそれを手に取って頁をめくってみた。この時、目次をめくってみると、宇佐美先生は、どうやらフラン...

モーリス・ブランショ『ロートレアモンとサド』(石井洋二郎訳、水声社、2023年)/ 中田崚太郎

モーリス・ブランショの評論集『ロートレアモンとサド』の新訳が2023年6月に刊行された。評者はブランショを専門的な研究対象として大学院で日々彼のテクストに向き合っている者であるが、今回の新訳刊行の一報に触れた時の驚きと期待の混ざり合った感情をいまだに覚えている。そして実際に...

bottom of page