2020年に出版された最近の著作(Jean-Marie Schaeffer, Les Troubles du récit : pour une nouvelle approche des processus narratifs, Thierry Marchaisse, 2020)で、ジャン=マリー・シェフェールは「物語」を研究対象としてとりあげた。ただし本書には、「物語論(ナラトロジー)」という言葉から想像されるような、物語の構造や語りの方法についての考察はほとんどみられない。というのもシェフェールが本書で照準を定めているのは、言語的構築物としての物語それ自体ではなく、むしろ物語が生産される「手前」に位置し、たとえば記憶や夢想のように明確なロジックや物語的輪郭を欠いた内面的な表象──ジョイスの内的独話によって文学的表現が与えられているような表象──が生じる心的領域であるからだ。こうした問題関心は、レッシング『ラオコオン』などの分析を通じたイメージの(それゆえ非言語的な)物語性というテーマにも拡がるものである(第4章)。
「前=物語性(proto-narrativités)」と名付けられるこの領域を、認知科学の成果と伝統的哲学を対照させながら探索し、その人間学的かつ美学的な意義を明らかにすること、それが、本書でシェフェールが目指したことである。この意味で本書は、分析哲学の立場から観念論美学を批判したL’Art de l’âge moderne(Gallimard, 1992)に始まりL’Expérience esthétique (Gallimard, 2015)にいたる著作群で次第に顕著になるシェフェールの一般美学プログラム、すなわち「経験的」美学の構築というプログラムにおけるケーススタディの一つ──これまでも写真(L’Image précaire, Seuil, 1987)、文学ジャンル(Qu’est-ce qu’un genre littéraire, Seuil, 1989)やフィクション(Pourquoi la fiction ?, Seuil, 1999)がその対象となってきた──として位置づけることができる。ただし脳の器質的欠陥と物語の生産・受容をめぐる機能不全との関係が1章を割かれて論じられているように(第3章)、本書には神経科学の知見や言葉遣いがこれまでよりも大きく取り入れられているという特徴もある。人間の認知や情動の生物学的基盤に対するシェフェールの関心がいっそう深まっていることがみてとれる。
ところで本書はまた、1999年に『なぜフィクションか?』を発表して以来、まとまったかたちでフィクションを論じてこなかったシェフェールが、久しぶりにこの問題を正面から扱った書物でもある。ここまで述べてきた問題設定に即してフィクションを(再び)論じることで、シェフェールは『なぜフィクションか?』で提示したフィクション概念──「共有された遊戯的偽装」──を本書で補完しつつ、彼の理論を新たな局面へと開いたと言えるだろう。そこで本稿では、このフィクションの問題に割かれた第5章に焦点を合わせて本書の内容を検討したい。
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問題となるのは、事実とフィクションの境界、より正確に言うならその境界の「不確かさ」である。事実とフィクションという二つの領域の相互嵌入性と言ってもよい。この境界の問題は、現在のフィクション理論においても中心的なトピックとなっている。たとえばフランソワーズ・ラヴォカは、Fait et fiction (Seuil, 2016)において、ヘイドン・ホワイトの歴史叙述論などに典型的にあらわれる「汎フィクション主義」──ごく簡単かつ乱暴に言うなら、物語性と虚構性を同一視することで、すべてはフィクションであるとする相対主義──に反対し、事実とフィクションの間の境界を「擁護」することが、認識論的にも(歴史書と歴史小説は異なった受容態度を引き起こす)、道徳的にも(フェイクニュースを事実と混同してはならない)必要であることを主張しつつ、境界を規定する文化的・社会的な諸条件やさまざまな芸術ジャンルでみられるその「侵犯」(たとえばメタレプシス)の例をひろく考察した。
事実とフィクションの境界の「不確かさ」を語るシェフェールが、ラヴォカが批判した意味での「汎フィクション主義」に与しているわけではないことは、予め確認しておく必要があるだろう。前著『なぜフィクションか?』において、シェフェールは、ジョン・サールが提示し(Expression and Meaning, Cambridge University Press, 1979)、ジェラール・ジュネットが修正した(Fiction et diction, Seuil, 1991)語用論的なフィクションの定義に基づいて、フィクションと事実を厳密に区別していた。それはすなわち、ある言説のステイタス(フィクションか事実か)を定める決定的条件は、言説(表象)と対象間の指示関係の現実性を基準とする意味論的な定義(「現代のフランス王は禿である」という命題は現実に対応する指示対象をもたないために真ではないといった類いの定義)には見いだせず、言説(表象)がいかなる「意図」のもとに受容されるかを方向付ける語用論的枠組み──ジャンルや発表媒体などのパラテクストがその具体的な形となる──に求められるという立場である。極端なことを言えば、すべてが「事実」の物語であっても、ひとたびそれが「小説」として発表されるのならば、それはフィクションとして受容されるというわけだ(内容と枠組みの間のこうした捻れに由来する美的・社会的効果についてはここでは問わない)。
フィクションとは語用論的に規定されるものであり、それゆえフィクショナリティは言説(表象)そのものではなく、その言説(表象)を産出あるいは受容する意図すなわち認知的態度に存する──このようなフィクションの基本的概念は本書においても踏襲されている。ただしここで注目すべきは、この語用論的定義が含意するところが、本書で提起される境界の「不確かさ」の問題へと接続されるということだ。
もっともシェフェールは、『なぜフィクションか?』においてもフィクションと事実の領域の境界を固定的なものとして示していたわけではない。ただ彼が前著で検討していたのは、(偽の)事実的伝記として流通してしまった「小説」であるヴォルフガング・ヒルデスハイマーの『マーボット』のようなコミュニケーション上の「失敗」であったり(おそらく作家が意図した失敗なのだが)、ある社会では事実と信じられてきた神話が異なる時代的・文化的文脈に置かれることでフィクションとして流通するといった、いずれも語用論的枠組みの機能(不全)に由来するケースであった。他方、本書『物語の変調』でシェフェールが関心を寄せるのはそこではない。それはたとえば、ある小説を小説として、それゆえその虚構性を十分に承知して読みながらも、その読書を通じて現実に関する認識を形成してしまうような事態である。
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シェフェールによれば、小説を読む(書く)のであれ、(事実の)伝記や歴史書を読む(書く)のであれ、表象を操作するという心の活動じたいは「現実」の活動である。また神経科学的な観点からするなら、我々の知覚そのものは神経系活動としての「現実」であり、知覚対象となる表象もまた「現実」である。つまり表象は「透明」であり、表象それ自体の次元においてフィクションと事実を区別することはできない。「要するに〔……〕見られたり聞かれたりした世界は現実である。この知覚的《表象》の透明性ゆえに知覚的フィクションなるものは存在しえず、あるのは錯誤や錯覚、あるいは幻影のみだ。」(p. 128。強調原文)たとえば映画なら、我々はスクリーンや光といった物質的対象とそれらによって作られるイメージを「現実」に知覚するのであって、それが「フィクションとして」受容されるためには、知覚とは異なる認知的操作が必要となる。フィクションとは、このように一元的「現実」として捉えられた表象を、そこにもう一つの認知的な層を重ねることによって二重化する(これは知覚と異なり意識的でしかありえない心的操作による)、あるいは別の言い方をすれば「現実」をそれとは違うなにかである「かのように」捉える認知的活動であり、またその産物である。それゆえ問題は、表象とフィクションのこの非対称な関係、あるいはフィクションに固有のこの二重構造が、フィクション的表象と事実的表象という二つの領域の間の境界をいかに「不確か」なものとしているかを確認することであり、またそこから浮かび上がってくるフィクションの特性を理解することになる。
シェフェールはこの問題を、フィクション的表象と事実的表象の関係についてもっとも洗練された分析をおこなった哲学者と彼が評価するヒュームに依拠しながら論ずる。彼がここで描くヒュームの肖像は、一言でいうならフィクションが現実認識に、別の言葉で言えば「信(belief)」にいかに干渉するかを研究した「心の哲学」の先駆者というものだ。
シェフェールはまず、心に現前する観念はすべて知覚の弱められた再現であるというヒュームの思想の出発点と、しばしば懐疑主義とされるその立場、すなわち人格の同一性のように直接的には知覚に由来しない概念を「フィクション」とみなす立場を確認する(ただしこの認知的フィクションは芸術的フィクションから区別される)。ヒュームにとって、心は知覚のみに由来し、さらに心の外部に想定される実在性はない。そのような実在性もまた心が作る「フィクション」だ。ここからシェフェールが導き出すのは、「真の表象、偽(誤っているか嘘)の表象、そしてフィクションの表象のいずれも、表象として見られるならば、同じ存在論的ステイタスを有する」(p. 135)という表象の存在論的一元性である。シェフェールは「表象」を「観念」とほぼ等価なものとして捉えているようだが、いずれにせよ彼によるヒュームの解釈を要約するなら、表象とはすべからく心と外界の相互作用によって作られ、また「〜について性(aboutness)」という構造によってのみ規定されるものであるために、そのステイタスは表象が指示対象ととりもつ関係によって決定されはしないというものになるだろう。ネコの表象は、その指示対象が実在する個別のネコであっても想像上のネコであっても、ネコ「についての」表象であることに変わりはない。実在するあるいは想像上のネコを指示することじたいが表象の表象たるゆえんだというわけだ。
ここからシェフェールは、やはりヒュームに即しながら表象の構造についての反意味論的考察をさらに推し進める。それは、印象であれ観念であれ、もちろん表象であれ、ヒュームの発想の根底には、人はその対象を存在するものとして心に抱くという考えがあるということだ。「あるものを単に考察することと、それを存在しているものとして考察することとは、何ら異ならない」という『人間本性論』の言葉を引用しながら、シェフェールは、ヒュームが「存在することは知覚すること」というバークリの命題を「(感覚と想像によって)知覚されることは、存在するものとして提示されること」(p. 136)というかたちに反転(そして変形)させたと述べる。この命題が含意するのは、表象に固有の「〜について性」がいわば心的に実在性を生み出すということである。
それゆえシェフェールは次のように言う。「事実的表象とフィクション的表象の間の違いが〔……〕表象の二つのタイプ間の存在論的断絶と対応するようなことはありえない。厳密に言うなら、一方では事実的であり、他方でフィクション的であるような境界線が表象の中にあるわけではない。」(p. 137)事実的であるとフィクション的であるとを問わず、あらゆる表象は表象であるというそのこと自体によって心的な実在性を措定する。表象は、このような実在性をアプリオリに備えるという意味において、前述したように存在論的に等しいステイタスを有するというわけだ。
ヒュームの思想から導かれるこの表象の基本構造がフィクションと事実の区別という問題に、あるいはフィクション概念にもたらす帰結はどのようなものだろうか。シェフェールはこの問題を、大きく四つの論点に分けて検討している。
まず、表象それ自体の次元でも事実とフィクションの違いが見いだされないわけではないが、それは「量的」差異にすぎないということ。上の引用につづけて「我々の知覚の世界に内的な唯一の違いは、〔表象の〕力に存する」(p. 137。強調原文)と述べるシェフェールは、ヒュームが『人間知性研究』で歴史的言説と叙事詩を比較している箇所に言及し、ここでヒュームが語用論的に定められるテクストのステイタスについては黙したうえで、詩的テクストのほうが「想像力により生き生きと、情念により強く」作用するように構成されていると述べていることに注目する。すなわち「両者の構成上の違いは、〔……〕性質ではなく程度の違いでしかない」(p. 140。強調は久保)。
それゆえ──第二はシェフェールの基本的立場の確認となる──フィクション的表象と事実的表象の領域の間に境界線を引き、両者を「質的」に分類できるのは、表象の使い方、すなわち語用論的な操作のみになる。事実シェフェールは、彼がサール(とジュネット)の説をもとに提示したフィクションの語用論的定義──共有された遊戯的偽装──とヒュームの近さを強調するかのように、この18世紀の哲学者にとっても、表象のステイタスを規定するのは「我々の信を合理的に正当化するために作り出された、それ自体で特殊な規範」に条件付けられた「表象の特定の用法」(p. 137。強調は久保)であることを強調している。
第三の論点は、フィクションの領域を「質的」に画定する語用論的枠組みの機能が、信の中和に存するというものである。上述したようにシェフェールにとって表象は「透明」であり、それゆえ我々が知覚した対象はまず──前注意的レベルで──現実に編入され、信へと変換される(シェフェールは認知心理学者ルース・ミリカンの仕事を引用しながら、言語情報についても同様のことが言えるとしている)。つまり表象の基本的(生物学的と言っても良い)機能は自発的な信の形成にあって、フィクションはこの基本的機能を遮断することによって成立するというわけである。このことはまた、フィクションの後天的・文化的性格をも含意することになろう。「〔……〕真の文化的獲得は事実性ではなく、あらゆる表象を我々の自然的傾向に従って信に変容させることを妨げる複合的な意図態度の発生、つまりはフィクショナリティの獲得ということになるだろう。」(p. 139)
だがこの語用論的に定められる境界は、事実とフィクションの二つの領域が相互に「干渉」することを妨げない。これが第四の、そして本書で最も重要なポイントである。シェフェールはこの点を、ヒュームが『人間本性論』で提示した思考実験を出発点として考察している。それは、同一のテクストをある人が歴史叙述として、別の人がフィクションとして読むとき、この二人は同一の「観念」ないし「意味」を抱くが、テクストから受ける「影響」は異なる──フィクションが与える影響は「共感」ならびに「生気と勢い」において「弱い」──というものだ。この仮説で注目すべきは、語用論的枠組みによって「質的」に定められた事実とフィクションの間の相違が、受容の次元において(再び)「量的」差異として語られているという事態である。ヒュームによれば信とは「観念がいだかれる仕方(manner)」と「観念の心に対する感じ(feeling)」に存するのであって、その「感じ」は「勢い」や「生気」といった強度の語彙によって表されるのであるから、フィクションの読者が受ける影響の「弱さ」は、信の「弱さ」に由来するということになるだろう。
この指摘がフィクションの構造を考えるうえで重要なのは、現実的信の「中和」という語用論的枠組みの機能は理念的なものであり、実際の作用は信を「弱める」ことにあるという結論が導かれるからである。もう少し正確に言うことを試みよう。語用論的枠組みはたしかに一方でサールが言うとおり表象(言説)のステイタスを論理的に決定し、表象(言説)にいわば「ラベルを貼る」ことで、信を中和するという機能を発動させる。だがフィクションの経験──シェフェールの用語でいうなら「ミメーシス的没入」──の次元でのそれは、こうした「質的」分類を行うのではなく、自発的に実在性を獲得する信にブレーキをかけるように機能する。そのためブレーキを弱めれば──ヒュームによれば現実を形成する観念連合から虚構世界をなるべく離脱させないことでそれは成される──「ウソだと分かっていても引きこまれる(ときには「信じてしまう」)」というフィクション経験が生ずることにもなるということだ。シェフェールはこの事態を次のようにまとめている。「たしかにミメーシス的没入が信の対象の確信(the assurance)にまで本当に達することはないが、生気という観点からすればそこに近づく。その近さは、記憶や感覚に結びついた出来事とフィクションが我々に作用する仕方が同一の起源に由来することを理解するのに十分なほどである。」(p. 144)フィクション的表象と事実的表象は、たしかに語用論的な次元においてはそのステイタスについての「白黒」をつけることができる。だがフィクションを経験する──ミメーシス的没入によって特徴づけられる表象の産出や受容──ということは、そのような語用論的に条件付けられた認知とは別次元の出来事であり、そこにおいて事実とフィクションは「グレーゾーン」を形成する。シェフェールがヒュームに見いだしたのは、このグレーゾーン──本書の用語でいえば「前=物語性」の領域──とそこで生じている現象、すなわち「下=人格的次元で自律的かつ自動的に作用する引力」(p. 144)によって生ずる、事実とフィクションの相互干渉であった。
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「ヒュームはすでに、フィクション的態度と〔現実に〕コミットした事実的態度の間の違い並びに両者の相互浸透性は、遊戯的偽装とミメーシス的没入の機構の結合によって説明されることを完全に理解していた」(p. 144。強調原文)と18世紀の哲学者の先駆性を自らのフィクションの定義に引きつけて評価するシェフェールは、つづいて現代の認知科学やそれに影響を受けた認知物語論の成果に基づいて事実とフィクションの相互干渉という問題の検証に移る。
とはいえシェフェールが検討している学説を逐一紹介するには及ばないだろう。重要なのは、物語認知に関心を抱く研究者たちによって、人はフィクションから得た(真実でないかもしれないと分かっている)情報を、通常そう思われているよりもたやすく自らの現実認識に組み込んでしまう傾向をもつという事実が示されたことである。たとえばエリザベス・マーシュのグループは、誤った情報を含むフィクションの物語を読ませた人々が、その物語に接していない人々よりも、関連する事実について問われた際に誤った解答をする割合が高いことを示した。また風説に対する注意的態度を研究したダニエル・T・ギルバートによれば、我々には真偽を問わずあらゆる情報をデフォルトで真として表象する認知バイアスがある。この主張はもちろん、ヒュームの説と一直線につながるものだ。このように認知科学的研究は、ヒュームの想定をさらに先に進め、フィクションと事実の二つの領域の間にあるのは壁のように堅固な境界というよりむしろ「半浸透膜」(ラパポートとシャピロ)であること、フィクションの認知に現実的信が介入するのみならず(さもなければほとんどの小説は理解不能である)、フィクションの現実的信への介入も語用論的枠組みによって必ずしも妨げられないこと、またそれゆえにフィクションの領域と事実の領域を厳格に分ける「隔離主義」(トマス・パヴェル)がフィクション経験の特性を記述する上では役に立たないことなどを明らかにしているのである。
これら認知科学プロパーの議論そのものよりも我々にとって興味深いのは、ヒュームから認知物語論へと連なるフィクション理解が文学研究になしうる具体的な寄与だろう。この点についてシェフェールが示唆していることを最後にみておく。
第一は文学の自律性あるいは逆にその「効用」の問題に関わる。フィクションの現実的信への感染力は、読書の快楽に比重をおき情報制御機能を低下させる「没入」という受容態度に由来するというマーシュたちの説と、物語の影響力はその「生気(vivacity)」の程度に左右されるというヒュームの説を参照しつつ、シェフェールはフィクションのこうした性質が、何らかの政治的、道徳的な「バイアス」を作り出すことを認め、この観点から、たとえば歴史修正主義的小説のようなフィクションの有害性を説明している。「〔……〕指示上の真実性を要求しうるのはただ事実的物語のみであるから、歴史的物語のみが歴史修正主義的でありうることはたしかにそうだとしても、それは必ずしも偏向したフィクションが歴史修正主義的な事実的物語と比べ、いかなる場合でもその効果が少ない(それゆえこの場合には有害ではない)ということを意味しない。」(p. 156)ここに認められるのは、もちろん、プラトンが『国家』で表していた──そしてビデオゲームやバーチャルリアリティに対して現代人が示す警戒にもつながる──フィクションの感染力に対する危惧である(逆の場合には教育効果となるが)。こうしたフィクションの影響力が歴史修正主義だけでなく、宗教やプライバシーなどしばしば政治的・法的係争を引き起こす主題を扱うフィクションについても問題となることは言うまでもない。「このドラマはフィクションであり……」という語用論的枠組み(あるいは「言い訳」)が通用しないフィクションの効力をどのように説明するかという問題は、今なおフィクション理論にとっての「アキレス腱」であり続けている。本書で提示されたフィクション認知と信に関する議論は、この問題に一つの展望を示すものである。
もうひとつは小説の技術に関する提案である。19世紀の西洋近代小説が発達させたもっとも重要な物語技法の一つに、異質物語世界的物語における登場人物の内的焦点化があることは言を俟たない。言葉によって他者の視点から世界(と自己)を生きるという現実には「あり得ない」この叙述の技法を、ケーテ・ハンブルガーは統語論的なフィクション指標の一つとして位置づけ、またアン・バンフィールドはダイクシスの「異常」な用法として研究した。このように現実原理から乖離した語法を、シェフェールは、心的シミュレーションの言語活動としてとらえることを提案する。すなわち小説という言語フィクションが「その発展を通じて、言語の〈表象的(représentationnel)〉構造を無力化し、純粋に〈提示的(présentationnel)〉な用法に引き寄せる目的をもつこのような技術を発達させた」ことは偶然ではなく、そこには「没入的シミュレーションを最大化する力学の圧力」が働いたのではないかというわけである(p. 158)。もちろん言語のこうした傾向性によって小説のフィクショナリティが説明しつくされるわけではない。18世紀の小説がしばしば日記や回想録などを形式的に模倣していたという事実ひとつをとっても分かるように、フィクションの領域を画定する語用論的枠組は、小説のフィクショナリティについての主要な問題でありつづけている。とはいえ小説の技術史を認知科学的な視点からとらえることはこれまでほとんどなかったアプローチであり、物語論や文学研究の新たな可能性をここに見いだすことができるかもしれない。
※本稿で言及したヒュームの著作については以下の邦訳も参照した。
デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』(第一巻 知性について)、木曾好能訳、法政大学出版局、1995年。
─『人間知性研究 付・人間本性論摘要』、斎藤繁雄、一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局、2004年。