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「シーン」、あるいは、共存の空間 / 森本淳生

更新日:1月25日

【2023年12月23日に開催された、ジャック・ランシエール『文学の政治』(森本淳生訳、水声社、2023年6月刊)オンライン合評会(フーコー研究フォーラム主催)の記録】

 

【合評会冒頭の書物紹介】

 

 本日はランシエール『文学の政治』の合評会にお集まりくださり、ありがとうございます。ご準備いただいた佐藤嘉幸さん、コメンテーターをお引き受けいただいた市田良彦さん、熊谷謙介さん、鈴木亘さんにまずは厚く御礼を申し上げます。私がこれまで発表してきた本や論文、翻訳は大抵の場合「沈黙」をもって迎えられてきましたので──たしかに「沈黙」は象徴主義を研究する者として尊重すべきものではありますが──今回のように錚々たる方々からコメントをいただける機会は大変ありがたく、また同時に身の引き締まる思いです。

 本書の内容については、これから三人のコメンテーターの方から具体的にお話があると思いますので、ここで詳しくご紹介することは控えますが、それでも『文学の政治』というこの書物が、ヨーロッパの「近代文学」の理解を独特な仕方で刷新したきわめてユニークな省察の書である、ということだけは述べておきたいと思います。この本には、1979年初出のブレヒト論をのぞくと、1997年以降、おもに21世紀になってから発表された比較的新しい論考が、「仮説」、「人物」、「交錯」の三部に分けて再録されています。まず、「仮説」に収められた「文学の政治」と「文学的誤解」、それから「人物」と題されたセクション冒頭の「エンマ・ボヴァリーの処刑」を読むと、ランシエールの文学論の基本的な輪郭が理解できると思います。それに続くのが、トルストイ、マラルメ、ブレヒト、ボルヘスを個別に論じたテクスト。そして、最後のセクションでは、文学が精神分析、歴史学、哲学といかに交錯するか、あるいは、一見逆説的に響きますが、むしろこれらの学問分野(ディシプリン)の前提としていかに近代文学が作用しているかが考察されます。本書を通じてランシエールは、近代文学を成立させる諸要素を理論的かつ歴史的に明らかにするだけでなく、それが作家たちの具体的な制作実践にどのように現れているのか、隣接する人文諸科学とどのような関係にあるのか、そして、そのようなものとして文学はいかに「政治」を行うのかについて洞察を与えてくれます。

 言うまでもないことですが、文学と政治の関係は、ソ連をはじめとする多くの社会主義国家が存在し、世界各地で左翼運動が盛んであった時代には、しばしば議論の俎上に載せられた話題でした。プロレタリア文学の文脈では文学は政治に従属するものとされ、革命の実現や共産主義国家の建設に資するような作品が求められる一方、そうした従属を問題視するモダニズム的な立場からは、文学や芸術の「自律性」が強く叫ばれもしました。これに対してランシエールが提示する分析は、こうした議論の前提そのものをいわば問い直すような性質のものです。彼の言う「文学の政治」とは、作家たちが行う政治活動や、作家たちが社会をいかに描いているかといった問題を言うのではありません。「文学は文学として政治を行う」というのです。文学の一般的なイメージからすればかなり逆説的な言い方に見えますが、これはいったいどういうことなのでしょうか。

 これを理解するには、プラトンやアリストテレスを参照しながら展開される彼の政治論を見る必要があります。ランシエールによるなら、「政治」とはたんに支配手段を独占した権力の問題ではありません。既存の体制において、何が「対象」として可視化され、いかなることを「語る」ことができ、誰がいかなる「行為の主体」になりうるのかを定めている境界線のあり方──これをランシエールは「感性的なもののパルタージュ(分割、分配、共有)」と呼びます──こうした境界線を攪乱し、ふたたび引き直すような試みが「政治」なのだというのです。たとえば──最初期の著作『プロレタリアの夜』以来、彼にとって大変親しい例になりますが──いままで自分の仕事以外の時間を持たぬと見なされ自分でもそう考えていた労働者たちが、明日への活力を養うために休息すべき夜や休日の時間を割いて読書や執筆といった活動をするとき、パルタージュのあり方が変わり「政治」が生じる、というわけです。

 対象・言語・行為に関する分割線を再定義する実践が政治だとするなら、文学もまた、まさに文学のレベルにおいて政治を行えることになるでしょう。ランボーの「無疵な魂などどこにいよう」という有名な詩句は、日常的な散文表現のなかに新約聖書の文言を響かせつつ、「おお 季節よ 城よ」という詩句と響き合うことで謎めいたものになります。いかにささやかであれ、このように言語とそれが分節化する対象の分割線を引き直し、主体のあり方を変える営為は、ランシエールによれば「政治」にほかなりません。本書『文学の政治』では、こうした意味での「政治」──「文学が文学として行う政治」──が多彩な作家と作品の分析を通して具体的に考察されています。

 

【評者へのレスポンス】

 

 市田さんがご指摘になった「舞台」や「演劇化」の問題は、おっしゃるとおり、ランシエールの思考のキータームのひとつです。本書でおそらく最も印象的なのは、マラルメが労働者と遭遇する「闖入者」で描かれた「場面」ということになるでしょう。「舞台」はフランス語でいえばscène、すなわち「場面」、「シーン」でもありますが、これについては、市田さんがお訳しになった『平等の方法』の中にまさに「シーンをどう定義するか」と題されたセクションがあり、ランシエールはそこで「シーン」とは彼の方法そのものであること、それは「特異性を選び出してその可能性の条件を再構成すること。再構成に際しては、その特異性の周りに編み上げられた意味作用のネットワークを探索する」ことなのだと述べています(邦訳、p. 135)。これはワンセットの一般規定を用意してその帰結を導き出すというありがちな方法ではなく、まずもって何が「シーン」になりうるのか、いかなる意味でそれが「シーン」であるのかを、注意深く見極めなければならない、その意味で「シーンの同定はつねにシーンの構築」(p. 136)であり、「シーン」を構成するさまざまな異質な力線とその関係を根気よく見分けていくことが重要になります。個人的には、こうした「シーン」に対するランシエールの感性とでもいったものには、いささか感動するところがあります。

 市田さんが指摘されたもうひとつのポイント、「転覆」と「反転」との「二重の包摂」をめぐって本書『文学の政治』に即して言うとすれば、それは「文学革命」という「転覆」によって可能になった言語の無差別な場において、異質で相互に矛盾すらする諸要素が「共存」する作品の問題につながるのだと思います(ちなみに、「共存」も市田さんが引いておられるように『平等の方法』に見られるキータームのひとつです)。つまり、近代的な意味での文学において作品とは、異質でつねに「反転」しあう種々の力線がおりなす「共存」の空間、それ自体がひとつの「シーン」であり、市田さんが引かれたアルチュセール論に倣って言うなら、まさに「舞台としてのテクスト」であるわけです。

 

 以上の二点を前提として、ランシエールがしばしば言及するマラルメの詩篇「垂れ込む雲に沈黙しÀ la nue accablante tu」を取り上げてみたいと思います。というのも、熊谷さんや鈴木さんはコメントの中で、マラルメの挫折や袋小路を提示するように見えるランシエールの読解を問題とされていたからです。「闖入者」における『賽の一振り』のネガティヴな読み筋──つまり、天空の星々が象徴する〈イデー〉を求めながらも、『賽の一振り』は星座や沈む船をページ上のレイアウトで模倣するプリミティヴな視覚的ミメーシスに陥ってしまった、という読み筋──を取り上げながら、鈴木さんは、こうした「出口なし」の詩篇の読解は、「解釈とはそれ自体が現実的な変化である」(本書、p. 53)、つまり解釈自体が感性的なものパルタージュの再編成の実践であり一種の政治たりうる、というランシエールの別の論点で補完されるべきだろう、と考えておられます。熊谷さんは、「ランシエールは、マラルメは自らの詩の企図を先延ばしすることで、ファシズム、政治の美学化にも通じる危険を回避したと指摘しているように思われるが、こうした論じ方は、これまでのマラルメ論の常套句(絶対に対峙するなかでの、挫折、不能、虚無…)を踏襲したものになってしまったのではないか」と指摘されておられます。市田さんも指摘されていた、時間概念が「禁止のアリバイ」として作用する、あの「まだそのときではない」と宣言するエリート主義からマラルメもまた自由ではないのではないか──。

 たしかに『賽の一振り』の読解はネガティヴな結論を示しているように見えますが、『セイレーンの政治学』の冒頭に登場する「垂れ込む雲に沈黙しÀ la nue accablante tu」の分析の方はどうでしょうか。詩篇は次の通りです。

 

垂れこむ雲に沈黙し

玄武岩 火山岩の暗礁か

雲間にじかに響く奴隷の谺

警笛の甲斐もなく

 

墓にも似たいかなる遭難が(お前は

知っているが、泡よ、そこで涎を垂らすばかり)

最後の至高の漂着物である

帆も帆桁もないマストを消し去ったのか

 

あるいは 貴い喪失が何も

ないことに怒りくるった

深淵が空しくも口を開き

 

たなびく真白な髪のなかに

貪欲にも溺れさせたのか

セイレーンのあの幼き横腹を

 

簡単に言えば、このソネットは中心部、第9行の「あるいは」を軸とする「二者択一」によって構成されています。つまり、海面に一筋の白い髪の毛のような泡が見えるが、これは、ある帆船が人知れず難破し海の底に消えて行った痕跡なのか、あるいは、幼いセイレーンが身を翻して海中に姿を隠したその跡なのか、という二者択一です。ランシエールはこの詩を秘教的だとする見解を退けながら、この詩篇の「意味するところ」は決して難しくはない、重要なのは以上のような二者択一による「統辞的分節化」を明確に捉えることだ、と述べています。彼によれば、「詩を読むとは、物語を再構成することではなく、物語の潜在性を、詩がわれわれに提示する複数の仮説のあいだの選択を再構成すること」(邦訳、p. 26)だからです。「複数の仮説」が潜在的に生み出す分節的構造を再構成すること、ここに見られるのは先ほど確認したような「シーン」、反転しあう異質な力線が織りなす共存の空間にほかなりません。つまり、ランシエールは「垂れ込む雲に沈黙し」という詩篇を読解するにあたっても、彼の「シーン」の方法を用いてと考えられるわけです。

 熊谷さんは「ボルヘスとフランス病」の「探偵小説」論などを踏まえつつ、文学革命後の文学にあっても──あるいは同じことですが、美学的体制においても──「文芸」的な、あるいは模倣=再現的/表象的représentatifなものが作品に残存し、一種の「混合体」が見られることを指摘されました。『ボヴァリー夫人』の有名な農業共進会の場面でも、県参事官が述べる仰々しい演説は夏の午後のけだるさと動物の鳴き声へ、ロドルフがエンマを口説く誘惑の言葉はヴァニラの香水と乗合馬車のたてる土埃へ、つまり、意味を欠いた雑音や些細な動きのうちに消えていき、近代文学の無差別な体制、ドゥルーズ=ガタリの言葉を使うなら、分子状のミクロな出来事、純粋な強度的差異のレベルへと解体されていくわけですが、エンマ自身は自分が主体として愛に身を投じていると信じています、つまり、古典主義的な行為の詩学の中に留まっているのです。

 マラルメの詩に戻れば、この作品に見られるのも、そうした「混合体」の問題です。難破する船のテーマは、金羊毛を探しに出かけたアルゴー船の神話を踏まえつつ、当時書かれたユゴー、ヴィニー、エレディアなどの航海と難破の作品のあとを受けて書かれていますが、これは要するに、近代という幻滅の時代において黄金という理想を求める詩人の挫折、行為という古典主義的な文芸の原理がいまだ可能だと信じて探究に出発する人々の破滅に他なりません。世間はそんな詩人の探究などには無関心だ、というわけです。これに対置されるのが、セイレーンが引き起こす泡という「とるにたりないもの」です。マラルメが可能性を感じているのは、この無に等しい微細な差異の方なのですが、もちろんこれをそれ自体として詩の理想の実現と言うことはできません。二者択一構造が生きてくるのはここにおいてで、マラルメは詩について──近代の文学的体制から見て──望まれるべき何かを、先行する文芸的な詩学と組み合わせ、両者がたがいに反転しあうような二者択一構造に組みこむことで、近代世界において詩が置かれている場自体を示して見せた、そのようにランシエールの読解をまとめても間違いではないと思います。

 こう考えると、ランシエールのマラルメ読解は、つねに挫折や袋小路を強調するものではなく、鈴木さんが引いておられた『解放された観客』所収のテクスト「物思いにふけるイメージ」の『ボヴァリー夫人』論、あの「描写と叙述、絵画と文学が、役割を交換し合う」重ね合わせについての議論につながっていきます。そこでもまた「感性的にミクロな出来事の連鎖が、原因と結果という古典的な連鎖〔……〕に、重なりにやってくるのだ」という言い方で、文芸と文学とが作品内で共存していることが指摘されていたのでした(邦訳、p. 158)。

 私としては、「闖入者」に見られる挫折や袋小路の指摘と見えるものも、こうした共存の詩学の一要素として捉えておきたい、と考えています。実際、「文学の諸矛盾についての試論」という副題を持つ『沈黙の言葉La Parole muette』で典型的に分析されているように、近代文学の作品は異質で相矛盾する要素によって織りなされています。ということは、ランシエールの議論の結論は、必ずしも文学に対する最終的な評価ではなく、身も蓋もないことを言うようですが、ひとつの論考はいつかは終わらなければならない、筆を置かなければならない、という物理的制約から来るものだとも考えうるわけです。ページのミメーシスはそれ自体が、近代文学の矛盾的要素のひとつを構成するものなのだと思います。その意味で、鈴木さんが指摘されたように、『イメージの運命』に収められた「デザインの表面」で、『賽の一振り』のタイポグラフィーが、工業デザイナーであるペーター・ベーレンスの作品と類比されている事実は重要です。転覆後に現れる「共存の空間」においてはひとつの契機は別の契機へとたがいに反転しあう。これが市田さんの重要な指摘でした。マラルメについてのランシエールの分析についても同じようなことが言えるかと思います。『賽の一振り』の視覚的ミメーシスも最終的な判決の言葉ではなく、あるい共存的布置においてその一契機として機能していると読めるのではないでしょうか。

 

 さて、熊谷さんからは「ランシエールは20世紀以降の文学(プルースト、ヴァレリーなど)・芸術が向かうところをどのように見ているか」という問題提起をいただきました。このふたりの作家については『沈黙の言葉』の結論で比較が行われています。

 ごく簡単にまとめれば、ランシエールにとってプルーストは「文学の矛盾的詩学la poétique contradictoire de la littérature」(原書、p. 172)を体現する作家です。先ほどのフローベール理解を思わせる言い方でランシエールは次のように言います。プルーストの「決断は、ひとつの文章の中にふたつの詩学を結びつけることである、すなわち出来事の物語の詩学と、象徴の展開の詩学とである。」(p. 171)伝統的に文の装飾的要素と考えられていたもの(比喩など)が独自の価値を帯び、書物の本質的要素となる、と同時に、このようにして通俗的な耽美主義に抵抗して生み出される「書物」は、顔をもたぬ読者に読まれる「彷徨する文字」でもなければならない、というわけです(ちなみに、こうした議論の流れの中では当然のことながら、「両義的なシーン/舞台la scène ambiguë」という表現が出てきます)。これに対して、ヴァレリーの立場はヘーゲルの「芸術の終焉」論に擬えられています。ヴァレリーは有名な断章の中で、文学を声の抑揚に結びつけ、黙読が主流となった現在では文学は大きく変質したという考察を展開していますが、ランシエールはこうした古典主義的な分析を受けて、ヴァレリーにとって文学とは「思考の過去」であり、いまや文学についての明晰な省察だけが残り作品自体は消滅することになるのだ、と論じるのです(p. 170-171)。

 ヴァレリー研究者からすると、ランシエールのこの論評は正しい部分ももちろんありますが、いささか性急なようにも見えます。ヴァレリーがきわめて保守的な審美観をほとんどこれ見よがしに示したのは確かであり、注文原稿を書くようなかたちで書かれたテクストを除くと、彼の詩作品が決して分量が多いわけではないのも確かです。それでも『若きパルク』(1917年)などいくつかの詩篇はやはり「本気で」書かれたものであり、ヴァレリーが作品を完全に否定していたわけではありません。ランシエールの議論に即して言えば、彼の言う近代文学を構成する「矛盾」は、ヴァレリーにおいては、プルーストとは別のかたちで現れていたと言うべきだと思います。つまり、一方では古典主義詩学の審美観を引き継ぐような伝統的な韻文のうちに文学の理想が求められ、実際、それを目指した制作が行われる。他方で、ミクロな解体の方向性としては、ヴァレリーが生涯にわたって書きつけた『カイエ』の中で、文学は言語事象に、言語は精神事象に還元され、意識的思考の基盤を求めて、意識成立以前の睡眠下の心的空間が思考実験的に分析される。詩的制作行為の主体はこうして、心的イマージュといった要素とそれらの関係に分解されていき、ヴァレリーはこのミクロな次元から出発して行為の主体がいかにして生成しうるのかを考えたわけです(この点については拙論を参照ください:Paul Valéry. L’Imaginaire et la genèse du sujet. De la psychologie à la poïétique, Lettres modernes Minard, 2009)。プルーストが「ひとつの文章の中でふたつの詩学を結びつける」とするなら、ヴァレリーは彼自身の実存において、ミクロな次元と主体の次元を架橋することを考えた。代表作『若きパルク』はそうした架橋の記念碑的な作品と言ってよいと思います。

 

 ところで、鈴木さんはランシエールの「文学論と芸術論の関係」を話題にしておられましたが、『沈黙の言葉』の末尾にはこの問題に関する1998年段階でのランシエールの考察が書きつけられています(p. 173-176)。文学革命後の言語は文学性の明示的な徴を失い、逆に近代においては、可視的な事物こそがより豊かな表現力を獲得するようになります。しかし、ランシエールによれば、「こうしたエクリチュールの貧困」、言語という「手段の弱さ」こそが、文学を優れて「懐疑的な芸術」にしうるものなのでした。実際、マルセル・デュシャン的な「レディ・メード」の作品は、あまりにもあからさまに芸術家の意図を表してしまうので、意図という前=美学的体制の機制を無効にするためには、同時にこれもまたあからさまにこの芸術家の意図を否定して見せなければならなくなります。それに対して、小説の場合、フローベールのような名文家であっても、すこしでも気を抜けばその文体は当時の流行作家ポール・ド・コック程度のものに堕してしまうでしょうし、両者を区別する徴はほとんどあるかなきかのようなものにすぎないでしょう。作者の意図は文体のうちにはっきりとは現れないのです。だからこそ、逆説的になりますが、言語という弱い手段を使う文学こそが優れて、作者の意図を作品に実現すると同時に否認することができる、その意味で、芸術の美学的体制を最も巧みに表現できることになるのだ、というのです。

 熊谷さんが提起された、マラルメ的なフィクションの美学的体制における意義については、直接的にお答えすることが難しいのですが、それがランシエールの言うパルタージュの再定義と関わるものであることは言えそうな気がします。「シーン」を新たに構築してそれまで見えなかった存在を見えるようにする「政治」の営為には「二面性」がある。すなわち、新たな主体の創造であり、同時に主体の解体です。主体の創造だけでは新たな事態は「体制」へと堕していくほかはない。主体はつねに解体される必要がある。それを──全面的とは言えないかもしれませんが本質的な意味で──担うのがフィクションの作用ということになるのでしょう。「政治」はつねに「文学」という裏箔によって担保されている──そのように言ってみたい誘惑にも駆られます。そこにまた共同体論との関わりも見ることができるのかもしれません。『文学の政治』には積極的な意味での共同体論は見られませんが、「政治」の「裏箔」としての「文学」というかたちで、来るべき共同体の重要な契機としてフィクションが想定されているように見えます。

 最後にもう一点だけで、市田さんがおっしゃった「政治上の革命は挫折を運命付けられているのに、文学革命に失敗はないのです」という指摘について述べておきます。芸術の美学的体制には終わりが来ないのではないか、とすれば、これは「人間学から終わる可能性をうばってしまう」ことになり、革命が起きぬまま、私たちは現在の社会体制の中で今後もずっと生き続けることになるのではないか、というご指摘だと思います。政治革命の未来については私には語る能力も知見もありませんので、この問題について何か言うことはできませんが、ランシエールが言う「文学革命」は人間学を終わらさないまでも、人間学にいくつかの「亀裂」を入れるものではないか、と同時に、そうした亀裂を入れる可能性が、すくなくとも潜在的には万人に対して平等に開かれる事態に到った、というところに私としては積極的な意義を見たいと考えています。きわめてささやかな可能性ではありますが。

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